『大阪の同和事業と解放運動』に掲載された1958年の『大阪府下部落概況』では、西天川は72戸、360人、主な産業は農業とされている。
高槻市の「町の区域変更」の変更前後図を照合すると、1963年7月1日の変更で大字西天川の一部を含む区域に春日町が新設された。1968年6月1日には大字西天川が廃止され、残った区域の一部も春日町などへ編入された。

前回に続き、土砂降りのなかでのクエストである。
『新修大阪の部落史 上巻』によれば、正保2~3年(1645~46)ごろの郷帳に西天川村が現れると整理している。
西天川は、記録に現れるのも古い。『講座部落 第1(部落の歴史 上)』によれば、1771年、西天川村の住民が田役や国役銀の免除を代官所へ強訴した。肝煎以下20余名が手鎖の刑を受けたという。同書は、この強訴の中心を「貧農」と位置づけている。

1913年には「西天川矯風会」という改善団体が設立された。資料には、地域総代と当時の村長が協力して設立し、風紀、衛生、教育、勤倹貯蓄、納税などについて談話会を開いたとある。
『大阪府解連協 設立10年のあゆみ』によれば、1971年7月6日に部落解放同盟春日支部が結成され、同月9日の高槻市との交渉で、同和対策事業の遅れと総合10か年計画を地区側と協議して作ることなどが確認された。
1973年5月25日には、春日町13番17号に高槻市立春日隣保館が建った。同書には、その後、共同作業所、東部排水路のかさ上げ、道路改善、下水の供用、保育所、公営住宅の整備が進んだとある。
1980年代初めに刊行された当事者文集『かあちゃんのオガリ』には、春日支部の女性による手記が収録されている。住宅建設には周辺から反対もあったが、筆者自身は1975年5月1日に住宅へ入居したと回想している。また、子ども会が求めた児童館の分室は1976年4月19日にできたという。

高槻市の現在の資料では、市営春日住宅は1974年度完成の2階建て12戸である。

現在の春日ふれあい文化センターは、1986年に「春日りばていコミュニティセンター」として開所し、2001年に今の名称へ改称された。春日青少年交流センターを併設し、地域福祉と人権啓発のための住民交流拠点とされている。
手記には、学校へ十分に通えず文字の読み書きに苦労した筆者が、何度も要求した末、1977年10月に識字学級が始まったことも記されている。現在の大きなセンターが建つ前から、住宅、保育、教育を求める運動が続いていたのである。

春日隣保館はもとはこの辺りにあった、今のメインの施設となっている春日ふれあい文化センターは、もとは隣保館の分館があったところのようである。

西教寺に隣接する春日町公園には、遊具、休憩所、ベンチ、トイレがある。雨天だったため人影はなく、濡れた赤いタイルと遊具だけが目立った。屋根があるので、野外で勉強をする場所としても使えそうだ。



公園のトイレの小便器、和式便器、手洗い器は銀色に輝き、サイバーな雰囲気を醸し出している。

公園の隣にある西教寺は、浄土真宗本願寺派大阪教区の寺院名簿にも春日町8番33号の寺として掲載されている。




南押切中央公園のトイレもこんな感じだったような