※写真は豊崎辺りにある、あばら家。戦後間もない頃は、梅田駅の北側のかなり広い範囲がスラムだった。
以前、中津探訪記を掲載したところ、中津会館について様々な議論があり、電子メール、電話、手紙で徹底解明の要望が多数あった。そこで、中津会館を巡る謎を調査したので、その結果を報告する。
ここが中津会館の跡地。1960年から1981年の地図では「中津会館」の記載があり、1984年から1991年までは「共励会中津会館」となっていた。そして、遅くとも1993年には現在と同じく駐車場になっている。また、中津会館の場所はもともと角地ではなく、今のように区画整理が行われて角地になったのは遅くとも1968年である。
そして、もう1つの問題は個人宅となっている、この謎の建物。
大阪市同和事業促進協議会『10年の歩み』に掲載された、中津会館の写真の建物と酷似してることが指摘されていた。しかし、これが中津会館でないことは、ほぼ確定している。
しかし、謎の建物の登記簿謄本を取得したところ、驚くべき事実が判明した。
土地、建物ともに「財団法人下三(参)番青年会」となっている。下三番青年会と言えば、この地の部落改善運動を行った団体である。そして、同時に1964年に区画整理が行われたことが分かる。このことから、中津会館が角地になったのが1964年であろうことが特定された。
さらに、財団法人下三番青年会の登記簿謄本を取ってみた。すると、法務局の職員が何からざわつき始めた。そして、「代表者名がないですけどいいですか?」と言われて渡されたのが次の謄本である。
設立年月日は大正3年12月12日で、何と全国水平社(大正11年3月3日設立)よりも歴史が長い。「風俗言語其他日常の諸動作を矯正し親睦を醇ふし相互扶助し公益の啓為進んで智徳を修養するを目的とす。」という設立目的は、まさに部落改善運動団体のものである。そして、もう1つ驚くべきことは2013年12月10日に解散登記がされていることだ。この歴史ある団体はごく最近まで存在していたのである。
代表者名が書かれていないため、これ以上のことは誰に聞けばよいのか分からなかったが、筆者は再び中津を探訪して手がかりを探した。そして、ついに下三番青年会の解散登記に関わったという人物に会うことができた。
謎の物件の所有者が下三番青年会になっていることは何を意味するのか聞いてみると、こういうことだった。
謎の物件は、下三番青年会の集会所だった。一方で中津会館は地区の集会所。下三番青年会の会合は謎の物件で行い、地区全体の会合は中津会館で行われるという具体に用途が分かれていた。しかし、下三番青年会の活動が下火になるにつれて集会所は使われなくなり、昭和の終わり頃には集会所は個人が借りる形になり、それ以来は事実上個人宅となった。
1990年に中津福祉会館が出来ると、地区の集会はそこで行われるようになり、用途を失った中津会館は廃止され、やがて取り壊された。
2013年に下三番青年会が解散したのは、ずっと休眠状態になっていたものを、休眠状態の法人を整理するという国の方針があり、それに従って解散登記を出したという。かくして、水平社よりも長い歴史を持つ団体は、ひっそりとその幕を下ろしていたのである。
そして、謎の建物が下三番青年会の集会所ということであれば、『10年の歩み』の作成者が、下三番青年会集会所を中津会館と勘違いしたのが、最もあり得ることではないだろうか。
最後に1つ聞いてみた。
「中津が同和地区に指定されなかったのは何故ですか?」
しかし、面倒くさそうにこう答えられただけだった。
「うちは、同和とかそのような団体には入ってないから、知らへん」
11月に淀川郵便局から地図のコピー等をお送りした「疑惑物件N宅」の命名者です。
大変興味深いレポートをありがとうございました。
答えを書かずに鳥取ループ様の調査に委ねる形で失礼しましたが、解答を知った上で展開されるレポートは鋭さが失われるとの私の身勝手な価値観もあり、お手数を掛ける形になりました。
徹底究明を求める声が結構あったのも、私同様にプロセスを知りたい解答だけ判っている立場の方が多かったということなのでしょうか。(笑)
その節はありがとうございました。答えは記事の通りで合っておりますでしょうか。
もしかすると、他にも何か未知の事実はありますか?
中津の謎の歴史がよくわかりました。
よく接触の手がかりを得られたと感心しました。
お疲れ様でした。