曲輪クエスト(116)掛川市“橘・末広”

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By 宮部 龍彦

2つの部落が隣接している例を時々見かける。それは偶然隣り合っているだけということもあるし、片方の部落が一方の部落から派生していることもあるし、もともと1つの部落だったものが2つに分かれていることもある。

今回訪れたのもそのような部落で、地名で言えば静岡県掛川市長谷と同大池の境界にまたがるようにある。1935年の記録では部落名は橘末広、169世帯とある。

ここが隣保館の「つくし会館」。

その近くには「橘区」と書かれた防災倉庫がある。

そこから西に離れたところに「末広区」の防災倉庫がある。ここには「橘区」と「末広区」という2つの自治会があることが分かる。

この地域の事情は少し複雑だ。ここは早くから「橘末広」地区として融和事業を行っており、2つの部落で共用の隣保館が古くからあった。しかし、戦後に同和事業が行われるとき、末広区は辞退した。

そして、末広区は自前でこの「末広公会堂」を建設し、隣保館を利用しなくなった。しかし、掛川市は橘・末広区をまとめて同和地区指定した。

現在の 「つくし会館」 は新しく作られたものだが、事実上は橘区だけの隣保館となっている。

中には人権を思わせる掲示物があり、隣保館であることは分かる人は分かるのだが、会議室等を地元の企業が頻繁に利用しているという。

こちらの白山神社は橘区にある。

一方こちらは津島神社で末広区にある。

橘区にある太鼓店と食肉卸。ここは昔「かわた村」であったと言われている。近くを流れる逆川《さかがわ》の水を利用して皮をなめしていた。現在の産業にもその名残があると考えられる。

2つの部落の中を東海道が突っ切っている。現在は部落の北側に国道1号線が通っているが、こちらの方が古くから存在する道だ。東海道沿いの部落は実はあまり多くなく、橘・末広は数少ない中の1つである。

2つの部落の見た目は大きく変わらない。違いがあるとすれば、橘区には隣保館と白山神社、そして太鼓屋と肉屋という、ステレオタイプな部落の定番物件があるため、それと認識されやすいことはあるかも知れない。また、廃墟や空き地は橘区の方が少しばかり多いように感じた。

それぞれ神社があり、寺も別々にあることから、2つの部落は隣接しつつもかなり昔から別々の村だったということだろう。いずれの寺も日蓮宗だ。

それぞれの部落に多い名字も異なる。末広区の墓地には服部が多い。

一方、橘区でよく見られるのは柳澤。このことからも、2つの部落は明治以前から別々であったことが分かる。末広区には太鼓屋や肉屋は見られないことから、産業にも違いがあったかも知れない。

いずれの地域も周辺に比べると地価が安いということだが、流入する新住民も多いという。アパート等の集合住宅は普通に見られるし、近年は外国人が戸建てを買って住み着くことが多いという。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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曲輪クエスト(116)掛川市“橘・末広”」への15件のフィードバック

  1. .

    部落は2つの町の境界線に跨っていることが多いような気がしますね。富山市の田双町とか、須坂の二睦町とか。町田市相原町と相模原市橋本もそうですか。

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      想像ですが、本村の外れに枝として配置された名残ではないでしょうか。

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  2. 奈良の人

    住民が辞退したのに無理矢理地区指定したのでしょうか?その時に住民側から反発は起きなかったのでしょうか?
    本来ならこれこそ人権侵害でしょう。同和団体はこの事に対して糾弾すべきだったんでしょうが…
    まあ実際は行政と同和団体が国からのカネ欲しさに地区指定したのではないでしょうか?

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      その辺りは分かりませんが、全国部落調査に橘末広とあるので、漫然とそれを踏襲してたのかも知れません。

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  3. 音野

    同和と在日ですが、協和町では在日コリアンが同じ町内に住む部落民から差別を受けていたようです。
    あと部落民が俘囚の末裔という説についてはどうお考えですか?

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      俘囚の末裔というのは違うと思います。

      私は部落の最初の起源は分からずにいますが、現存する部落については、言ってみれば貧困起源説とでも言うべき立場にあります。貧相な家が集まっている地域を勝手に部落認定する人がいますが、実は中世以降に遡ってもそういう基準で部落認定されていたのではないかと思います。

      旧因幡国の千代川沿いの部落なんてそうだと思いますよ。貧困だから川沿いに住まざるを得なかったのか、川沿いに住んだから貧困に陥ったのかは分かりませんが、とにかく、「あの者らは貧乏人だから穢多だ」と認定されたというのが一番しっくりくると覆います。

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  4. ミスター

    いつも楽しみに拝見してます。今度、東京都八王子市をお願いします。小比企町、泉町、長房町など気になる所がたくさんあります。小比企町にある白山神社は小比企稲荷神社に合祀されたらしいですが、近くにある緑地保全区域にひっそりとまだありました。部落の方は今でも白山神社を守り続けているのでしょうか。

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      無論、八王子も探訪候補です。時期についてはお楽しみに。

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  5. 別の動画でも『とうみ』と仰っていたかと思うのですが『遠江(とおとうみ)』のことですよね?

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  6. 遠州の人

    屋敷の隅に「お稲荷さん」が祀ってあるとのコメントでしたが、お稲荷さんではなくて「地の神様(じのかみさま)」といいます。
    「地の神様」を祀るのは遠州地方(静岡県西部地方:遠江国)の風習で、屋敷の北西の隅に祀ってあります。先祖が50回忌を過ぎると地の神様になると聞いたことがあります。
    地の神様は遠州地方の古い家ならどこの家でもありましたが、新しい家では土地も狭く、最近では見かけることが少ないです。
    詳しくは「地の神様」で検索してみてください。

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      すみません、大変勉強になります。遠州の部落を探訪する時は、そのように説明します。狭い日本でも地域ごとに大きく違うことに驚かされます。

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  7. ①なぜ東海道沿いに立地したのか

    東海道整備後の慶長14年(1609)掛川藩主・松平河内守定行の時に逆川の荒蕪地の開墾をかわた村(掛川市二瀬川)等に命じ、その代償として東海道沿いに土地が与えられ移住した為。なお遡る慶長5年(1600)には、民間陰陽師集団が同じく開墾を命じられ現在の掛川市印内に移住した。こちらは東海道整備より前の為、当時の印内村そのものは街道には直接面していない様だ。

    #aefb33ee014dec42fde947b60f6051c1

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  8. ②なぜ二つの部落なのか

    『掛川誌稿』によると、慶長8年(1603)又十郎と言う者が土地を与えられ新規に来住した。「革屋トハ少ク違アリ」「草履ナト云者ヲ造レル細工人ニシテ、尾州ヨリ来リシモノナリ」とある。恐らく起源を「かわた」と「草履造り」と異にする集落同士で仲は良くなかったのかと。服部姓や津島神社が祀られている末広区が尾張から来た方の集落であろう。たしかに尾張の津島神社の部落は、草履造りが生業でしたし。またかつての仲の悪さが、現代の同和地区指定での反目に繋がっているであろう事も興味深いですね。
    #aefb33ee014dec42fde947b60f6051c1

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    1. 宮部 龍彦 投稿作成者

      ありがとうございま
      隣り合っていながら、職業の傾向が違っていたのですね

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