自民党・杉田水脈衆院議員が『新潮45』(8月号)に寄稿した論文「LGBT支援の度が過ぎる」に端を発した騒動。同号が発刊されるや杉田氏への批判、そして自民党本部への抗議活動へ発展した。さらに今月18日発売の同誌10月号で「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」と題した反論記事が掲載され再び波紋を広げた。一部メディア、SNS上ではいつものお馴染みの面々が声を挙げ「差別だ」「廃刊だ」と大合唱。結局、同誌は休刊という結末を迎え、この騒動も幕が閉じようとしている。しかし本当にこれでいいのかよく考えてほしい。新潮45の杉田論文や擁護論が生じた原因は「人権派」にあることを。
実は本稿が『新潮45』が休刊を発表する9月25日以前に作成しており、まさか休刊に至るとは思ってもみなかった。ニュース記事などを見ると杉田氏の「LGBT支援の度が過ぎる」に対して「杉田論文」という略称がついている。あれが「論文」という部類なのか分からないが便宜上、ここでは「杉田論文」とする。すでに指摘されているが「杉田論文」はいわゆる「炎上商法」と論じられてきた。この点については同意する。杉田議員は保守層に人気があり、一方野党支持者は右翼反動の権化として扱われる。こういうキャラクターが今現在、最も注目されるLGBTを批判し賛否が起きるのは自然の成り行きだ。最も批判が殺到したのはこの記述だろう。
例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかしLGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。しかしそこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすることが自体がおかしいと思っています。T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。
この記述については軽率だと思う。人間が人間に対して「生産性」という言葉を用いるべきではない。子供が作れないから「生産性」がないというのは独身者や不妊症の人などどうなるのだろう。不快感を抱く人がいても無理かなぬことだ。それに「税金が投入される」というのも腑に落ちない。約16兆円もの莫大な予算が投じられた同和事業と比較すればLGBTへの予算などないに等しい。現状の同性パートナーシップ制度や法案、条例の類も要は政治なり行政が「取り組んでいる」というポーズに過ぎない。また今後、LGBTに対して同和事業のような莫大な給付制度や貸付金制度が実施されるのはありえないだろう。保守派議員というものは往々にして面倒な問題やタブーを避けるものだ。バッシングしてもリスクがないLGBTならば舌鋒鋭く批判するというのもおかしい。
しかし後半部、LGBTが議員らの人気取りになっている、という点についてはまさにその通りだと思う。またLGBTと一口に言っても全く問題も性質も異なる上、トランスジェンダーまで同一視しているのは確かにおかしい。にも関わらず現在は「LGBT狂騒」と言ってもいい。これには行政にも問題がある。現在、自治体も競うようにLGBTを冠した諸制度を進めている。行政はいったん「これが人権だ」と思い込んだらもう一直線。議会、住民からも反論がしにくい「人権施策」は行政職員の業績PRに最適である。こうした政治家、自治体の特徴を議員の視点で検証すればそれこそより生産的な内容になったはずだ。杉田論文は難もあるが、賛同できる部分もあったというのが率直な感想だった。
そして杉田論文に対する擁護論が新潮45(10号)が掲載されたことで再び人権派たちの怒りが再燃した。執筆陣を見ると文芸評論家の小川榮太郎氏、評論家の藤岡信勝氏、YouTuberのKAZUYA氏ら著名な保守派の論陣が並んだ。
案の定、左派・リベラルの文化人・ジャーナリストの類がこれに噛みつく。SNSを中心に続々と怒りの声が挙がった。また新潮社社内からも批判が起きたことも話題に。9月18日に新潮社出版部文芸@Shincho_Bungeiというアカウントが「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」に対して批判コメントを投稿。その後削除されたものの翌19日に再開され「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事(佐藤義亮)」と創業者の言葉を引用した。さらに21日には同社・佐藤隆信社長の談話が発表された。
弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらを鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。
株式会社 新潮社 代表取締役社長 佐藤隆信
こうした人権問題が起きるといつもの顔ぶれが怒るものだ。そしてメディア側も即座に弁明に走る。佐藤社長の声明文を見ると「差別的な表現」とあるが、どの点が差別だったのか、またどの点が偏見で認識不足だったのか具体的に示されていない。出版社としてどこに問題があったのか明示することもなく「差別」「偏見」と断じるのは安直だ。要するに「火消し」に走っているにすぎない。こういう事態が起きた際のテンプレート声明文といったものだろう。それにこの企画自体、偏見や差別と片付けていいものか。なぜなら同性愛をカミングアウトしている松浦大悟元参院議員も寄稿しているからだ。松浦氏は杉田論文におけるLGBT批判に苦言を呈しつつ、いわゆる「反差別」に対しても批判を加えているのが印象的だ。
7月27日、自民党本部前には主催者発表で5000人が集まり、杉田発言への抗議デモが行われました。ところが、多くのLGBT当事者から「なぜ、反天皇制や安倍総理退陣のプラカードを掲げるのか?」との声が上がっていたことは意外にも知られていません。デモを主催した東京レインボープライドは毎年5月に渋谷区でLGBTパレードを実施しているのですが、差別主義者への過激な抗議行動で知られるしばき隊のメンバーが数年前から参加するようになり、今回はデモに慣れている彼らが目立つ形でのアクションとなったようです。暴力的な言葉が飛び交うデモに違和感を覚えた人たちによる議論は、いまもネット上で続けられています。
松浦氏はLGBTが「特権」化しているという保守派の主張に対しては異議を唱えているが、同時に過激な抗議行動にも問題意識を持っていた。人権派は普段、「少数派の声を聞け」「当事者の声を聞け」という。同和、在日、アイヌ、沖縄、障害者・・こうした人権問題が起きると必ず当事者を天下御免の印籠のように振りかざすもの。実際に「当事者」である松浦氏が寄稿したわけだが、ならば最低この松浦氏の記事については批判者たちも耳を傾けるべきだ。「当事者の声は最優先だったのでは?」と言いたくなる。もし松浦氏の主張までも「差別」「偏見」というならばおかしい。当事者として堂々と意見したに過ぎない。
人権派あるいは左派文化人の言う「当事者」とはご自身の主張に適合する人に限る、というものだ。TV、新聞、ネットニュース、様々な場面で「当事者」の声が紹介されたが、逆に「杉田論文」が問題ない、支持するという当事者の声が紹介されたのは聞かない。これはLGBT問題に限らない。同和、在日、アイヌ、沖縄に限らず「差別はない」と主張する当事者は少なからず存在する。ところがどうだろう。人権派や左派の諸氏はこうした意見を批判し、罵倒することもある。それも当事者の声なのに、だ。つまり尊重すべき「当事者」と排除すべき「当事者」がいるらしい。この矛盾を解消しない限り保守派から巻き起こる人権問題への批判やバッシングは鳴り止むことはないだろう。まずこの点を考えてほしい。
まるで共産主義国の自己批判のように
杉田論文の構成が粗雑で、まるで「炎上商法」のようだったとしても「廃刊」で幕引きされることがベストだったのか? それにこうした雑誌企画が立案されるのも「人権派」もっと言えば問答無用で「差別」を連呼してきた人々の責任も大きいのではないか。彼らのマインドは常に「論じること自体が差別」である。こうした人々はどんな「生態」なのだろう。あるエピソードを聞いてほしい。
もう10年ほど前になるだろうか。部落解放同盟中央本部のシンポジウムに参加したことがあった。まだ東京都港区六本木に本部があった頃だ。中央本部は1階に事務局、2階に大会議室があった。おそらく200人ぐらいは収容できただろうか。最初に到着し広い会議室で一人、開始を待つ。するとそこに女性がやってきた。無造作に伸びた髪、痩せこけた体、もう見るからに病んでいるとしか思えない風体だ。いわゆる「メンヘラ」という人であろう。場内には私と二人。ところがなぜか私の隣に座る。
「なぜだ? なぜこれだけ席が空いているにも関わらず隣を選んだ?」こういう疑問を抱く間もなく何やら話しかけてくる。何でもご自身も辛い人生を歩んでいるという。たびたび「怖い、怖い」と呟いている。
さてシンポジウムでは弁護士や運動家の講演の後、4人1組になりグループディスカッションを行うのだ。テーマは「私が受けた差別」。4人がそれぞれ今まで受けた差別を報告し合うというものだ。単に席が近いこともありあの女性も同じグループである。そして各々が差別体験について語っていく。私以外は女性ということもあり多くは「女性差別」に関するものだ。そして私の出番だ。かといって人生、様々な苦難はあったが「差別」と言える経験があったかどうか。
「いやそんなことはない。差別はあったでしょ」
各グループを巡回する講師にせかされる。分からない。なぜ差別経験ありきで進まないといけないのだろう。しかしこの場では「差別体験はない」ということは許されない。人権意識が低いということになってしまうのだ。
そうこうしているうちに「あの女性」の出番だ。「私は、私は・・怖い、怖い」。こういう言うとなぜか突如、体が痙攣し始め口からは泡のようなものを出している。結局、スタッフに抱えられ退場していくのであった。この間、わずか十数分のことだが、まるで嵐のようなひと時である。
さてこうしたグループディスカッションはかつて解放教育が盛んな時代、地域の学習会でも行われていたものなのだ。実際に参加したことがある経験者たちの話をまとめるとその多くは「自分が行ってきた差別」を告白するというものである。「私はこんな差別をしてきました、反省します」と。ここで「ない」と答えることは「差別に対する意識が低い」ということになり逆に吊し上げを受ける可能性すらある。共産主義国にあった「自己批判」やあるいはキリスト教の「告解」に近いものだろうか。
こういう運動で生み出されるのはまさに「人権紅衛兵」。その行動パターンは簡単だ。問答無用で差別の連呼と罵倒。気に入らない相手に対しては集団で取り囲む。そして困った時の非通知の罵倒電話。もちろん議論や対話できるだけの能力も知見もない。さらにこんなことが「正義」と思っていることの恥ずかしさ、情けないさを決して自覚することはないだろう。この現象などまさにそうだろう。9月24日、新潮社の文庫版の看板広告「Yonda?」のキャッチコピーに「あのヘイト本、」と落書きで付け加えられた。おそらく落書き主も今頃、正義心満々でほくそ笑んでいるこに違いない。
思うに人権、政治運動、動物愛護、環境問題は「メンヘラ」と相性がいい。身をもって知ったことだ。「自宅前に公安とCIAがいる」「ロスチャイルド家が私を監視している」「反日創価が電磁波攻撃をしてくる」先に挙げた運動でこういう手合いには何度も遭遇したし、実際に抗議を受けたこともある。保革・左右、横断して存在するのが特徴的だ。人権にもこんな闇の世界の住民が存在する。なぜか平日昼間にデモやビラまき、裁判傍聴に参加できるのもメンヘラな人々。一般的な社会生活や社会規範から相当ズレた面々である。今回のような騒動が起きた場合、多かれ少なかれ病める世界の住民の声も含まれる。もちろん杉田論文に対する抗議にも例外なく「住民」は存在しているに違いない。彼らに何が「差別」なのか考察する能力は果たしてあるものか。
あるいはLGBTに限らず怒るタイミングを待つ人も少なくない。騒動の内容とは無関係で怒りの矛先を待ち構える層だ。あるいは事が起きればSNS上などで「差別だ」と怒るメディア関係者、文化人ら著名人もここに属するかもしれない。共通するのは理屈抜きで「差別」と言い続けなければならないことだ。仮に杉田論文がエビデンス資料と理論を持ってLGBT批判をしていたとしても「差別」と断じられたのは容易に想像できる。メンヘラ系、怒るタイミング系、著名人系も「論じること自体が差別」と思い込んでいるからだ。
論より抗議という風潮を生み出した
本来、人権問題があった場合、一体何が差別で、どこに問題があったのか検証されなければならない。先に挙げた新潮社の声明文も検証というものがない。一方で抗議者たちはとにかく「差別」「廃刊」の連呼。それもそのはず。文化人でも人権活動家でも「十分に検証されるべき」などと仮にこのような発言をした場合、自身らも差別者の烙印が押されるかもしれない。もちろん杉田論文擁護者たちからの批判があろうとも「差別者」という認定の方がよほど恐怖なのだ。仮に当事者から「差別ではない」という言説があったとしても、それに追従することはできない。その当事者の「意識が低い」あるいは「矮小化している」という人権運動家が作り出したテンプレートに追いすがることになるだろう。
よく考えてほしい。LGBTという用語が一般化したのはごく最近のことだ。ところがわずかの間でここまでの社会現象になる。そして普段は腰が重い行政が「はい喜んで!」とばかりにLGBT施策に奔走する。なにしろ必死だ。LGBTの祭典「東京レインボープライド」では自治体の職員たちの参加も見られた。えてして自治体の職員とは地味目で堅物なものだ。ところがあの場に限ってはパフォーマーたちと「イエーイ」「ヘーイ」とやるあのハイテンションぶりは何なのだろう。そしてLGBT対策に向けた行政の異様なスピード感。そんなに普段、即決で柔軟にモノを考えられる人種だったか?
人権派はともかくとして、保守層の気持ちを忖度すればとても不気味なのだ。この不気味さ、薄気味悪さというものを人権感覚の遅れで済ませていいものか。突然、出てきた「LGBT」という現象なのに「差別だ」「意識が低い」と迫ってくるこの理不尽さ。この心境が理解できない限り、今回の騒動の本質は見えてこない。杉田論文を生み出したのもこうした風潮が根底にあるのではないか。なぜ今、LGBTの対策が必要で、どういう差別や問題があるから法律や条例が必要なのか? そういう説明が一切省略されて進められてきた。政治、行政、運動家の実績作りのためというのが簡単に透けて見えてしまう。またそう思わせてしまうご自身らの主張、運動スタイルも検証してもらいたいものだ。
しかも当事者の声を聞けという割に当事者の松浦氏の寄稿すら問題だ、差別だ、としていいものか。現状の反差別、人権紅衛兵たちのこれまでの動きを考えれば意に沿わない当事者に対しては「このホモ、このレズが」と罵倒する姿が目に浮かぶ。かといって杉田論文の擁護者やそれを支持する当事者たちと対話を試みるということもないだろう。怒りの声を挙げてはまた再び怒りの矛先を探しに行く。ここ数年のお馴染みのパターンである。今回も「差別」「新潮45廃刊」と騒ぐことに終始した。文化人や人権運動家が「差別者」と断定した人物に対して直接、対話を呼びかけることもないだろう。テレビ、ラジオ、出版メディア、密室の集会など自分語りが許されるテリトリーで威勢良く攻撃するだけ(もちろん杉田議員も同様だが)。
結局、「新潮45」の休刊によって文化人も紅衛兵たちも戦果を挙げたとして歓喜していることだろう。ただこの騒動によってさらに人権派に対して反発は増したことになる。また「差別」とは何かを考える機会すら奪った。そして自身の主義主張に合わないメディアには一斉抗議で「休刊」「打ち切り」に追い込めという風潮を作り出したに過ぎない。そして一部の声高き人々によってLGBT当事者までも面倒臭いと印象付けられたとすれば実に不幸な話である。
三品さんはどのような「被差別体験」を語ったのですか。
どう育ったらここまでひねくれることが出来るのだろうか。
また出た、右も左も極端な言動の奴は・・・な話題w
抗議のための抗議、デモのためのデモ。差別と反日はその行動を維持するための燃料・エサですな。
なので差別や反日が本当になくなってしまうと存在理由がなくなってしまうので、どんな些細なことや言いがかりに近いものであっても掘り出しては騒ぐのでしょう。
新潮45休刊に対して「言論で対応すべきだった」という声がありますが、商業誌は言論の場である以前にビジネスの手段なので、赤字が続けば休刊するのは残念ながら当然でしょう。新潮45の実売数は1万部前後が続いており、雑誌単体では赤字続きだったと報じられています。「年間数億円の赤字」との情報が正しいとすれば、今回の騒動は休刊の単なるきっかけに過ぎなかったと見る他なさそうです。
単に議論を継続するだけなら今はネットがあるので、相手が小川榮太郎であろうと杉田水脈であろうと、誰でも意見を発信することは簡単にできます。ただ、小川や杉田やその他の関係者が対話に応じるかどうかは相手次第ですが。
前にも言ったかもしれませんが、LGBT関係者は行政文書の「性別欄」を削除するのが目的です。名前の変更を認めさせろとか、いう団体と同じ。犯罪捜査をしにくくするためでしょうね。最近の言論弾圧は、生物学でさえも変えてしまう勢いですね。
それと、大津市の越直美市長が、相撲協会に男女平等にしろと文句を言っています。
https://www.sankei.com/west/news/180419/wst1804190066-n1.html
これは労働組合からの押しがあるからです。
大津市はすでに今年度LGBTの予算を付けています。
LGBT予算を同和予算のように地方交付金にすると、公務員が潤います。
公務員がNPOを作り、そこにお金を回す事も出来るようです。
三品様 いつも楽しく記事を拝見しております。
唐突ですが、お願いしたい取材があります。長文申し訳ありませんが…
それはズバリ[2011年・大津市立皇子山中学校いじめ自殺事件の、加害者たちの今]です。
この事件の首謀者側の人物として、当時中2の山田(現・佐田or足立?)晃也・木村束麻呂(父は木村真束)・小網健智・そして担任の森山進がいますが、
晃也は宇治市立広野中学校・束麻呂は京都市立近衛中学校に(全く反省を見せず、処罰もほとんど受けないまま)転校して、同地でもいじめを働いていたという以降の足取りがつかめません。
一方で、束麻呂の父の木村真束はFES株式会社の社長をしており、ホームページも存在するので、何食わぬ顔で生活しているとも思われます。
したがって彼らが今[どこで、何をやっていて、どのような心境にいるのか]は、大変興味深い話題だと思います。[少年犯罪]は、[同和]や[在日]とはまた違う、しかし同じくらいに[タブー視]されているテーマです。なので示現舎様にはぜひ斬りこんで欲しいところです。現に木村束麻呂でググると、[束麻呂 2018]などの検索候補がウジャウジャ山のように出てくるので、間違いなく需要のある記事になるはずです。[事実を、事実として書く]ことは問題ないですし、この事件とその加害者を決して忘却してはならないと思うのです。
また、皇子山中学校は同和地区の中学校で、かなり特殊な授業も行っているようです。同和地区であることと事件の間には関係がありそうなので、併せて調査していただけると幸いです(メインテーマはあくまで加害者の現在ですが)。
以上、大変お忙しいところ恐縮ですが、何卒よろしくお願いいたします。
東京レインボーって結構スポンサード受けてるんですね。
当該企業からしたらはした金でしょうが。
企業に電話アンケートかけさせる弁護士も居るし
めんどくさいのでとりあえず出しとけって事でしょうか。
祭りで宣伝も出来るのでお互いWinWin?
初めてメールさせていただきます。
長文ご容赦くださいませ。申し上げたき事が二つ。
まず一つ目。
「人間が人間に対して「生産性」という言葉を用いるべきではない。子供が作れないから「生産性」がないというのは独身者や不妊症の人などどうなるのだろう。」
と主様は述べておられますが、杉田水脈氏は
「子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります」
「彼ら彼女らは子供を作らない」
との発言であり、決して子供が出来ない・作れない人、への発言ではなく、あくまでも〔意図して子供を作らない〕人への発言ではないでしょうか。
カップル・ご夫婦であっても〔意図して子供を作らない〕方々はいらっしゃると思いますが、こういった方々にも当然税金は使われませんよね?
二つ目。
「生産性」。これこそが生まれて初めて、こういった場へメールを差し出そうと思ったきっかけです。
杉田水脈氏を攻撃している皆々様も、主様も、あるグラフをご存知でしょうか。
ARTによる妊娠率・生産率・流産率のデータ。
これを折れ線グラフ化したものです。
グラフによると、34~35歳頃から、妊娠率や生産率が下がり始める様子が分ります。
「生産率」としっかり書いてますよね。「出産」ではなく「生産」とあります。
小生は偶然このグラフを存じておりました故(十年位前)、杉田水脈氏の発言には何の違和感もございませんでした。
このグラフは「日本産科婦人科学会」が公表しているグラフです。
杉田水脈氏を攻撃している皆々様は、これを知った上で行動を起こしているのならば、当然「日本産科婦人科学会」へもクレームをいれているのでしょうね?
それとも単なる不見識?自民党を叩きたいだけ?
以上、長々と失礼いたしました。
齢七十近いノンポリ(古すぎ)爺い。
主様のご健康を願っております。
字面は同じ語でも、政治家が政策的見地から言うのと、医師が科学的見地から言うのとでは意味が違うでしょう。
ナチによるユダヤ人問題の「最終的解決」が非難されている局面で「ちょっと待て、数学者たちはフェルマーの最終定理の『最終的解決』を求めていたじゃないか。ナチを攻撃する奴は、日本数学会にもクレームを入れているんだろうな?」と突っ込みを入れるのと同じぐらいあなたの発言はズレているように、私には見えます。
1.「カップル・ご夫婦であっても〔意図して子供を作らない〕方々はいらっしゃると思いますが、こういった方々にも当然税金は使われませんよね?」→婚姻すれば税金を使われているんですよ。性的少数者を貫くと婚姻もできない、配偶者控除も受けられない、なので、杉田さんの問題意識自体が間違いでした。
2.「杉田水脈氏を攻撃している皆々様も、主様も、あるグラフをご存知でしょうか」→超初心者さんが文献もサイトも示していないので、誰も事実と認めないでしょうね。「ググれ」はファールですよ。自らの主張の根拠は主張した側が提出しないといけませんから。仮にそのグラフがあっても杉田論文は年齢を考慮に入れていないので、ズレていますね
斉藤ママってのも、本当に狂ったアホだな
このまえ、大阪人権博物館へ行ってきました。
その中に障害者差別に関するコーナーもありました。
>本当に狂ったアホだな
こういう言葉が簡単に出てくる貴方こそが真の差別者ですね。
タイトルに惹かれて興味深く拝読しました。が、残念ながら何度読み返しても「人権派の不誠実」が「杉田論文を生み出した」とは読めず、また、論をどこに誘導されたいのか分かりにくく感じます。
特に「メンヘラ」に関するくだりは謎です。何らかの精神障害、精神疾患等を負っていると思われる人を称して「メンヘラ」と書かれているようですが、彼らを「闇の世界の住民」とされるのであれば、その「闇」とは何なのか、逆に「光の世界の住人」とは誰なのでしょうか?また「メンヘラ」の方を、「論じること自体が差別」と思い込んでいる(不誠実な)人権派と同一視することは、障害という見地より「トランスジェンダーまで同一視しているのは確かにおかしい」とされているご自身の文脈とも矛盾しているように思います。
示現舎さまの書籍やWEB記事、とてもリスペクトしています。が、これは「これじゃない」感が目立つような…。LGBT問題、跳梁跋扈してます。予算がないに等しいとかおっしゃらず、また書いてくださいませ。
1. 「LGBTが議員らの人気取りになっている」とありますが、具体的になんですか?私の経験では、杉田さんが論文にしなければ、たぶん関心すら持たなかったと思います。つまり、「人気取り」という事実はないと思うのですが。
2.「最低この松浦氏の記事については批判者たちも耳を傾けるべきだ。「当事者の声は最優先だったのでは?」と言いたくなる」はわかるのですが、それなら、尾辻かなこさん(筆者の言う「当事者」に該当!)のツイートにも目を通すべきでしょうね。尾辻さんのツイートに目を通した限りでは、杉田論文をきちんと読んでおり、的確な批判をしておりました。
3.『新潮45』休刊は、小川榮太郎論文が大きいというのが通説なのに、本稿でスルーするのはなぜなのでしょう?性的少数者と犯罪者を同列に論じた論文が問題だったのですが。