1958年の『大阪の同和事業と解放運動』によれば、島本町広瀬に古村があり、99戸、479人、主な産業は農業とされた。『大阪府解連協 設立10年のあゆみ』によれば部落解放同盟島本支部が1972年4月に結成され、1974年10月には同和対策集会所が設置されたとある。

またもや雨の中のクエストである。水無瀬神宮への案内標識を横目に住宅地へ入る。
島本町は人権文化センターの案内で、案内看板から先は道が狭く、駐車場にも限りがあるとして、徒歩、自転車、公共交通での来館を呼びかけている。そのため、すこし離れたところから徒歩でアプローチした。

広瀬が史料に現れる時期は古い。『新修大阪の部落史 上巻』は、1595年の高浜村名寄帳・検地帳に記された「かわた」が、隣の広瀬村内にあったと整理している。1718年の「諸色留帳」には、摂州13か村の「皮田村」の一つとして広瀬が挙げられているという。
1918年の大阪府救済課「部落台帳(抄)」には、地区内に学校がなく、子どもは島本村尋常小学校で学んでいたとある。就学児童は男子17人、女子9人の計26人。入学適齢者の入学歩合80%、中途退学率10%、入学者に対する卒業者率87%、出席率63%と記録された。。
全国水平社が創立された1922年3月3日の20日後の3月23日、広瀬で水平社宣伝演説会が開かれ、南梅吉らが演説し、約70人が集まったと警察資料に記録されている。
演説会の場所について、『部落問題・水平運動資料集成 第一巻』に収められた記録は「広瀬川原町部落民家」とし、島田亀吉が主催者だったとする。一方、『同 補巻一』などに収められた別の記録は「金照寺」とする。

これがその金照寺である。
「島田」という主催者も参考になる。

「島田」の分布を調べてみると、「谷川」の分布と重なっていることが分かる。やはり金照寺の周辺だ。

おそらくここが古村の中だが、同和地区とは言われなければ分からない。



そしてもう1つ注目すべきなのが、いかにも1970年代テイストの似たような形の家や団地がある場所だ。最初は同和対策で作られたものかと思ったが、名字の分布から判断すると、これは民間の開発によるものだろう。

団地の名字の傾向は明らかに古村とは異なり、よそからの移住であることを示している。ここはもともと田畑だったところで、高度成長期に開発されたのだ。

ただし、団地の一角にニコイチがあり、これは御茶屋住宅といって同和対策と関係がある。しかし、全般的にこれはかなり融和した古村ではないだろうか。
1933年4月、中央融和事業協会の模範的経済更生地区として、大阪府は島本村広瀬と東能勢村野間口にそれぞれ30円の奨励金を交付した記録がある。
『大阪の同和事業と解放運動』は、1963年の広瀬を府内でも同和事業が遅れた地区と記す。翌1964年には、議会関係者や町民の間で部落問題を考える動きが生まれたという。しかし、全国的にはかなり早いと評価すべきだ。




現在は人権文化センターになっているが、ここに同和対策の集会所、後の解放会館が作られた。
『大阪府解連協 設立10年のあゆみ』によれば、同和地区指定への反対運動や、会館建設への署名運動があり、議会でも会館は必要ないという意見が出たことが記録されている。町は、地区の内外を問わず利用できるコミュニティセンターとして会館を位置づけた。

2000年、島本町立解放会館条例は全部改正され、施設名は「島本町立人権文化センター」となった。2026年3月策定の第2期島本町公共施設総合管理計画には、児童生徒の学習支援や国際交流なども現在の機能として記載されている。
同計画は、現施設の建設年度を1978年度、構造を鉄筋コンクリート造、延床面積を731平方メートルとしている。名称は変わっても、解放会館として建てられた時代から同じ建物が使われている。


なお、古村には「水上隣保館」の施設あるが、これは同和とは無関係な民間の社会福祉法人で、障害者福祉施設である。



