月別アーカイブ: 2014年2月

「同和と在日」第1号電子版を無料化しました

By 鳥取ループ

「同和と在日」第1号は好評につき完売いたしました。

そこで、「同和と在日」第1号の電子版を無料化しました。

松本龍のあの記事も、横須賀のあの記事も、グーグルブックスで無料で読むことができますので、ぜひご覧くださいませ。

こちらから0円で購入してください。

もう一つの朝鮮半島、京都「ウトロ」は今・・・

By 鳥取ループ

三品純(取材・文)

京都府宇治市ウトロ地区。ここは戦後の在日コリアン史、そして闘争史を象徴するダークスポットだ。長年、不法占拠状態にあり、存在自体がタブー化したこの街が今、政府、自治体の支援を得て転換期を迎えようとしている。しかしそれは真の「解決」か、それとも新たな「火種」なのか? ウトロの今をレポートする。

在日闘争の聖地

近鉄京都線「伊勢田いせだ駅」を降りる。ここは陸上自衛隊大久保駐屯地の最寄駅で近くには自衛隊官舎もある。駅から徒歩約10分。やや下り坂の道を歩いていく。するとごく普通の住宅街だったのが、ウトロ地区に入ると突如、異様な立て看板が乱立する。以前は整然と立っていた看板も色あせ、破損している物も目立つ。ウトロは住民の高齢化が指摘され懸念材料になっていたが、同時に闘争も弱体化しつつあるようだ。
とは言えウトロ周辺に悶々もんもんかもし出される在日イデオロギー臭は変わらない。看板の一つ「オモニのうた」はウトロの風物詩だ。

「いやや!どんなことがあっても私はよそへは行かないよ あの世からお迎えが来るまでは」

戦後から在日コリアンたちがこの地に住み続け、地主と所有権を争った。2000年11月には最高裁で敗訴が確定。建物の整理と土地の明け渡しを命じられることになる。しかしそれでも住民たちは居座った。支援者や左翼活動家、そしてメディアらとともに「弾圧」「差別」と訴える住民の前には最高裁判決さえも無力で、強制執行すらもできなかった。もちろん彼らの結束力もあってのことだが、もう一つには「在日コリアン」という戦後最大の免罪符があったからこそ成し得たことである。

彼らが執着し続けたウトロ地区とは、正確にはウトロ51、中ノ荒60、南山21‐2、総面積213万3366㎡のことを言う。すぐ隣は陸上自衛隊大久保駐屯地だ。フェンスを隔てた先には、迷彩服姿の隊員が見回りをしたり、ジャージ姿の隊員たちがジョギングする風景も見られる。自衛隊と在日集落、まるで真逆の物が“隣人”なのだ。
実際に歩くと分かるが本当に町の一角に過ぎない。幅100m、長さ300mの長方形のこの一角に60世帯の在日韓国人・朝鮮人が住む。ゼロ年代に入り韓国政府からも支援を受けることになるが、地区内には朝鮮総連(北朝鮮系)京都府南山城みなみやましろ支部もある。普通は韓国‐朝鮮籍、民団‐朝鮮総連で対立することもあるがこの地は南北が混在している。いわばもう一つの朝鮮半島がここにあるわけだ。ここで彼らは建設業、解体業などに従事し、生計を立ててきた。在日集落という特性とともに土建屋街という側面もある。

ウトロって何語? 語源は?

よく「ウトロは何語ですか?」と聞かれることがある。日本語と答えるがまた説明がややこしい。日本語らしく感じないのも無理はないだろう。「ウトロ」という日本語の地名では聞きなれない妙な語感。ひょっとしたら北海道知床のウトロを連想する人もいるかもしれない。知床ウトロ地区は観光スポットで有名だが、宇治市ウトロはダークスポット。かなり異なるものだ。

ウトロとは“一応”固有の地名なのだ。正確には「うとぐち」という。初めてウトロを訪れたのは2007年だった。その時、右も左も分からない著者は駅前の交番で道を訪ねた。警官は「ああ“うとぐち”ですね」と言った。少なくとも本来はこのうとぐちというのが正式な名称である。

その昔、江戸・明治時代はこの地域を「伊勢田村宇土口」といった。もとはごく普通の山林だったそうだ。「宇」とは「家」を意味するそうだから「家がある土地」そんな意味だったのかもしれない。そして口は「宇土」への入口を示す「口」(ぐち)として付けられた。その「口」がいつしか、カタカナの「ロ」と読まれるようになり「ウトロ」となったというのが通説だ。

解放に歓喜、そして失業

ウトロをめぐる住民の闘い。もちろん彼らが戦中、戦後の歴史に翻弄ほんろうされたという事実も我々は理解すべきなのだろう。しかし事の経緯はともかく住民たちの「不法占拠」であることは疑いのない事実である。在日コリアンが「戦後」を盾に物を言えば世の中何でも通用するという訳でもない。しかしウトロがメディアに登場する場合、いつも「悲劇の民」である。『朝日新聞』『毎日新聞』『京都新聞』では定期的にウトロ問題が特集される。おおかた同一の記者の署名記事で執筆され、住民の代弁者のような存在だ。ウトロ番記者といったところだろう。

彼らが戦後、「悲劇の民」に祭り上げられた理由。それは戦前、1940年頃、逓信省ていしんしょうの方針でこの地に京都飛行場と航空機の製造工場の建設計画が始まったことにある。この事業は国策会社「日本国際航空工業株式会社」が請け負った。同社は後にウトロの地権者として係争することになる日産車体株式社会の前身だ。補足すると戦後、日本国際航空工業が分割されウトロの所有権は日国にっこく工業が保有。やがて1962年に日国工業が日産車体にっさんしゃたいに合併され地権も引き継がれた。

そして飛行場の建設事業には約1300人の朝鮮人が集められた。彼らは「飯場はんば」と呼ばれる集合住宅に住み建設事業に従事した。周辺住民はこんな話をする。

「この辺はすり鉢状の低地ですぐに浸水するんですわ。最近はゲリラ豪雨もあって、もっとひどくなったけど」

すり鉢状になったのには理由がある。飛行場建設のためウトロに集まった労働者たちは土を掘った。それがやがてくぼみになっていったらしい。この労働者の中にはやがてウトロ住民になった人もいただろう。実に皮肉なものだ。そして敗戦もまた彼らに皮肉な結果をもたらした。

「太平洋戦争の敗戦の日は朝鮮人にとって解放の日だ。みんなドブ酒を飲んで解放を祝ったよ」

以前、土地の老人にこんな話を聞いたことがある。ドブ酒とはドブロクよりも安価で家庭でも製造できた。また「嬉しくて日本人を殴りに行った」こんな人もいたようだ。ウトロに限らずこうした現象は全国各地で珍しくなかった。敗戦は同時に飛行場建設の終焉しゅうえんを意味した。つまり彼らは仕事を失ったのだ。彼らは「戦勝国」と歓喜したが同時に失業者になったのだ。

薬莢拾い、密造酒で食いつなぐ

そこで残った住民たちはスクラップ集め、ドブ酒の密造など「喰うため」なら何でもやった。ドブ酒とはいわゆるどぶろくなのだが、それよりもさらに下等な酒である。中には城陽じょうよう市の米軍射撃演習場で薬莢やっきょう拾いをした者もいた。そして飯場跡に民族学校を作って朝鮮語を教えた。こうして徐々に朝鮮人の「ウトロ街」が形成されていく。そして戦後は朝鮮人たちの闘争の時代。特に朝鮮人学校の設立を求め、GHQ、警察と大規模な争議に発展した1948年の「阪神教育事件」は熾烈せんれつだった。その余波よははウトロにも訪れ、同年にウトロ民族学校が閉鎖。また1952年3月には数百人規模の警官がウトロに大規模な強制捜査を実施した。

住民たちは暴力行為で逮捕され、密造酒や反米ビラが押収された。この時点でウトロ問題は、単なる住民闘争ではなく、一種のイデオロギー闘争に発展していたことがよく分かる。GHQはここが共産主義の拠点になることを恐れていたのだ。

一方、住民側も徒党を組み行政に押しかけた。ウトロの所有権が一変したのは1987年のこと。町内会長を自認する平山桝夫ますお氏こと許昌九(ホ・チャング)氏に日産車体が約3億円でウトロ地区を売却。そして平山氏はこれを西日本殖産に4億5千万円で転売した。同氏は一時、西日本殖産の代表取締役だった経緯もあり、土地の転売で利ざやを稼いだと住民からも批判が相次いだ。

「権利が西日本殖産に移ったのを知ったのは88年のことだった」(ウトロ住民)というから住民にとってみれば寝耳に水。同じ朝鮮名を持つ人物が土地転しに関わったのだから、ショックも大きかったことだろう。この点はメディアも活動家もずるい点だ。先に述べた通り、特に『毎日新聞』では定期的にウトロ特集を組むが、在日が在日を欺いたという事実を全く報じていない。さらにはウトロの支援者のビラも平山桝夫氏が昌九チャングであることに言及していないのもフェアではない。いわゆる通名報道だ。

国連人権委員会を味方にする

そして1989年2月、西日本殖産はウトロ住民に立ち退きを求める訴訟を起こした。同年4月には約700人がウトロで集会を実施し、日産車体京都工場前で抗議活動を行った。1991年には首相官邸前で陳情を行ったものの1998年の京都地裁判決、高裁控訴審いずれも住民が敗訴。2000年11月の最高裁でウトロ住民の敗訴が決定した。しかしウトロ住民たちは国際世論に訴えかけた。2005年7月、国連人権委員会特別報告者のドゥドゥ・ディエン(セネガル出身)がウトロの調査に訪れたこと。同氏はウトロを「差別の集積地」との見解を示した。

そして2006年9月、国連人権理事会はディエン報告書に基づき日本政府にこう勧告した。

「ウトロに住むコリアン住民の状況に関して、日本政府はウトロ住民と対話し、強制立ち退きから保護し、住宅を失わないよう措置を取るべきだ」

この勧告に法的拘束力はない。しかしウトロ住民を始め内外に与えた影響は大きかった。政府関係者から疑問の声も挙がっている。

「ディエン氏は、日本の人権団体のレクチャーを受け、運動家の主張を代弁したにすぎない。またこの時の人権理事会はフィリピンなど東南アジア地域のスラム問題が主題。それにウトロが便乗した格好だ」

つまり運動家の声の大きさが国連すらも動かしたことになる。人権団体はこうした海外の報告者を来日させ、フィールドワークさせる。ただひたすら「差別だ」と吹き込む。特定団体の主張を真に受ける国連人権理事会にどれだけの価値があるのだろう。

韓国からの支援を取り付ける

西日本殖産とウトロという、民‐民の係争に不介入の立場だった行政だが、2007年11月20日に京都府、宇治市がウトロ整備を訴える要望書を冬柴鐵三国交相(当時)に提出した。

「平成18年に冬柴国交相は、ウトロと同じく在日コリアンの不法占拠状態にあった兵庫県伊丹市中村地区の整備事業に着手しました。冬柴さんは、ウトロ問題の解決にも関心を持っていました。やはり在日コリアンの人権問題にも熱心な公明党の所属という背景も大きいでしょう」(兵庫県の自治体関係者)

ようやく解決の入口に入ったのは、2007年頃だろうか。韓国政府や韓国内の市民団体「ウトロ国際対策会議」の支援を受けて11年2月、ウトロ一般財団法人がウトロ51‐28の土地3808㎡を購入したことから、ウトロ支援団体の関係者は説明する。

「ウトロ国際対策会議だけでなく、ウトロ支援NGO『KIN』の活動も大きかった。彼らNGOが毎週土曜日にウトロ募金活動、学校でウトロ問題の講演や、韓国日産自動車への抗議活動を行った」

一方、民間同士の係争だったことからウトロ問題に当たれなかった政府、自治体も対策に乗り出さざるをえなかった。国交省、京都府、宇治市による「ウトロ地区住環境改善検討協議会」が結成され、予定では今年度中にもウトロの環境改善に関する総合計画(マスタープラン)が策定される方向だ。

「それにしても大変な日々でしたよ」と京都府内の自治体職員はしみじみ語る。「ウトロの支援団体からは行政はウトロを見殺しにする気かと怒鳴られます。しかし行政は民間の問題に介入できないのですよ。また反対派からもウトロを支援するなとお叱りを頂いた。しかし不法占拠とは言え、今も半分の世帯が井戸水で、浸水も続く状況を行政としては放置できない」

確かに支援者たちも身勝手なものだ。普段は反権力を訴え、行政の介入に対しては「プライバシーの侵害」と訴える。その割にいざとなれば行政にすがるのもおかしなものだ。結局、民間の土地の係争に公金が投じられる。

京都府によると「国の交付金、約2千万円の予算で平成24年にウトロの実態基礎調査、平成25年に基本構想の策定を行いました」という。そして国交省の「社会資本整備総合交付金」を活用して公的住宅を建設する計画が検討されている。

「小規模住宅地区改良事業による改良住宅か、公営住宅法による公営住宅になるかメニューが複数あり、現在、鋭意検討している段階です」(宇治市ウトロ住環境対策室)

来るか!? 小規模住宅地区改良事業

昨年取材した当時、ただ国交省、京都府、宇治市、いずれも共通するのは「具体的なメニューは検討中」と説明を受けたが、「何らかの解決策は今年度中に発表する」ということだった。それにしてもあの住民と支援者、マスコミ、これらを納得させるだけのプランはあるのだろうか。

前出の京都府内の自治体職員はこう推定する。

「小規模住宅地区改良事業を活用するのが濃厚でしょう。住民からは戸建住宅の要望も根強いがおそらく1LDK、2LDKといった具合に世帯で別れた集合住宅になる可能性が高い」

小規模住宅地区改良事業、いわゆる「改良住宅」と呼ばれるもので、おおかた同和事業で活用されてきた制度だ。しかし実はこの住宅が思わぬトラブルを生むことがある。もともとこの制度自体、「生活環境の整備が遅れている地区において、住環. 境の整備改善又は災害の防止のために、住宅の集団的建設、建築物の敷地の整備」を目的にしたもの。しかし実態はイコール同和事業と言っても差し支えない。ところが近年、老朽化による空室問題や、また住民による大規模なまた貸し、あるいは家賃の滞納といった問題も発生している。さらに従来の住民を対象にしている制度のため、もちろん地区外からの入居はできない。旧住民が退去するなどし、空室ができた場合、条件を満たせば一般住民を入居できるが、地域によって旧住民と新規入居者の間でトラブルが発生することも少なくない。というのも旧住民は改良住宅を行政から「勝ち取った」という意識がとても強いため、彼らからすれば新住民は、「何も運動をしていないのに住居だけ得た」というマインドが働くのだ。

またウトロ地区住環境改善検討協議会がまとめた地区住民意向調査によると若年層(30代以下)を含む世帯が60世帯中22世帯、そのうち未成年者を含むのが7世帯だ。つまりどういう形態の住宅整備になろうが、戦前からの住民を対象にというよりは、その2世、3世のための住居整備という色合いも濃い。

京都府、宇治市も「戦後補償ではなくあくまで住環境整備が目的」と強調するが、戦後から継がれた闘争の結果、ようやく彼らは住居を勝ち取るのである。だが結局は事実上のコリアンタウンという性質を帯びることに違いはない。住民からすれば「勝ち取った権利」、日本人から見れば住民の「押し切り勝ち」にも見える。
どうあれ一応の結論が出ようとする今、長年の“ウトロ闘士”は何を思うか。住民でウトロ町づくり協議会代表理事、町内会長を務めた金教一氏に話を聞こうと、町内の同氏の建設会社を訪ねた。

「高齢の上、体調不良でお話できる状況ではない」

やはりここにもウトロ住民たちの高齢化問題があったのだ。となるとこれからのウトロを担うのは2世、3世ということになる。彼らを待ち受けるのは平穏な生活か、新たな火種か?