1921年3月の『香川県社会事業概要』によれば、小豆郡草壁町大字下村字「南部落」114戸、524人とある。古村の改善団体として草壁平等団があった。同じ年の『小豆郡誌』は、大正4年(1915年)末の戸口として草壁村大字下村「南」を87戸、582人と記録している。現在の小豆島町草壁本町が該当する。

今回はレンタカーで小豆島を一周している。橘はまさに東の端の折り返し地点で、そこから海沿いに西へ戻ると草壁本町に入る。かつて高松行きのフェリーが出ていた草壁港に近い、国道沿いの平地である。海に向かって白いニコイチが並ぶ。


住宅群のすぐ前が海で、船揚げ場に小舟が引き上げられている。護岸の柵には小豆島町の「ごみを捨てるな」の看板がある。

南側のニコイチだけでも100戸くらいあり、さらに国道の向かいには5階建ての集合住宅が建つ。集合住宅周辺にもニコイチ群があるので、現地から見ても確実に200戸を超えていると分かる。古村がそのまま改良住宅になったとしても、それよりもさらに多い。


『香川県社会事業概要』には、この南部落の改善団体、草壁平等団について詳しい報告が載っている。始まりは火葬場である。1916年、草壁出身で西宮に住む実業家の八木豊四郎が、専用火葬場の建設費を全額負担して町へ寄贈すると申し出た。工事は1916年7月から翌年2月まで行われ、落成式と同じ大正6年(1917年)2月15日に草壁平等団が発足した。団の事業は具体的で、団舎では20歳未満を対象に6か月間の補習夜学を開き、1919年度には男子35人、女子30人が学んだ。町の医師と協定して往診料を無料、薬代などを半額にし、1920年1月には納税組合を作った。14坪の団舎は県道への編入で20坪余りへ移転拡張中だったという。

住宅の壁に棟の記号が書かれている。ここはA棟。


翌1922年6月の内務省社会局『部落改善の概況』は、団が南部落一円を8つの区に分け、事務所を下村503番地の1に置いたと記す。団舎は二間に七間、共同便所が8か所、1918年1月には共同浴場を開いた。主に女性を雇う製縄工場もあった。戸数は110戸、487人。1921年の県の資料と数字が違うが、調べた時点か数え方が違うのだろう。1915年の87戸から1921年の114戸へ、古村は少しずつ大きくなっている。
なお『香川県社会事業概要』の一覧表では、この古村の区域が「草壁町大字下村字川西南」と書かれている。戸数と人口は詳報と同じ114戸、524人だから同じ古村を指すのだが、呼び方に揺れがある。現在の同和地区の呼称としては「草壁」で通るようである。


草の中に放置された自転車。塀の向こうの住宅には、Cとある。


1920年2月14日の『官報』には、同月11日に内務大臣が「香川県小豆郡草壁町南 草壁平等団」へ部落改善団体奨励金を交付したという告示が載っている。模範的な改善団体だったのだろう。
ただ、その2年前には別の顔を見せている。渡辺実『未解放部落史の研究』によれば、1918年8月9日の夜、草壁町南の住民250人が諸税の免除を求めて町役場へ押しかけた。米騒動の年である。山本繁『香川県の米騒動』が引く同年8月12日付の『香川新報』では、9日午後8時ごろに約310人が町役場へ行き、米の値上がりと安い日雇い賃金で暮らせないとして税の免除を求めたとある。22日にも住民が集まって抗議し、警察と消防組が警戒したが事件にはならなかった。人数は資料によって250人と約310人で食い違う。
米騒動は農村ではなく、主に地方の農業以外を生業としている村で起こった。米価上昇のあおりを受けるのはそのような村だからである。南部落も日雇いや商人がほとんどで農業は少なかった。



「草壁本町集会場」。小豆島町の固定資産台帳では、草壁本町229番地の1の「草壁本町改良住宅集会所」である。町の公共施設等総合管理計画には「草壁本町南集会所」という名前も載っている。周辺の改良住宅は、町の条例施行規則によれば昭和45年度から昭和60年度にかけて建てられた16区分、265戸である。


3階建ての中層住宅も並ぶ。

国道沿いのパチンコ屋の向こうに斜めに傾いた民家と団地が見える。




国道の南側のニコイチ群は整然としており、比較的清掃も行き届いているが、北側はやや殺伐としている。写真の青い屋根の住宅は、全体が傾いて歪んでしまっている。



今となっては古めかしいニコイチ住宅が立ち並ぶ。建て替えの話もあるようだが、相当な予算が必要なのでは。ニコイチがリニューアルされている土庄町に比べて、小豆島町でそれが進まないのは、草壁や橘の団地群を抱える小豆島では予算がいくらあっても足りないからかもしれない。同和事業の時代のようにじゃぶじゃぶと金が降ってくるわけではないのだ。

草壁会館。草壁本町204番地の1にある小豆島町の隣保館で、同和施設である。香川県の社会福祉施設一覧では事業開始が1959年4月1日で、2006年の町議会では人権対策課長が、1959年に県内で最初の隣保館として開設されたと答弁している。一方、厚生省社会局の1961年の資料には、1958年度に設置された「草壁南隣保館」が内海町草壁本町にあると書かれている。「南」という呼び名は戦後も施設の名前に使われていたのだろう。

会館の前の石碑。石臼のような丸い石に「草壁会館」、その両脇に「人の世に熱あれ 人間に光あれ」と刻まれている。同和地区であることを強調している。




住宅の隙間から瓦屋根のお堂が見える。浄土真宗本願寺派の長楽寺であったが、現在は法蔵院分院という。

木造の蔵と改良住宅が向かい合う。




太陽児童公園。入口の脇には小さな社がある。1921年の県の資料には、平等団の団舎の構内に荒神社があり、団舎の移転にあわせて新築する計画だと書かれている。この社がその荒神社である。



改良住宅には空き家も目立つ。


改良住宅を建て直すよりも、二束三文でいいから住民に払い下げたらよいのではないかと思うが、過疎が進む小豆島では住宅の価値など大したことはないし、維持費の方がかかるから住民が望まないそうである。

公園の柵に「バイクを乗り入れないで!」の看板。「南自治会・内海町」の名前がある。内海町は2006年の合併で小豆島町になったので、それより前の看板である。1915年の郡誌に「大字下村南」と載った地名は、自治会の名前として残っていることが分かる。
ここで、草壁財産区の話をしておく。財産区というのは、昭和の大合併で旧町村の山林などの財産を新しい町に持ち込まず、地域に残して管理するために作られた特別地方公共団体である。2016年6月の小豆島町議会で町長が説明したところでは、旧内海町では昭和26年と昭和32年の合併の際に旧町村の財産の持ち込みで合意ができず、旧町村ごとに財産区と財産区議会が置かれた。管理者は法律で町長が自動的に務め、事務は町の職員がとる。小豆島町の条例では草壁財産区の議会は定数12人で、議員は公職選挙法で選ばれる。
この草壁財産区で公金の横領があり、横領した人物は不審死したと噂されている。
2016年6月15日の小豆島町議会定例会で、議員が財産区の今後のあり方を質問した際、町長が答弁の冒頭で「先般草壁財産区で起きました不祥事につきまして、この場をかりましても深く町民の皆様におわびを申し上げたい」と述べ、「二度と同じような問題が起きないよう複数人の、いわゆる会計チェックなど万全の措置を講じていきたい」と説明されているので、横領があったのは間違いない。



1917年に寄付で火葬場を建て、夜学と納税組合を持ち、翌年には税の免除を求めて役場に押しかけ、1920年には国から奨励金を受けた古村は、昭和の終わりに265戸の改良住宅の街区へ姿を変えた。会館の前には水平社宣言の言葉が刻まれ、公園の看板には「南自治会」の名が残る。



