菊池山哉はこう記している。
○静寛院原と大里の平野との崕(はげ)に介在する。重要街道筋ではない。農家十六戸。一村全部水野姓。
○白山神、半分朽ち果てた、哀れな姿をして居る。それでも虫歯に効くとて、遠近から参詣に来る。昔は曲輪で祭りをしたが、本村の氏子となってから、曲輪の人は、旧お頭水野氏に任かして、願なくなったと云。祭りは九月の日待ち。
○水野氏の当主は女で、昭和六年七十二歳の人であったが、斯様な事を言って、嘆いて居った。
子供の自分は裕福であった。 新田の坂田より、水野の方が古いと慥かに伝へて居る。どう言ふわけで、下谷(したやつ)(曲輪の名)の者だけが、賤められるか、其わけが分らないと、常々老人から聞かされて来た。新田の(下谷の人は、本村を新田と呼ぶ、御正新田村の事である。)の人は、後から来たものである。


