
学術・研究:部落探訪(271)香川県 丸亀市 川西町南
ここは香川県の被差別部落現地研修報告では丸亀市A地区として紹介されている。その立地は飯野山の麓に広がる農村地帯、香川県の特徴の1つであるため池のそばと記載されている。1990年頃は50数世帯、150人余り。 部落名は金山 […]
ここは香川県の被差別部落現地研修報告では丸亀市A地区として紹介されている。その立地は飯野山の麓に広がる農村地帯、香川県の特徴の1つであるため池のそばと記載されている。1990年頃は50数世帯、150人余り。 部落名は金山 […]
今回は坂出市の本格的な同和地区を訪れた。現在の地名は西庄町醍醐北。戦前の戸数は60で、商業や日雇いの仕事が多かったという。 かつての部落名は醍醐下。現在の地名から明らかな通り、醍醐寺の北側に位置する。
どうしても異常で異様な巨大同和地区ほど記事や動画の閲覧数が多くなるのだが、探訪の楽しいという点では、少戸数未指定地区の探索にまさるものはない。香川にもそのような部落があるので探索することにした。 昭和初期の記録では、綾歌 […]
明治の文筆家、宮武外骨は著書『つむじまがり』で「予の先祖は備中の穢多であるさうな、予は讃岐の小野といふ村で生まれた者である」と書いていた。 宮武という名字は圧倒的に香川県に多く、岡山県では倉敷市に比較的多いのみなので、宮 […]
『香川県の被差別部落 ―現地研修報告―』(安竹貴彦)で善通寺市D地区として紹介されている与北町(よぎたちょう)東原部落は、戦前は70世帯であった。主な産業は日雇い。過去の航空写真を見ると家が密集しており、農村ではなく労働 […]
いにしえの文献によれば、琴平町に荒井という部落があり、14世帯あったとされる。明治時代の地図を見ると、その荒井は前回探訪した高橋から金倉川の対岸にある。現在の地名は琴平町苗田(のうだ)だ。
香川県の部落を研究するために活用した資料に、『香川県の被差別部落 ―現地研修報告―』(安竹貴彦)がある。それによれば、善通寺市には指定同和地区が2つあるという。しかし、『全国部落調査』に記載のある部落で現在の善通寺市域内 […]
今回から香川県編を開始する。以前から四国に来て欲しいというリクエストが多く、四国4県のどれにするか迷ったが、未探訪で、興味深い部落の多い香川県を選んだ。 最初に訪れたのは三豊(みとよ)市にある東岡という部落である。住所で […]
東京都青梅市の部落は今井と藤橋にあった。今井は水窪、藤橋は久保である。2つの部落は隣接しており、白山神社が共通であるから、一体と見ることもできるだろう。戦前、その戸数は93あった。 主な仕事は履物製造と農業と記録されてい […]
今回探訪したのは、五霞町(ごかまち)の堀ノ内という部落である。昭和初期の戸数は70。産業は農業のほか、棕櫚(しゅろ)表という草履の表作りであった。 草履表は竹皮によるものが多いが、関東では高品質な棕櫚表が作られていた。し […]
境町では、間中姓の分布が部落に対応していることが分かった。前回は坂東市内の飛び地を探索し、さらに本拠と考えられる西原を訪れた。後編では、宗教について検証し、さらにも1つの場所である倉ノ内を探訪する。
古河市を探訪した時、ぜひとも隣の境町にも来て欲しいとのリクエストを頂いた。その時に聞いたのは、慈光(じこう)学園の隣が部落と伝承されていることだ。調べてみると、そこは大変興味深い立地である。坂東市に囲まれた、境町の飛び地 […]
佐倉市臼井台には、戦前4戸の部落があったという。明治の頃までは馬皮や犬皮を生産していたようである。 そして、江戸時代の資料から、それが穢多に由来するものであることが推定される。現在、その場所がどうなっているのか確認しに向 […]
千葉県では酒々井町の上本佐倉(かみもとさくら)が解放運動の中心地として有名なようである。ただ、昭和初期の戸数は27と小さな部落である。しかし、現地を地図で見ると2つの同和対策集会所と隣保館がある。 この部落に興味を持った […]
昭和初期の我孫子市布佐に農業や皮革、草履製作をやっていた11戸の部落があったらしい。関東の部落と言えば白山神社が手がかりとなるが、少し調べたところで分かるのは、布佐にある竹内神社の境内に、どこからか合祀された白山神社があ […]
柏市豊住は、かつて「根木内新田(ねぎうちしんでん)」という部落だった。戸数は43。調べたところでは、その範囲はほぼ現在の豊住の行政区画と一致していると見てよい。地図、航空写真で見ると、現在ではただの住宅地になっているよう […]
蒲生郡日野町豊田は滋賀県の中でも有名な部落の1つである。最も環境が厳しかった一方で、環境改善事業が早い時期から行われ1991年11月に「環境改善事業完了祭」が行われ、同和対策の終結を目指すことを宣言した。 昭和初期の記録 […]
今回訪れたのは御園町。かつては薗畑という名前で、例のデータだと昭和初期には103戸の部落だった。近世は横井村と呼ばれ、明治初期の記録では156戸とあるから、明治以降から昭和初期にかけて世帯数が減った珍しい部落である。 さ […]
前回に引き続き、笠置町有市の探訪である。なお、町に寄付された土地の乗っ取り問題については別記事で説明した通りである。 それはさておき、次は例によって墓地を訪れた。
笠置町は京都府内では井手町に次いで同和関係者の比率が高い自治体として知られる。その理由は、笠置町自体が全国でも最少クラスに人口が少ない町である上、有市という農村部にしては大規模な同和地区を抱えているためである。 戦前の記 […]
戦前の記録では、山川原の戸数は144、生活程度は中。あそこは部落ではないと言われるくらいに、住民は豊かだったと言われる。江戸時代は「川原村枝郷皮田」が正式な名称であり、野良田村という通称もあった。それが、明治4年の解放令 […]
「夜も煌々と電燈の光が川久保村の空一ぱいに輝き、まるで不夜城のようでした」―いにしえの滋賀県の部落を記録した書、『滋賀の部落』にはそう記されている。1931年(昭和6年)当時の戸数は25戸134人、 1996年時点で72 […]
筆者が長塚を訪れるのは初めてではなく、実は10年ほど前にも一度訪れている。その頃と何も変わっていないように見えた。その時の様子は『同和と在日②』に書いている。 昭和初期の戸数は50。生活程度は悪くなく、明治21年の調査記 […]
前回は大東市野崎を訪れたが、当然北条も訪れねばなるまい。戦前の記録では333戸とされているが、1958年の記録には200戸とある。しかし、この地は一貫して都市化していることから、戸数が減ることはあり得ない。戦後間もない頃 […]
今回は大東市にやってきた。ここには2つの部落があり、いずれも元は農村にあった。そして、その後都市化して今に至っている。 野崎は戦前の記録では138戸と既にそれなりの戸数であった。過去の航空写真では比較的家が密集しており、 […]
大阪にも、それなりの数の未指定地区がある。今回はその1つである。事前に地図等で調べてみたところでは、確かに部落が存在していたとは考えられるものの、そこに何か痕跡があることはあまり期待できなさそうであった。 かつての部落名 […]
ここはかつては「南新堂」と言い、戦前には268戸の部落だったとされている。さらに昔は「富田」と言い、応仁の乱の落人の7戸から始まったとされる。 この場所を探訪しようと思ったのは、地元研究者からリクエストがあったからだ。し […]
今回の部落探訪は箕面市萱野である。最近はNHKのバリバラで紹介されたが、大阪の衛星都市の部落では珍しく「北芝」という旧村名が全面に出されることが多い。戦前の記録ではここは芝村の一部であり、戸数は54戸あったとされる。 「 […]
吹田市には戦前に「新町」という63戸の部落があったようだ。しかし、この部落は戦後の同和対策関係の文献には見当たらない。 しかし、 吹田市に「新町」という地名の場所が存在したことは確かなようである。それがアイキャッチ画像の […]
今回は草津駅前の指定同和地区を訪れた。戦前の戸数は51、かつては留守川村、新町と呼ばれていたようだ。現在の地名は西草津一丁目。略して西一というのが同和地区の呼称となっている。 1996年の同和対策地域総合センター要覧によ […]
静岡市の中心部近くに部落があったようだ。かつては白山町(はくさんちょう)という名前で、昭和初期の戸数は77だった。さらに昔は毛皮町、屠児(えとり)町とも呼ばれており、その名前からどのような職業の人々が住んでいたのか想像で […]
前回は千浜を訪れた。せっかくここまでやってきたので、近くにある浜野の部落を訪れることにした。ここはかつての戸数が39、「西区」と称された。文字通り、浜野の西の端に位置している。
以前の記事で「私たちの手で 住宅地区改良事業・農村同和篇」の聖地特定企画をやったことを覚えているだろうか。今回訪れたのはその聖地の1つである。映画では具体的な地名は明示されなかったが、建物の形状等から掛川市千浜であること […]
コロナウイルスの影響で宿泊が必要になるような遠出は避けているので、車で日帰りできる場所ということで静岡県にやってきた。 まず訪れたのは掛川市中にある田ヶ池の北の谷にある部落。戦前の戸数は53と記録されている。
佐久市の中山道沿いに部落がある。戸数は37、農業・藁工・日雇労働をやっていたと記録にはある。前回紹介した平賀北口は街道の裏手だったが、こちらは街道に面している。 小田井は中山道の宿場であるから、この荒田部落は街道に関係し […]
佐久市3箇所目の探訪は平賀北口という部落である。ここは長野県水平社の高橋末次郎の出身地区であるという。1933年の戸数は31であった。 その立地は下仁田街道の裏手で、かつての航空写真では住宅が密集している。おそらく街道の […]
佐久市最大の部落は岩村田にあり、「城下(じょうした)」と呼ばれ、戦前その戸数は69であった。戦後間もない頃の航空写真では、確かに小さな住宅が密集した一角が見て取れる。1967年の記録では108戸に増えている。 ここではニ […]
佐久市瀬戸に小さな白山神社が残る部落がある。戦前の記録ではわずか9戸の部落ではあるが、水平社が結成された。水平社同人として高橋市次郎、高橋豊一という名前挙げられる。 そして特筆すべきは、宗教法人GLA創立者の高橋信次の出 […]
読者の方から『埼玉県東部の被差別部落のこと 山中の昔といま くらし・語り』という本があると教えていただいた。早速手に入れて読んでみると、白岡市上野田(かみのだ)の飛び地の部落のことが書かれていた。ここは融和事業の対象とな […]
現在はいなべ市になっている旧大安町に北條という部落があった。戦前の記録では75戸、商業や農業を主としていた。今昔マップで調べると、明治期に確かに梅戸北條という村があり、現在のいなべ市大安町梅戸の神明社付近が該当している。
甲良町は近畿地方で最も同和関係者の比率が高く、42.94%というデータがある。ただ、行政関係者によれば、それは単純に長寺と呉竹という2つの同和地区の行政区内の人口がそれだけの比率になるということであって、いわゆる部落民の […]
前回に続き、石津町下山の探訪である。1970年、大正時代に作られた『本村締盟規約旨趣ほんそんていめいきやくししゅ』という差別文書が発見され、下地区は騒然となった。 当時は部落である北組の住民と他の組の住民の交際は普通に行 […]
旧時村(ときむら)、現在の大垣市上石津町下山に18戸の部落があった。農業や履物商、日雇、そして博労(牛馬商)をしていた。 この部落に注目したのは、読者の方から、この部落こそが部落史に残る重要な文書が発見された場所だと言う […]
米原市一色には部落がある。戦前の記録では29戸。しかし、『同和対策地域総合センター要覧』によれば1996年には133世帯あった。同和地区指定されたが、改良住宅はなく、全て持ち家であるという。
岐阜県の部落と言えば養老の三神が有名だが、黒野もまた歴史ある部落である。昭和初期には戸数103の部落があったと記録されている。 特筆すべきは、戦前に軍隊内の部落差別を昭和天皇に直訴するという、北原二等卒直訴事件を起こし、 […]
北陸自動車道の米原ICの近くに並ぶニコイチは、高速道路を利用して米原を訪れる人にはどうしても目に付き、そこに部落があることもよく知られていることである。しかし、そのニコイチが払い下げられる等、ほぼ同和事業の完全終了に至っ […]
ウィキペディアで赤堀を調べると、「三重県四日市市の町名。後述の赤堀氏および四日市赤堀家の由来にもなった名字の地である。最寄駅に現四日市あすなろう鉄道内部線の赤堀駅がある。東海道沿いの江戸時代の近世文化が残る部落集落である […]
古河市最大で最も有名な部落であり、茨城県内でも最大の部落なのだが、昭和初期の記録ではその戸数は90戸。全国的に見れば特に大規模な部落というわけではない。 他の関東の部落によくある通り、白山神社があるのだが、地図で見ると2 […]
古河市の代表的部落と言えば大山・中田であり、この2部落は隣り合っている。大山の範囲は相当広いのだが、ほとんどは部落ではない本村であり、小堤という枝郷が部落であった。昭和初期の記録では、19戸と多くはない。 今回は、地元の […]
古河市駒込の北部に「竹内」という姓の家が集まっている場所がある。地元ではここは部落との伝承があり、1935年の記録でも確かに「上原」という18戸の部落があるとされる。 地図を見ると2つ神社があり、1つは鷲香取神社だが、も […]
1935年の記録では古河市の御倉下(おくらした)という場所に4戸の部落がある。市史によれば、御倉下とは雀神社の北側のことであり、現在の地名では宮前町である。 住宅地区をみると、松並二丁目でも見られた「七五三掛(しめかけ) […]
1935年の記録では、古河市に8戸の「畑中」という部落があったらしい。この地名を地図で探しても見当たらない。 しかし、市史をたどると、畑中は後に静町の一部になったことが分かった。現在の地図と過去の地図や航空写真を照合して […]
古河市稲宮(いなみや)には北坪という23戸の部落があったらしい。国土地理院地図で見ると現在「北」という小字があり、住宅地図によれば白山神社がある。ここで間違いないだろうと確信し、現地を訪れた。
どうしても異常で異様な同和地区への探訪が期待されてしまうところだが、引き続き古河市の農村部落を地道に特定していく。 古河市関戸の北谷という場所に25戸の部落があったとされる。現在の関戸の北地区には白山神社があり、地元で部 […]
古河市の「神明地」というところに31戸の部落があったという記録がある。現在の地図を調べると、古河市小堤に神明町(しんめいちょう)という地名が見つかる。今、そこはどうなっているのだろうか。手がかりを探しに現地に行ってみた。
1935年、現在の古河市の下宿(しもじゅく)という場所に、29戸の部落があった。その場所は用意に見つけることができ、住所表記では小堤(こつつみ)である。
地元研究者からお誘いがあったので、今回から茨城県古河(こが)市を探訪する。最初に訪れたのは水海(みずうみ)という場所。その名の通り、この辺りは沼や池だったようである。1935年の時点で戸数は3、主な産業は農業、そして白山 […]
1935年に現在の野田市山崎に44戸の部落があったという記録がある。正確な場所は、「野田市 山崎 隣保館」で検索すればすぐに分かる。野田市山崎2549番地に同和施設である「野田市立島会館」があるからだ。そして、会館の名前 […]
野田市の最大の部落は谷吉(やよし)である。戦後間もない頃までは、ここは「谷津(やつ)」「吉春(よしはる)」という2つの部落で、1954年に合併した。つまり、谷吉は合成名というわけである。1935年の時点で谷津は94戸、吉 […]
前回は親野井を訪れたが、さらに隣の次木(なみき)を訪れた。戦前の世帯数は16、1990年代は43戸あったという。親野井とは異なり、農地解放で多くの土地を手に入れたと記録されている。そのため、部落の様相は親野井とは全く違う […]
野田市親野井の部落は「親ノ井」とも表記され、寛永17年に江戸川を挟んで埼玉県川にある西親野井から河川改修に伴っての移住者により始まったと伝わる。最初の移住者は田中彦七であり、その子孫が増えたが伝染病のためほとんどの住民が […]
読者からのリクエストで、千葉県の関宿(せきやど)を訪れた。ここは千葉県の北西の端っこであり、利根川と江戸川に挟まれている。関宿には3箇所の部落があり、今回はその1つである西町である。昭和初期の記録では56戸、農業と商業を […]
山口県最大の茶筅部落は上関町にある。1935年には45軒、当時から主に漁業をやっていたという。それだけの情報しかなかったが、とにかく現地に行ってみると、今もただの漁村である。
中国地方には穢多村の他に「茶筅」という雑種賎民が住んでいた村が多数あった。茶筅という名前の由来は文字通り茶筅をはじめとする竹細工を作っていたことに由来するという説が有力だが、穢多に比べてさらにその実態は分かっていない。 […]
橋本町は唐津市最大の部落で、1935年の記録では115軒とされている。そして、1980年代は220軒あったようである。 飛行機の時間に追われながらの探訪となった。
1935年の記録では、唐津市西浜町に56戸の部落がある。山名伸作の福井県と佐賀県の同和地区現地研修記によれば1980年代にこの部落は30世帯程度で、同和地区指定はされなかった。
前回探訪した三反田からさらに北上し、唐津市内に入った。ここは唐津藩に属した地域で、佐賀藩において島原の乱への貢献から部落民が日蓮宗に改宗したという伝承とは無関係なはずである。しかし、ここでも部落と日蓮宗、そして番神堂は何 […]
佐賀県では高校生が全国部落調査をオンデマンド印刷してメルカリで販売したら役所から児童虐待された痛ましい出来事があったため、啓発のためにさらに探訪を続けた。今回訪れたのは佐賀市大和町松瀬の三反田(さんただ)にある部落で、い […]
今回は佐賀市の代表的部落、多布施3丁目を訪れた。1935年の記録では高岸という32戸の部落があったとされる。主な職業は食肉販売、屠畜であり、まさに部落のステレオタイプに合致するような部落であったと考えられる。
昨年、佐賀県では高校生が全国部落調査の復刻版をメルカリに出品したところ、県に事実上謝罪させられた上書籍を没収されるという児童虐待事案があった。そこで、佐賀県の部落についてはより一層の理解が求められるので、実際に訪れて研究 […]
同和事業最盛期の田川郡には様々な伝説が残されているが、糸田町と福智町の境界にある七十石という部落にも伝説的な建物がある。それが通称鉱害城である。 中原京三の著書「追跡・えせ同和行為」には「同和地区ののまんなかにそびえたつ […]
筑豊の川崎町には「泥棒部落」が存在し、そのことを書いた「女性自身」が猛抗議を受け、NHKが作った番組は川崎町からの抗議でお蔵入りになった…1970年頃にあったこの出来事は今でも伝説のように語られているが、それでは肝心の「 […]
福岡県には多くの部落があるが、実は大規模なものは少なく、その中でも最大と考えられるのが北九州市の北方(きたがた)地区である。明治期の地名は「田中」その後西北方と言われ、現在では北方3丁目が部落に該当する。 1933年時点 […]
福岡空港のすぐ近くに同和地区があるので行って欲しいというリクエストがあったので、行ってみた。確かに福岡空港の北の「大井」という場所に集会所と公営住宅があり、それらは同和対策によるものと推定される。しかし、戦前の記録には部 […]
大垣市南若森町は全国部落調査に掲載されていない。なおかつ、歴史的にも部落ではないのだが、周辺地域も含めて同和地区指定された。そして、ここには解放同盟大垣支部が組織されているが、これも部落とは無関係である。 つまり、南若森 […]
現在では新栄(しんさかえ)という名称の地域は、かつては不良住宅が密集する都市スラムであった。しかし、1980年代から住宅地区改良事業が始まり、現在は巨大な団地が立ち並んでいる。 1930年頃は下奥田という地名で、664世 […]
伊賀市老川には戦前の記録では22戸の部落がある。山間部にあり、家が建てられる場所は限られており、世帯数が大幅に増えたとは考えられない。しかし、ここには隣保館と教育集会所がセットで存在する。 通常、隣保館は50世帯以上、教 […]
津市大井町は同和地区だが、住宅が建ち始めたのは伊勢湾台風後のことであり、この土地自体は近世の部落では全くない。現在でも住所表記上は中河原の一部である。大井町という自治会名も、津市民に広く認識されているというわけではないよ […]
津市高洲町の1930年代の地図を見ると、池と沼地と田んぼと少しの家があるだけだ。それが1950年代になると、伊勢湾台風の被災者向けの住宅が作られた。そして1980年代には、同和事業によるニコイチの市営住宅群ができた。 無 […]
実は前回の相生町の前に訪れていた部落があった。それが、愛宕町である。戦前の記録では290世帯、職業は様々であり、隣の相生町と似たような様相であった。 明治時代は塔世(とうせ)村の一部で、明治末期に津市に編入、そして現在の […]
以前、和歌山市芦原地区の町内会長が地元で公共事業を請け負う業者から金を巻き上げる等していた件をレポートした。一方、三重県津市の同和地区でもそれに負けず劣らずの状況があるという。町内会長による市職員へのパワハラが横行してお […]
戦前の記録によれば、現在の深谷市本郷に14戸の部落がある。現在の地図を見ると、そこには市の集会所があり、住宅地図では北本という名字の家がいくつか見られる。針ヶ谷の石碑に北本という名字がいくつかあったことから、筆者はここが […]
深谷市針(はり)ヶ(が)谷(や)には、戦前には15戸の部落があったとされる。主に農業をしていたようだ。現地の地図を見ると、石碑の記号がある。そこに何か手がかりがあると思い、その場所を訪れた。
示現舎では、「穢多人別帳」という直球なタイトルの文書を入手した。「明治3年」「山河村」との記載がある。文字通り内容は当時の穢多の名前が記載されており、「真言宗長養寺菩提」とあることから、山河村とは同寺が現存している現在の […]
大阪市平野区平野市町の平野川沿いには遅くとも戦国時代に穢多村があったとされ、近代になってからは貧民窟になっていた。戦前には170世帯程度の部落があったとされ、当時の航空写真を見ると確かに川沿いに家が密集していることが分か […]
今回は大阪市旭区の両国地区にやってきた。大阪市内とは言っても、ここは守口市との境界に近い。かつての部落の様子を明治期の地図で確認すると、都市部落ではなく農村型部落であったことが分かる。 昭和初期の戸数は110,1990年 […]
前回の拝島に続いて、昭島市内のもう1つの部落を訪れることにする。昭和初期の資料では部落名は上組、戸数は21とある。明治~大正時代の地図だと「原」という小さな村として記載されている。1930年から1944年のごく短い期間に […]
拝島と言えば青梅線の乗換駅として有名だが、駅から少し離れたところに部落がある。昭和初期の記録では26軒、地区名は「第6区」と記されている。ここにも白山神社があり、弾左衛門配下の穢多村であった。
東京都東村山市は故・志村けんの故郷として知られるが、そこにも部落があったことはあまり知られていない。東村山駅から北へ1キロくらいの場所に、現在の西武鉄道の線路をまたぐ形で、中ノ通という43戸の部落があった。
琴浦町下伊勢は1923年の真宗大谷派の穢寺調査資料では76軒と記録されているが、1897年の新平民に関する調査には記載がない。1935年には104世帯と記録されている。
松江市の松尾地区については、1975年の同和地区精密調査報告書に詳細に解説されている。それによれば1917年には62戸、1935年には71戸、そして1974年には137戸であった。 筆者が訪れた時の第一印象は、他のどの部 […]
今回は鳥取県西部の琴浦町、旧赤崎町の出上にやってきた。1897年の記録では61戸、1923年には108戸、1935年には136戸の部落があったとされる。
小机駅と言えば新横浜駅の隣で、ここまで来るといよいよ横浜市の中心市街に近づく。そして、ここにも部落がある。 1934年の記録では22戸の「根崎」という部落がある。神権連の機関誌『人権のとも』2008年3月15日号に「横浜 […]
今回訪れたのは非常に少戸数の部落である。1934年の記録では6戸とされている。そして、全戸が農業をやっていたらしい。
ここには1934年の記録では坂下という名前の5戸の部落があったとされる。もう1つの手がかりが『人権のとも』2008年3月15日で、「横浜・十日市場」と特に地名を伏せずに掲載されている。
今回訪れたのは大阪市東住吉区の矢田地区である。本来の地名は「富田」であり、戦前は370戸の部落で主に行商やわら細工をやっていたとされる。戦後には591戸に増加した。 かつては穢多村が存在したが、大阪の他の部落と同様に明治 […]
この部落は1935年の記録では265戸、商業農業日雇いが主で、生活程度は悪かったとされている。さらに昔は杉本新田という地名であった。 その名の通り、新田開発が行われた。その時、関西各地の賤民が集められたと言われている。
現時点で40歳くらいより上の大阪人には「ぼくたちの町にはピッカピカの新幹線がとまるんや」と言うとピンとくるらしい。新大阪駅周辺が同和地区であることは、大阪ではよく知られた事実である。 現在の地名で言えば西淡路1丁目および […]
大阪の同和地区は、本来の地名から変えられている場合が多いが、住吉地区はかなり昔から住吉町だったようである。明治期の地図にも住吉と記載されている。 1935年の世帯数223で小さな区域に住宅が密集していた。1900年には住 […]
大阪市の生江同和地区は、かつては荒生(なぎ)という名前であった。正確には 荒生が部落というわけではなく、荒生の中にかつての穢多村があったのである。 1918年には250戸、1935年には574戸、履物修繕や土方をやってい […]