一昨年のこと、米軍占領下の沖縄県名護市勝山で起こった通称「クロンボガマ事件」についてXにポストしたところ、大変に注目を集めて500万ビューを越えたことがあった。まずは当該ポストの内容を以下のリンクから見て欲しい。
https://x.com/K_JINKEN/status/1785110575477137870
筆者が関心を持った理由は、「クロンボガマ事件」という、いかにもタブーに満ちた事件名にもあるが、事件の内容もかなり興味を惹くものだった。さきほどのXのポストから事件の内容を改めて掲載しよう。
1945年7月、現在の名護市勝山でのこと。米軍海兵隊の兵士が毎週のように、集落に訪れて女を連れ出し、性的暴行を加えていた。
兵士は油断したのか丸腰でやってくるようになったので、集落の住民たちは2人の潜伏中の帝国陸軍兵士の助けを借りることにした。それを知らずにやってきた3人の兵士は帝国陸軍兵士に襲われ、十数人の住民たちに暴行され殺害された。
住民たちは米軍の報復を恐れ、3人の遺体を洞窟の中に隠し、事件を秘密にすることにした。3人の兵士が黒人であったことから、洞窟は住民たちから「クロンボガマ(ガマは沖縄の言葉で洞窟のこと)」と呼ばれるようになった。
3人は米軍からは戦闘中の行方不明者として扱われた。事件は秘密にされたまま1972年の沖縄返還を迎え、事件のことが徐々に話されるようになったが注目されなかった。しかし、1997年8月に「クロンボガマ」から3人分の人骨が発見された。米軍の調査で歯科記録から確かに海兵隊の兵士であることが確認され、言い伝えられた事件が事実であることが分かった。
しかし、既に時効であること等から、日米両当局は事件について捜査しないことを決めた。
まるで『三匹の侍』のような、日本人が好みそうな、絵に描いたような勧善懲悪のストーリーである。一方で、筆者を含めてアメリカの占領は比較的良心的だった印象を持っていはいるが、実際には占領下の沖縄でも過酷な性暴力の現実は避けられなかったという歴史の断片を見ることができることだ。

そして、先日筆者は沖縄に降り立った。最近話題のジャングリアも、定番の観光施設である美ら海水族館も、名護からほど近いのだが、今回は完全にスルーである。目的は「クロンボガマ」の場所の特定、そして出来れば生き証人を探すことである。

那覇空港からバスを乗り継いで、勝山のふもとまで到着した。途中でバスを乗り間違えたりして、空港から4時間もかかってしまった。しかも直接勝山に行くバスはなく、ふもとのバス停からかなり歩く必要がある。

途中で最初に会った住民に「クロンボガマ事件」について聞いてみたが、事件名については知らないということだった。ただ、昔アメリカ兵が殺されてガマに投げ込まれた事件があったのは聞いたことがあるが、具体的な場所までは分からないという。

途中で、側溝の中で瀕死状態でのたうち回っている動物を見つけた。マングースである。外来生物なので、沖縄では駆除対象である。そのため、哀れではあるがよく道端で車に轢かれており、ぞんざいな扱いをされているという。

途中でさらに住民から話を聞いた。グロンボガマと言うのかは知らないが、アメリカ兵の遺体が棄てられたガマは「ガジャナク」という場所。そこにはロッククライミングに最適な岩壁があり、そこに行く途中にあると聞いたことがあるという。
しかし、それ以上はよく分からないので、公民館に行けば知っている人がいるのでは?ということであった。



ここは勝山農村交流センターと公民館。交流センターはおしゃれなレストランになっている。
現在の勝山集落は50軒ほど。昔から斜面に分散して家が建っており、10軒くらいは廃墟になっている。残りの40軒くらいも、ほとんどの人は名護の市街地や那覇に別に家を持っており、時々ここに通っているそうだ。

確かに、率直なところ住むには不便なところである。しかし、あちこちにシークヮーサーの果樹園があり、それが勝山の名産品になっている。現在の勝山は生活の場というよりは、豊かな自然環境を活用した農作業の場所である。
公民館で「クロンボガマ」について聞いたところ、「あと10年早く来ればよかったのに」と言われてしまった。
英語版Wikipedia “1945 Katsuyama killing incident”には、当時事件現場近くにいたという比嘉氏、長老から事件について聞いたという安村氏、そしてガマを再発見した稲福氏が出てくる。しかし、いずれも存命ではないという。他にも事件現場にいた別の男性もいたが、数年前に102歳で亡くなってしまったという。

ただ、「ガジャナク」という場所については分かった。谷の奥にある岩壁がロッククライミングに適しているので、外国人がよく来ているという。ただ、時々マナーが悪い者がいて、途中にある物を壊したりするので、その場所についてはあまり積極的には知らせていないということなのである。

ということで、今回の記事でも具体的な場所はピンポイントで示さないことにする。場所を特定する熱意のある読者におかれては、物を壊したり、農産物を勝手に盗ったりしてはいけない。
「ガジャナク」に来たものの、予想以上に険しく、しかも筆者が持っていたスマホのソフトバンクの電波がつながらない。ドコモの回線が必須である。また、もっと山歩きに適した服装で来るべきだった。しかも、日が暮れかけてきたので、その日は撤退することにした。

しかし、「犬も歩けば棒に当たる」の格言通りのことが起こった。バス停に向かう途中で出会った老人に事件について聞いたみたところ、「ああ、あのことか」とばかりに話し始めた。
「アメリカ兵をまず杉林になっていたところに埋めたんだ。でも、これはもう大騒ぎになると思って、夕方になってからもうアメリカ人は来ない時期にまた掘り起こしてガマに落としたわけ」
老人と何気なく話しているうちに違和感を覚えた。妙に詳しいのである。
「それで、運んでいく間に石に血がついて生々しいもんだから、バケツで水を汲んで全部流したんだ」
ここまで言われると、筆者の頭の中は「この人は現場にいたんじゃないか」という疑問でいっぱいである。そして、筆者が「もしかして、おじさんは現場にいたんですか?」と聞くまでもなく
「これ、僕がやったんだ」
と老人は続けた。
一通り話しを聞いた後、そのガマは「クロンボガマ」と言われていたのか聞いてみた。しかし返事は意外なものだった。
「クロンボガマ? いやいや、名前なんてない。あれはアブって言うわけよ」
洞窟はただの名前のないガマ。正確には「アブ」。ガマとは主に横向きの洞窟のことで、深い竪穴のことはアブと言うそうである。別の住民からは「クロンボさんが捨てられたガマ」というような言い回しもされたが、少なくとも「クロンボガマ」は広く言われていた名称ではなかったのであろう。
そのようなことなので、事件名は凡庸であるが「勝山事件」と呼ぶことにしておこう。
それでは、老人の話と従来まで知られていた内容と歴史的背景から、勝山事件の詳細を再構成する。
沖縄での日米両軍の戦闘は1945年3月26日から始まっていた。激しい戦闘の後、6月23日には牛島満第32軍司令官が自決して組織的な戦闘は事実上終結していた。特に名護市周辺は日本軍の守備が手薄だったため、早くからアメリカ軍に制圧されていた。
勝山がある本部半島には日本軍の宇土部隊が配備していたが、4月17日には米軍の攻撃によりほぼ全滅しており、敗残兵の一部が勝山の山中に逃れていた。
事件があったのは7月。山中の険しい場所にある勝山は当時から住民が分散して住んでおり、勝山のあちこちに急ごしらえの避難小屋には住民と敗残兵が暮らしていた。敗残兵は軍服を脱いで住民と同じ格好をしていたので、アメリカ軍からは区別できなかった。
勝山ではもはや戦闘は行われていなかったのだが、住民を苦しめていたことがあった。本部町にアメリカ軍の拠点があったのだが、そこから毎日のようにアメリカ兵がやってくるのである。決まって2, 3人の組でやってきて、目的は住民の女性をさらって強姦することだった。
やがて住民は見張りを立てて、アメリカ兵に警戒するようになった。老人も当時は子供ながら大きな木の上で見張りをしたという。アメリカ兵が来るのが見えたら「来た」と言って知らせると、女性は皆すぐに山の上の避難小屋に逃げて隠れた。
しかし、それでもアメリカ兵はしつこくやってきて、女性を見つけようものなら容赦なく強姦した。
それを見かねた敗残兵のおそらく2人が、隠し持っていた銃と弾丸を使ってアメリカ兵を殺すことを決意した。これは住民と相談の上でのことであろうという。
そして7月14日の午前中から昼頃、いつものように3人の黒人兵がやってきてガジャナクの沢筋の、山が迫って道が細くなっている場所に差し掛かった。しかし、そこには銃を持った敗残兵が待ち伏せていて、3人をたちまち射殺してしまった。
老人は、アメリカ兵の殺害は敗残兵だけで行われ、住民は全く手を下していないと強調した。

当時、その近くには杉を植えた平坦な場所があった。住民たちがアメリカ兵の遺体をそこに引きずって運び、穴を掘って埋めた。周囲の石に血がついたので、子供だった老人はそれを洗い流すように言われて、近くからバケツで汲んだ水で石を洗った。
しかし、遺体を埋めた場所は道からあまり離れておらず、3人が行方不明になったことにアメリカ軍が気付いたら騒ぎになって見つかってしまうと住民たちは考え、もっと分かりにくいところに隠すことにした。
アメリカ兵は夕方には来ないと分かっていたので、夕方になってから住民たちは遺体を掘り起こした。その時、どうせ遺体は捨ててしまうのだからと、遺体から上等な時計や革靴を剥ぎ取って持ち帰る住民もいた。
そして、何人かが協力して遺体を近くの斜面に50メートルほど担ぎ上げ、5, 6メートルほどの深さの「アブ」に放り込んだ。遺体はアブの途中に引っかかったがそのままにしておいた。無論、このことがアメリカ軍に知られたら大変なことになるので、住民たちは秘密にした。
これが事件の一部始終である。
その後、アメリカ兵は勝山に来ることはなかった。しかし、このことが事件の影響によるものかどうかは分からない。というのも、偶然にも事件の直後に勝山の住民は全員が羽地村方面に疎開させられたからである。おそらくは米軍による潜伏兵に対する掃討作戦のためだった。
そして日本が降伏した後、敗残兵はちりじりになっていった。事件に関わった敗残兵の行方は誰も知らない。

翌日、筆者は再びガジャナクに入り、ロッククライミングスポットに行ってみた。偶然にも、外国人と見られるグループがロッククライミングの練習をしていた。
竪穴がないか聞いてみると、「15メートルくらいの深い穴がある」ということだった。これは老人の証言とは一致しない。老人も他の住民も、「アブ」があるのはロッククライミングをする場所ではなくその途中だと言っていた。
念のためグループに「勝山事件について知っているか?」と聞いてみたが、やはり知らないということだ。

ただ「沢筋の山が迫って細くなっている場所」は確かにあった。アメリカ兵が殺されたのは、ほぼこの場所で間違いないだろう。周辺に杉林は見当たらないが、そのその跡地だったであろう平坦な地形はいくつかある。

この岩にも、血がついていたのを洗い流したのかも知れない。


2時間ほど周囲の斜面を探索したがアブは見つからなかった。「杉林だった場所から50メートルほど上がったところで、今は木が生い茂って行けるかどうかも分からない、自分も見つける自信がない」と老人は語っていたので、現在見つけるのは難易度が高いかも知れない。
残る手がかりとしては、周辺にアブつまり竪穴はここだけで、やや斜めになっていて、子供の頃に石を投げ込んで遊んだら、ころがった石が途中で止まったということだ。

1972年に沖縄が本土に復帰した。老人が言うには、その後に勝山の郷土史に、誰が言ったのか知らないが米兵殺害事件の事が書かれ、それを知った兵士の遺族が出身地のハワイから勝山まで探しに来たという。このことは英語版Wikipediaの記述とほぼ同じだ。


確かに、1978年11月30日発行の『勝山誌』にガジャナクバンタの斜め向かいの穴に黒人兵士を埋葬したという記述がある。黒人兵士は2人で毎週土曜日に婦人を暴行しに来たと書いてあるが、実際は3人。そして老人の話のとおりなら毎週ではなく毎日だ。
殺された3人が所属していたのは第37海兵補給中隊。この部隊は、いわゆる人種隔離部隊がルーツであり、主に黒人が所属していた。任務は兵站、つまりは戦闘ではなくて物資の輸送である。
兵站部隊が任務として勝山にやってくる理由もない。丸腰だったのも、油断していたというよりは、もともと重武装するような部隊ではないうえに、戦闘が終わった地帯だと認識していたためだろう。つまり、3人が勝山を訪れたのは私的な行動だったこと以外にほぼ考えられず、現地女性を強姦していた可能性は極めて高いと言わざるを得ない。
老人の証言にしても、一旦杉林に埋めて後で掘り起こしたことは他の文献には出てこない、住民は直接手を下していないと言いながらも、遺体から時計や靴を略奪したという住民にとって不利な事実も語っているので、信憑性は高い。アメリカ兵が毎日のようにやってきて女性を容赦なく強姦していた話も事実であろう。
後に3名が脱走兵ないしは戦闘による行方不明者として扱われ、事件が事実であると証明された後も米軍が捜査しなかったのは、深入りすると米兵による性暴力などの規律違反が明るみになりかねない、面倒な事案と認識されていたからではないか。
準備不足もあって「クロンボガマ」そのものには到達できなかったが、事件現場に行けたことと、何よりも生き証人に会えたことは意外な成果であった。そして、住民は直接手を下していないこと、一度遺体を埋めて掘り起こしたこと、住民による略奪があったことは、事件についての従来の記述を埋め合わせる、貴重な証言であった。
以下で関連資料を暗号化したものをダウンロードできるようにしておいた。おそらく、支障はなくなっているであろう約15年後に暗号化解除できるようになっている。
https://freeof.info#vault/4c3a256b-ac98-45b5-ba5e-1c78d74b5437



