曲輪クエスト(357)埼玉県 上尾市 原町・瓦葺

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By 宮部 龍彦

埼玉県上尾市で同和4団体に補助金が出ているが、その団体名がなぜか秘匿されているというので、調査に訪れた。

上尾市の部落解放運動と言えば、かつて「原市水平社」が存在した。『新編埼玉県史 資料編 23 』によれば、その会員は120名に達し、埼玉県下の水平社の中でも大組織であったという。しかし、その部落がその後どのような経過を辿ったのかについては、あまり情報がない。

上記が、上尾市が情報公開請求に対して部分開示した同和関係補助金の文書なのだが、なぜか団体名までもが黒塗りにされている。

当地には立派な白山神社がある。

菊池山哉『別所と特殊部落の研究』に「武蔵北足立郡原市村本田の白山神社今分かれた新田だけが部落となって居ります」と書かれている。これは、何を意味するのだろう。本田とは小字なのだろうか?白山神社がある場所は部落ではないということか?

鰐口に「文久三癸亥」と書かれている。Xで教えてもらったのだが、これは1863年のこと。つまり幕末に作られたものである。

この形、見覚えがあると思ったら、驚くべきことに群馬県安中市大谷長坂の白山神社にあるものと、年も形も同じである。

つまり、同じ年に同じ形の鰐口が作られ、それが上州と武蔵の白山神社に納められたということだ。同じ鰐口を見かけたら、ぜひ本サイトにご一報頂きたい。弾左衛門配下の部落に納められたということが考えられるが、部落以外の神社、白山神社以外の神社にも同じものがある可能性もある。

社殿の中にはミカンと酒が備えられている。今も大切にされていることが分かる。

ところで、鰐口には世話人として「川田」という人物が2人刻まれている。白山神社周辺には、確かに川田という家が何軒かある。なお、川田という名字は北関東では比較的ありふれていて、上尾市の一般地区にも多い。

白山神社には、他にお稲荷さんや、仁王様らしきものがある。

さて、部落内はと言えば、昔ながらの家はほぼ豪邸で、新しい住宅が多数建っている。広い敷地のあるアパートの片隅には、かつての屋敷神であったであろう稲荷神社がある。

敷地が広い家の表札を見ると、川田の他、坂本、本田など。また、住民から村上さんも多いよと教えていただいた。

大変詳しい方から、昔のことを聞くことが出来た。

戦前は確かに原市水平社が存在し、部落解放運動が活発であった。菊池山哉が記した原市村本田の意味は、原市の中でも本田ほんでん新田しんでんがあった。現在の自治会に当てはめれば、原市6区が本田であり、原市7区が新田に該当する。

白山神社は新田にも存在し、今は跡形もないが、この写真の場所辺りに30年くらい前まであったという。

戦前は小作人の村で、本田よりも新田が貧しかったという。どちらかと言えば差別対象となったのは新田で、新田の子が貧乏だからと馬鹿にされて虐められていたのを、本田の子が助けてやったという武勇伝を聞かされたと、懐かしそうに語っていた。

本田には地主もおり、あまり差別されいるという意識はなかったが、本田と新田は仲間であり、対外的にはどちらも部落と見られていたようである。古老によれば、結婚差別や就職差別については、戦後を生きた自分としては個人的に実感はなかったが、昔大人の会話を聞いていたところではあっただろうな、ということだ。

しかし、戦後にGHQの力を背景に農地解放が行われると、状況は大きく変わった。かつては貧しかった小作人も土地を持つようになった。

そのような中で、土地を持て余した住人は土地を売って部落を出るようになった。残っているのは土地を守ろうという相応の覚悟をした人だけなのだという。そうして、水平社運動は自然消滅した。

口が悪い「らんらん」というXユーザーに、戦時中の『国民学校に於ける同和教育の実際』にこの部落のことが書かれていると教えていただいた。当時の戸数は137戸。なお、現在は本田(原市6区)だけでも400戸くらいあると聞いた。当然、ほとんどはよそから来た住民だ。

現地で聞いた名字と、資料に出てきた名字の分布はこの様になる。部落に多い傾向はあるが、いずれも上尾市では一般にもあり得る名字だ。

宗教は主に曹洞宗、一部は浄土真宗。

複数の保育所があり、若者や子供が多く、既に融和している。保育所を経営しているのも、昔からの住民であり、各々の大変な努力があったという。

白山神社の氏子が昔からの家になるのではないかと聞いてみたが、新しい住民の有志で白山神社の祭りに加わる人も多く、実際の氏子が何世帯かということも、もはや分からないそうである。

戦後にも同和事業の話があったが、関心を示すのは一部だったという。

なお、昭和初期の記録では瓦葺に2戸の部落があったとされる。これは、原市の東端で、段丘から1段降りた部分が原市の境界からはみ出て、瓦葺になっている部分であろう。確かに昭和初期の航空写真にも見える、本田・新田に多い名字の家が2軒あったが、新しい家と混じっている。実際に現地を訪れて、過去の航空写真と比較して研究しなければ、気がつかないだろう。

部落の西の端、このセブンイレブンの裏手に原市集会所がある。ここでは現在貸館業務に特化しており、職員への年1回の人権研修があるが、同和団体の活動は行われていないということであった。

ただ、令和5年度上尾市立原市集会所運営委員会の資料には、運営委員会として部落解放同盟原市支部、部落解放北足立郡協議会原市支部の名前が出てくる。一部の住民にしか認知されていないが、解放同盟と北足立郡協議会(郡協)の支部があるのは間違いないようだ。

ある古くからの住民は、例の黒塗り資料について、このような団体の活動は知らないし、隠すのもおかしなことだと首をかしげる。こんなことにお金を遣うなら、若い人や子供のためにもっとお金を遣うべきだと語った。はっきり言えば、原市に関しては必要ない事業という。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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曲輪クエスト(357)埼玉県 上尾市 原町・瓦葺」への7件のフィードバック

  1. 人権の季節

    関東の人たちは団体に入ってなくても8◯3とつながりはある。
    #8bbfb06bd965f0327f87669b878ab09e

    返信
  2. 佐藤真一

    おつかれさまです。
    30年前まで、近くに住んでいました。
    都会とは隔絶された部分もあると思いますが
    現在は、うまくやっているように見えます。

    返信
  3. 匿名

    お笑いコンビ「ハライチ」はこの原市出身なのでハライチです
    #607a5de15e3e1804961cbdf788a192d4

    返信