今回訪れたのは、かなり都市化が進んだ部落である。1934年の時点で世帯数は21、部落名は「矢中」。現在の川崎市宮前区馬絹が該当する。周辺地域は「宮崎台」との呼称もある。
ただ、都市に埋もれた部落であっても、大抵は様々な形でその痕跡を見ることができる。
まず、先に「横浜家系ラーメン 宮前商店」でラーメンを食べてから部落へと向かった。部落はこの店の後ろ側にあるらしい。
辺りはごく普通の住宅地で、マンションやアパートがあちこちに建っている。
やや狭い道を抜けると、広い庭がある大きな家がある。
斜面と神社の鳥居が見えてきた。
白山神社と稲荷神社が隣り合わせにあった。ご承知の通り東日本の部落には白山神社があることが多いので、この周辺が部落ということで間違いないだろう。
同じ姓の家が多いということは、明治時代の頃から続いている家が今でもまとまって存在することを意味する。親戚だからというわけではなく、おそらく同じ地域で同じ姓を名乗ったためで、部落に限らず古くからの集落でよく見られる現象である。また、確かにここは白山神社の「入口」だ。
さきほどの稲荷神社の石碑に「矢中講中」とあったが、この町内会の掲示板にも「矢中下」とあり、この辺りが「矢中」であることが分かる。
今年中に住居表示が実施され、部落の辺りは馬絹4丁目、5丁目になるようである。
同じ掲示板が斜面の下にも上にもあり、矢中の範囲は意外に広いようである。
古くからの家は一箇所に固まっているということはなく、比較的分散しており、あちこちに新しい家やアパート、駐車場がある。古くから土地を持っていた住民は、都市化の恩恵を受けていることが想像できる。
マスタングが停まっていた。
こんにちは。
初めて書き込みします。
高校卒業するまで隣の高津区に住んでいましたし、
親戚も多数住んでいました。
噂には聞いたことがありましたが、まさかこんなに近くにそういう地区が
本当にあったとは思いませんでした。
そう言えば昔、この馬絹のどちらかは知りませんが
北島三郎さんが馬絹の祭に招かれていたと聞いたことがあります。
コメントありがとうございます。
もはや知っている人の方が珍しいと思います。
馬掘は行かないのか?
神社明細帳の白山のは引本じゃなくて鈴木
あと由井も明治に急に一般と交わるから疑問だ
馬堀、行ってみます。
大津の由井は分家かも知れませんが「一般」ですよね。
名主も勤めてたはず(資料名忘れちゃいましたけど)。
馬堀の例の墓地に新し目の浦島姓の墓があったのには驚きました(家紋は無し)。
西浦賀と芝生の双方調べましたが、
浦島も分家・脱賤の流れでしょうかね?
由井は角井とともに諏訪社氏子総代で一般
だいぶ前に2chにて指摘頂いてましたが、
当のご本人であれば感謝します。
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/gunyakusyo/html/page/miura/15/95.html
嘉永五年に弾左衛門の直支配になったという芝生の小屋頭”長川久兵衛”と、
浦賀奉行所開設に伴い移転してきた”川間”姓も、
三浦郡神社明細帳で「暴露」とやらがされていることも確認できました。
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/gunyakusyo/html/page/miura/15/154.html
現地ではもっともろに「暴露」されてましたけど…。
間違ってたらお詫びして訂正するのが物事の筋。それができない人は人に非ずと言われても言い訳出来ない。
はじめまして。いつも拝見しております。
馬絹は仕事の関係で17年ほど前に住んでおりましたが(今回訪問された場所からは離れていますが)、
部落が存在したとは驚きでした。
これからもがんばってください。
ありがとうございます。他にも川崎の部落を探訪していますのでご期待ください。
こんにちは
初めまして
私は数年前に転勤でこの近くに越してきた者ですが、こちらのサイトを拝見するまでこの辺りが昔部落であったことを知りませんでした。
今は矢中という地名もほとんど使いませんし、記事でも触れていますが去年馬絹全体が住居表示のため番地が変わったりしました。この辺りは都内へ通勤出来るため新しい建売住宅やマンションも多く、そこに住んでいる方々のほとんどは部落のことなんて知らないと思います。でもその方が良いわけで、わざわざこのサイトのようにたくさんの写真や地名を乗せてこの地はもともと部落地区だったんですよ!とインターネットに乗せて配信することは、タイトルの、差別をなくそうというテーマと正反対ではないですか?折角新参住民と混ざって部落の記憶が薄れてきているのに、わざわざあらゆることが検索出来る世界に情報を掘り起して拡散することは差別を無くすことに繋がりますか?むしろ助長しているように思います。子供が検索して見てしまったらどう思うと思いますか?車のナンバーや個人宅が綺麗に写っているという点も良くないように思います。大変不躾ですが、この辺りに住んでいる者としてとても不快ですので、このページの削除を希望します。よろしくお願い致します。
メールアドレスはこのために作成したフリーメールです。
ぜひ子供は検索して見るべきでしょう。
部落差別をなくすためには、差別がなくなった部落の実例が広く知られ、未だ差別されている部落で差別解消に生かされるべきです。
こんにちは、普段は他の記事も読んでますが、同じ市内なので読んでました。
ココは市内でも部落で有名でしたが、西のような差別はなかった印象です。
また自分の地域は川崎でも東よりですが、ここの部落の人がウサギみたいな小動物を地元(うちの裏山)の山で狩っていたそうです(明治45年生・祖父が言っておりました)。
トラブルは無かったそうですが、山は薪を作る山だったので、薪山を育てるルールを破ると当時はペナルティーはあったそうです。
また昭和50年代初頭までは部落内のそっち系の家には玄関に「マーク・印」があったそうです。
今はほとんど建て直してわからないと思いますが。
#b08635993b4703e6bee29dbdab58cfbc
マーク・印とはどのようなものでしょうか
今でもマークがある家があれば教えていただきたいです
#c662db1a5d1cb9f11a97c0487a9b1aa3
マークと印は自分は見た事は無いのでどういう物かは詳しくはわかりません。
知っていた祖父はもうすでに亡くって聞けませんので、すいません。
#b08635993b4703e6bee29dbdab58cfbc
事実と異なる点が多く、驚いたのでメールしました。
入口さんを知ってますが地元の地主で明治以前から住んでます。
写真に入口さんの名前が多いのは親戚だからです。
このあたりに住んでいるのは、元々地主だった一族(入口さん一族以外にもいらっしゃいます)と、60年代以降に団塊世代のファミリー層が東京への通勤に便利なベッドタウンとして移り住んできたのと、新しく引っ越してきた人とで構成されています。なので出身地も東北や九州などみんなバラバラです。
この地域は古くから農業が盛んで、戦前生まれの地元のおばあさんが「このあたりは電車が開通するまで昔は田んぼと畑ばっかりで人も少なくて灯りもないため夜は真っ暗だった」と言っていました。馬絹の花桃は特産品です。
最近は高齢になったり亡くなったりして田畑の管理が難しくなり、子供も跡を継がなかったりして土地を手放したため住宅街にすっかり変わっています。
昔は畑ばかりだったのですが各地からどんどん人がやってきて写真のような住宅密集地になりました。
写真を見ても新しい家が多いでしょう。古い家は60年代くらいのものとか、それより古い家とか見たら分かると思います。団塊世代も家を引き払って、新しく引っ越してきた人がそこをリフォームしたり建て替えたりと、とにかく目まぐるしく人が入れ代わり立ち代わりします。
馬絹古墳などの史跡も多いことから古くから人の住んでいた地域であると分かります。
まずは馬絹の歴史から調べてみたら面白いのではないかと思います。
#4365ae849dba46b6c7c4056b63854ec5
先日メールしたのですが伝わっていない気がしましたので補足です。
まず、馬絹は宮部さんが思われているような部落ではないということです。
白山神社があるのでそう思われたようですが、馬絹は昔から農業が盛んでした。
白山神社は農業の神様ですので、古くからの農家の方達が祀ったものです。
農家の方達も田畑を売ったり地主になったりしましたが、まだまだ畑も多いです。
私も子供の頃は学校の課外授業で、近くの歴史のある農家で古い農機具を見せてもらったり、畑で芋掘りもしました。
昔は遠くまで見渡せるほどの広い畑がいくつも広がってました。
畑の販売所で母と野菜を購入したり、近所の畑のおじさんに野菜をもらったり、梨狩りや販売所で梨を購入したり、いくつもの畑を眺めながら通学しました。
なす、きゅうり、にんじん、ピーマン、白菜、長ねぎ、さつまいも、柿、梅、びわ、栗、梨、ゆず、みかん等々、たくさんの野菜や果物を季節の移り変わりとともに見てきました。
特産の花桃があちこちに植えられていて、鮮やかなピンク色を見て子供心に驚いたものです。
今では住宅が密集していますが、更に家が次々に建築されています。その分、畑は無くなっていきます。
馬絹の農業の歴史についても、お調べになってはいかがでしょうか。
馬絹をよく知らない人は、馬絹が昔から住宅密集地だったと誤解するようですが、昔は田畑ばかりで何も無い場所でした。
東急電鉄が鉄道を通して土地開発をし、高度経済成長期に団塊世代が通勤のために引っ越してきたので人口が増えたのです。
一度、東急電鉄の歴史についても調べるべきかと思います。その部分がごっそり抜け落ちている気がします。
なぜこんなに馬絹に人が集まるのかというと、東急線で横浜方面や渋谷から東京方面へ行きやすいことと、246号線が近くにあるのと、高速に出やすいこと、バスの本数が多いことなどがあります。
また、スーパーやコンビニや飲食店、学校、病院など生活に必要な施設があるのも便利なのでしょう。
私は駅の近くの方が坂道の上り下りをしない分、便利だと思います。
高度経済成長期に建てた家を売る団塊世代が増え、当時の建築基準は今ほど厳しくなかったため、再建築不可の家が多くて販売価格が安いような馬絹の物件は今も買い手が多いのだと思います。
マスタングの停まっていた家の方は、後から引っ越してきた方だと思いますよ。
もともと住んでいた方じゃなかったはずです。昔、家を建てている時を見ましたが「ああ、また誰か新しく引っ越してきたんだ」と思った記憶が薄っすらあります。
馬絹で生まれて数十年住んでいますが「部落」という言葉は学校の社会の授業でしか聞いたことがありません。
馬絹が「部落」と教わったこともありません。馬絹に住んでいる人全員がそうだと思います。
誰かが差別されたり、優遇されているのを一度も見たことも聞いたこともありません。
もし馬絹が「部落」だったら、絶対に一度は「部落」という言葉を見聞きするはずです。
もしかして「馬絹」という地名が珍しいから、何となくそう思われたのでしょうか?
ここで馬絹の地名の由来を書くと文章が更に3倍長くなりますので、興味のある方は調べてください。
まだ何か書き忘れたことがあるような気がするのですが。
うまく言葉にできたかわかりませんが、何とか伝わってほしいです。
色々と馬絹について間違った認識をされているようですが、事実ではないことを史実とするのは無理がありますので、適切な対処をお願いいたします。
#4365ae849dba46b6c7c4056b63854ec5
馬絹全体が部落ではなくて、その中のごく一角のことだと思います
馬絹全体もそうですし、ここにあげられた地域も違いますので。
>親戚だからというわけではなく、おそらく同じ地域で同じ姓を名乗ったためで、部落に限らず古くからの集落でよく見られる現象である
と書かれてますが、文章をもう一度よく読んでいただきたいのですが、入口さんの名前が連ねてあるのは「親戚だから」なんですよ。私は親戚の方も知っています。
事実ではないことを書くのは止めていただきたいです。
#4365ae849dba46b6c7c4056b63854ec5
>白山神社と稲荷神社が隣り合わせにあった。ご承知の通り東日本の部落には白山神社があることが多いので、この周辺が部落ということで間違いないだろう。
違います。白山神社は農業の神様なので祀られているだけです。
白山神社があるだけで、この地域を部落と決めつけないでほしいです。被差別部落と関係のない白山神社の方が
多いそうですよ。
#4365ae849dba46b6c7c4056b63854ec5
すみません、確かにあの白山神社は無関係な可能性が高そうです。
ただ菊池山哉によれば、矢中なので、現在の馬絹4丁目です。
#936f68f442f848abc0a95228dc94ec0b
>ただ菊池山哉によれば、矢中なので、現在の馬絹4丁目です
菊池山哉の「長吏と特殊部落」1953年の著書からの引用とこちらでは調べましたが、1953年とごく最近に菊池山哉の推測で書かれた内容のようです。
添付画像を見ましたが、矢中に部落があったとは書いてありませんでした。
「耕地」とは農耕地です。
「矢中」も1944年~1954年の地図を見ると今の馬絹4丁目とは範囲が違うようです。
「馬絹村の小名」は馬絹の一部を指しているようですが、それがどことは書いてありません。
「牢場谷」とは馬を飼っていた場所のことです。馬は急斜面を登らない性質を持っているため、谷や斜面のある場所に放牧する習慣があったようです。農耕馬なのか軍用馬なのか、1953年に見た人が牢場谷だと思った場所がどうなっていたのかは実際の写真や馬や土地の所有者などの資料が無いため分かりかねます。
「牢場谷」という言葉で誤解される方もいるかもしれませんが、牢屋や刑場があったわけではありません。
「谷」と付いているのは、馬絹や宮前区全体が谷の多い地形なので、その形状を表しているのでしょう。
「古く長吏曲輪のあった名残を残すものであらう」と書かれていますが、馬がいたから被差別部落があったとするのは強引に思います。
また馬絹の語源は市のホームページでも知ることができます。
平安時代の法令集である「延喜式(えんぎしき)」には、武蔵国に4箇所の勅旨牧(皇室財政を支えるための牧場)があったと記録されています。その一つとして「石川牧」(現在の横浜市元石川周辺)があったようです。有馬・馬絹とも元石川のすぐ近くですので「石川牧(いしかわのまき)」の一部で、地名的には「馬絹(まぎぬ)」は馬を放牧する「牧野(まきの)」が語源のように考えられます。
「有馬」は、戦国時代の文書にはすでにこの字で登場しており、江戸時代の「新編武蔵風土記稿」には「乗馬の縁ありておこる地名」と記されているところをみると、やはり牧場(まきば)と考えられそうです。
とホームページには載っています。
菊池山哉のwikipediaによると「部落史研究としては被差別部落民を異民族起源とする説を唱え、賛否両論を呼んだが現在この説は退けられている」とあります。
もし菊池山哉の著書の内容が正しければ、そのような事は起こりえないことです。
菊池山哉の著書の正しさを証明するためには「被差別部落民異民族起源説」を実証する必要性もあります。
著書の発行された時代背景を鑑みても、間違った内容の書物も多く、資料として確実な物とは考えられません。
#4365ae849dba46b6c7c4056b63854ec5
これはどうでしょう。
昭和7年、中央融和事業協会の融和事業功労者実績という本です。
融和事業とは戦後で言うところの同和事業です。
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添付画像をみましたが、内容もはっきりしないので分からないですね。誰が最初からいた人なのか、いつからいた人なのか、遠くから来た人なのか、引っ越してきた人なのかも分かりませんので。
菊池山哉の「被差別部落民異民族起源説」も含め仮に考えると、いつごろ、どういう事情で何歳くらいのどういう人達がどのくらい渡来して、どういう経緯でやって来たのか、住んでいたのか通っていたのか、養子なのか、どのくらい生きていたのか、など全く分かりません。
また、実際は部落民ではないのに周りから部落民として勝手に決めつけられ差別されていた人かもしれません。
都倉義知さんと宮部さんとでは、やっていることや目指していることの方向性が正反対ですね。
どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
どちらのしていることが人の理解を得られるのか考え直してみた方が良いのではないですか?
考えることが苦手であれば、家族の方々に相談して、よく話し合われた方が良いと思います。
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