曲輪クエスト(358)埼玉県 上尾市 畔吉・小敷谷

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By 宮部 龍彦

旧大石村の畔吉あぜよし小敷谷こしきやは、菊池山哉が記録に残している。畔吉については、戦後は同和地区指定がされたと見られ、同和対策で作られた畔吉集会所がある。

しかし、そのことは上尾市民には、ほとんど知られてないであろう。

ここがその畔吉集会所。原市と同様に、今は貸館事業だけがされている。ただ、月に1回「部落解放北足立郡協議会(郡協)上尾支部」の会合があるという。

今はただの公民館と変わらないというが、本棚には同和だの人権だのといった本がある。しかも、比較的新しい本もある。市役所が買って持ってくるのだが、誰も読む人はいないのだそうだ。

菊池山哉は次の通りに記している。

○今は僻遠の地であるが、植川本郷から来る、上古の山道と、川越から来る道との、追分に位置する。

○白山神。

○農家である。畦吉村の東原のもの三十戸。小敷屋村へ分かれたものが、二十戸。一つ曲輪であるが、村は違ふ。何れも農家の広い構へで、富裕に暮して居る。

○小敷谷の曲論は、昔は無かったもので、芝切と称する家に(草分けの義であらう)。白山神社を祀つてる。その石祠に

文政三辰二月十一日

白山大権現

願主橋本治良八

と刻まれて居る。今の代は、夫から五代日にあたり、治良八が祖先と言ふから、文政頃に、小敷谷村に分かれたものらしい。五代に二十一軒に殖えたのは、土地が広濶の為であらう。 畦吉も、小敷谷も、実に濶い曲輪で、各自の家も、生籬を囲らした、門構へである。

○畦吉の白山神は、立派なものであったが、明治四十年代に、諏訪神社に合祀されて、今桑畑となって居る。 この曲輪は、殆ど橋本、高橋二姓のものである。当初の草分けは二軒であったらうか。 老人達の話す事に、明治十三年まで、白山様の境内に、それはそれは、大きな欅の大木があった。中は洞になって、その老人連は、子供の折に、中を潜って遊んだもので、廻り三十五、六尺ば堅かつたと云。 練馬の谷戸の大欅と、どちらでしたと言へぱ、テンデ問題ではないと言ふ。然らば府中の六所神社の大欅と、どちですかと言へば、まだまだ、大きいと言ふ。其一人は、枝が練馬の大欅位はあったと云。水田まで、枝がかぶって居ったと言ふから、測って見たら二十間近かった。夫れが明治十三年の暴風に、吹き倒されて仕舞ったので、東京の材木屋へ売却したと云。倒れたときに、鳥居は潰れたが、本殿は不思議に潰れなかったと云。話半分としても、樹齢鎌倉初頭へ上る事は、慥かであらうか。

○起源を聞いたら、坪之内の名主の家来と伝へられて居るとの答であった。坪之内の名主とは、今日没落して、東京へ出たとの事であるが,先祖は井原土在守と言ひ、天正頃の人で、此地の地頭であったらしい。

村内徳星寺蔵古文書に、

畦吉之内、徳正寺門前共に、任佗言、諸役免許、可為不入者也。仍如件

天正十七己丑八月廿八日

円阿弥奉

井原土佐守殿

とある。これは岩槻城主太川氏房の出したものと言はれ、門前共とは、取りも直さず、曲輪の人で、佗言とは、先例を言ひ立てて、願出たもので、革作りの註文から、諸役冤除されたものとは、逆である。乃ち守護不入の昔が、恋しかったのであらふが、夫れが、子孫今日の悲運をなしたもので、早く帳内者となれば、一般百姓と、尠しも変る理は無かつたものである。

○対岸荒川を隔てて、比企郡川丸村であるが、また入間郡とも境し、三郡の入会である。

荒川は寛永以後の新鑿で、それまで比企郡との境に、川はない。荒川が胴通されたので、街道は平方町へ移ったもので、爾後次第に.閑村僻地となったものであらう。

もとは畔吉の東原の曲輪が小敷谷に分かれ、ほとんどの家は高橋か橋本なのだという。そこで、2つの名字の分布を検証してみた。確かに部落には集中しているが、周囲にもそれなりに存在している。

墓地から、宗派はおそらく時宗であろうと推定した。ただ、現在は禅宗や日蓮宗(創価学会)の墓石も混じっている。宗旨替えした家もあったのだろう。

ここには地蔵菩薩が刻まれた板石があり、非常に珍しいもので、南北朝時代のものだという。

上尾市の指定文化財になっている。

昭和初期の産業は履物や養蚕。菊池山哉は富裕に暮らしていると記述している一方、生活程度は下だったという記録もある。

現地を見る限り、もともと立派な家が多かったように見えるので菊池山哉の記録が正しいのではないだろうか。ただ、農家ではなかったのは間違いない。

古くからの家は明らかに造園業…

…あるいは自動車に関わる仕事をしている。

先日、静岡の川勝平太知事が農家を見下すような発言をして辞職に追い込まれたが、実際のところ農家として成功するには知識とノウハウが必要だ。土地ごとの特性もあるから、土地があるからと言っていきなり始められるものではない。

それに、戦後になって草履作りや養蚕から転業するとしたら、農業をやるよりは、造園や自動車の方が収入がよかったのだろう。

住民に、解放同盟の活動はあるのかと聞いてみると、「ああ、同和のことか、だったらあそこに聞け」と言われた(写真の家ではない)。言われたとおりにすると、群協と解放同盟が活動していることが分かった。群協は解放同盟から分かれた派閥なのだという。

菊池山哉が記した通り、小敷谷にも橋本、高橋という家がある。それらは畔吉と隣接した場所に集中している。どちらかと言えば橋本が多く、しかも畔吉よりも豪邸ばかりである。

橋本や高橋の豪邸の間に、新住民による比較的小さな家があるという状態だ。

小敷谷にも集会所があるが、こちらは公民館という名前で、自治会の管理であり、畔吉のものより新しい。

小敷谷については、見た目からは全く部落とは思えないどころか、同和地区としての扱いもされなかったのではないか?

小敷谷には既に白山神社はなく、八合神社の氏子だと言うので行ってみた。

しかし、どうだろう?確かに高橋、橋本の名字が混じっているが、1つか2つだ。これは“一般”ではないか。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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曲輪クエスト(358)埼玉県 上尾市 畔吉・小敷谷」への5件のフィードバック

  1. 似非東南アジア系保育士?

    人権団体って一般地区の出身者で入っている人は本当に精神障害者が多いのですか?
    #41a2b458512775c650a454138e78858f

    返信
  2. 匿名

    複数IDで自作自演してコメント欄を荒らしていた#600bcの投稿が消されていますね。
    ついに投稿禁止処置か。
    #278fc8072e7ea50eb3a86d186f3b8843

    返信
    1. 宮部 龍彦 投稿作成者

      狂ったように連投するので、大事なコメントが埋もれてしまうので、一旦BANしました

      返信
  3. 匿名

    整理すると、
    1.畦吉村 字東原
      ・屋敷数 :三十戸(昭和10年頃)。
      ・白山神社:神仏習合で諏訪神社へ合祀。
            (村内9社が合祀)
            諏訪神社は村社へ昇格。

    2.大石村 字小敷屋 ※八合神社由来ではこの様に記載
      ・屋敷数 :二十戸(昭和10年頃)。
            文政頃に畦吉村 東原より分村。
      ・白山神社:元は草分けの屋敷神。
            神仏習合で氷川社へ合祀。
            (村内39社が合祀)
            氷川社は八合神社へ改名。

    同様の奉納者の碑もある様なので、諏訪神社(畔吉835)も確認した方が良かったのではないかと。
    但し、合祀後の両神社は村社の扱いなので、曲輪の姓で埋めつくさていれるとは考え難いのですが。

    上に掲載の「八合神社社務所改築寄附者芳名」では、
    凡そ400名余りとして橋本姓が5名、高橋姓は6名。
    内、字小敷屋は橋本姓3名、高橋姓2名。
    村内39社が合祀されているのだから、全氏子数の比率から見ればその位のものなのか。
    共に多数姓なので、残りの字の6名を「曲輪の者」と決めつける事は出来ないでしょうね。

    返信
    1. 宮部 龍彦 投稿作成者

      小敷屋の白山神社は八合神社に合祀されたのではないかと思ったのですが、これで確信を持てました。ありがとうございます。
      実は日暮れ近くなってしまったので諏訪神社に行く前に時間切れになってしまいました。

      返信