『大阪の同和事業と解放運動』には、高槻市の梶原南に38戸という古村の記載がある。職業は農業。
高槻市梶原のうち、南半分の5・6丁目が該当する。旧西国街道と鉄道、田畑が入り組む一帯だ。

この東海道新幹線の高架の下からアプローチした。向こうに工事中の巨大な高架が見える。これは新名神高速道路の八幡京田辺―高槻間の工事である。

あいにく、土砂降りの中でのクエストとなった。道を進むと阪急京都線の踏切が見える。

通常、大阪の同和地区は、境界を越えた途端に道路が異様なほど整備されており、むしろ地区から出た先で道が細くなっていることもある。しかし、ここはそうではない。自動車で来るのはおすすめできない。

この寺について書かれた史料は見つからなかった。この西法寺は浄土真宗本願寺派である。

寺の由来が記されていた。天明の頃に再建されたという。寺の脇を通る道は古くからあるもので、この先は西国街道に抜ける。国道171号方面へは、昔は畦道しかなかった。


昔からここは農村で、他の大阪の古村と違って大きな開発はされず、ほぼ農村のままである。


『大阪同和教育史料集 第2巻』には、1961年9月13日に富田地区と一緒に高槻市議会へ出された陳情書が収録されている。その「梶原地区住民の要望」によれば、当時はまともな道路が同和対策で舗装された東側に抜ける道だけだったようである。


マッポン!が強化され、周辺に多い名字を表示することができる。先ほどの資料では陳情人の名字が最初の1文字しか判読できないが、確かに「谷」「岡」「吉」のつく名字が多い。

陳情書では、国鉄東海道線のガードが低く、消防車が入れないことも問題にしていた。この煉瓦アーチがそのガードとみられる。たいへん古いものだが、建設時期は確認できなかった。確かに、自動車でくぐるには厳しい狭さだ。

ガードが梶原の一般地区に抜ける主要な道になっている。

地区内の道について、陳情書は行き止まりが多く、迷路のようだとも記している。当時は舗装されていないところが多く、クエスト時のように土砂降りの雨だと足が泥まみれになったことだろう。



現在はどの道も舗装され、新しい家もそれなりにあって、空き地や廃墟が特に多いわけでもない。狭い道が多い古村と言えば池田市の北古江があるが、北古江に比べると梶原南は景観が良くて普通の農村に見える。

陳情書には、地区内に集会所がなく、会合には寺を使っているともある。現在は「梶原五・六丁目自治会館 ふれあい館」がある。

路傍には地蔵が並ぶ。西法寺の由来書や古い家並みを見ると、ここが長く続いてきた集落であることが分かる。

1961年の要望では、地区の主な産業は農業であり、農業機械の導入も求めていた。今も線路際まで田畑が残っている。

1969年の同和対策事業特別措置法施行後に、同和事業が行われた記録は見当たらなかった。地区側が同和事業を辞退したのではないか?



