菊池山哉の『長吏と特殊部落(上)』にはこうある。
本郡は江戸初期設置された中仙道が、南北に縦貫する。今曲輪の踏査に當って、中仙道の西側を、南から初めて、北に進み、郡界箕田村から、東側に移り、南下して新郷村に終る事とする。
○白幡の曲輪は、中仙道に座して、浦和町の南端に位する。
○白山神、社殿は大きい、神體は鏡、棟札はない。
○農家10戸許り。
○豊多摩郡の白幡にも、白山神社がある。白幡と白山と、何か關係があらうか。
ここは和名抄堀津の郷であらう。直ぐ北辻町に、式内調神社がある。但し中仙道の開通は、慶長年間であるから、ここへ出だのは、其後であらう。草創の事は分らない。
昔白幡村そのものが、曲輪であったかも知れない。寺を醫王寺と稱し、金子内匠なる人が、藥師堂を建て、醫王寺は其別當寺と云、鎭守八幡社の境内には、10抱への老杉があったが、明暦2年の大風に倒れたと云。古村には違ひない。
別の記録では5戸で靴を作っていたとも。
結論から言うと、菊池山哉はあからさまな間違いを書いていた。

まず目についたのが、この神社である。大きな神社とは言えないが、白山神社としては「社殿は大きい」部類に入るのかも知れない。しかし、地図に神社の名前は書かれていない。

格子戸の隙間から中を覗くと、奉納額が残っていた。「奉伊勢参宮祈願 皇軍武運長久 戦聖完遂」とあり、参拝日は昭和19年2月26日。まさに戦時中に掲げられた勇ましいものである。

道路側の立札には、この緑地は金子茂氏から寄贈されたとある。住所まで書かれているので、そこで聞いてみると、神社は「神明さま」と呼ばれており、創建200年の古いものではあるが、少なくとも白山神社ではないそうだ。
一方、医王寺はすぐに見つかった。真言宗豊山派、金輪山医王寺。


さいたまの古村が真言宗であることは珍しくはないので、これが古村の神社だとしても矛盾はない。


これが薬師堂で、金子家の墓地に建てられたもの。これについては確かに菊池山哉が記した通り金子内匠によるもので、内匠は「たくみ」と読むそうだ。


これがもしかすると八幡社かと思ったが、成田山だった。

後で知ったことだが、墓地の脇の白幡中学校の裏口横の茂みが八幡山と呼ばれており、かつてここに八幡神社があったが現存しないそうだ。



医王寺の裏手の奥まったところを歩いていると祠を見つけた。もしかするとこれが白山神社の成れの果てかと思ったが、これは屋敷神の稲荷神だそうだ。

県庁からそれほど離れていない、さいたま市の中心部なのだが、確かに農村の面影が残っている。この辺りの金子家は確かに医王寺の檀徒なのだそうだ。
しかし、長吏だの穢多だのといった話は誰も知らず、むしろ金子の本家は苗字帯刀を許された名主の家系だったのだという。
菊池山哉が記した白幡の曲輪は間違いなくここなのだが、「昔白幡村そのものが、曲輪であったかも知れない」などというのは、全くデタラメなことである。真相は次のクエストで明らかにある。




真言宗 豊山派 ×ふさんは、 〇ぶざんは
因みに智山派は、〇ちさんは