松本市の新屋町に68戸408人の古村があったという。『差別とのたたかい 部落解放運動20年の歩み』では、松本市新家町として73戸が記録されている。
菊池山哉は『長吏と特殊部落』で70戸ばかりの曲輪として報告している。
菊池山哉はこう記している。
七、松本市、南新町、□□
○構へと思はるゝ地勢はなく、平地であるが、大きな曲輪である。
○白山神。
○密集、貧家が多い。七十戸ばかり。斯くまで多いのは、松本市の関係もあらうが、昔時軍陣の激しい折の軍需品関係にも原因があるであらう。
○この頭目大友氏は非常に旧家らしい。各所で異口同音に唱へて居る。伊奈では小山氏が古いと聞いて訪ねたが、水害で失せたとかで、何ものも見られなかつた。
大友家にも遂に古文書は無いらしい。墓場を案内された、祖先の墓と云ふものを見ると、永正七年庚午年四月十八日、大友彦右衛門義教、出川ノ里ニテ始奉法、云々とあり、五輪の如きものであるが、江戸末期に建てたもので、元より永正のものではない。
他は元文五年、天明五年、享保八年、文化三年、寛政十一年、安政六年と相当大きな墓石が並んで居る。
始めて法を奉ずとは真宗に帰依した謂で、歴代一捲門徒であるらしい。家紋は巻物の引違ひ、銀杏葉垂らし、これを祇園守と称すと云。
この曲輪は俗に小島と称してゐる。
「信府統記」に
小島の城址、四方に流れありて、井の字の如くなる故に、井河ノ城と云。古へ誰人の築けると言ふ事を知らず。久しく小笠原家にて持ち来れる処、城主中絶して城廓廃壊せり、寛正六年再び之を修覆して、改め名けて深志城と云。元弘の頃、信濃守政長、井河館を深志に造る、是より政長の子孫、小笠原の総領として深志殿と云。永正元年一族島立左近四郎氏長松本新城を築く」云々。
「得替記」云。
松本城地は古へ深瀬と云所也、甲陽軍鑑には富貴志と有り。古へ国司者今の城より西の方井川の城に住す(略)永正の頃小笠原嶋立と云者、此近辺の在名を家号として此城を築く也。」
この曲輪が井河ノ城と深い関係にある事は言ふ迄もない。永正七年に死んだ大友彦右衛門が祖先と言ふが、坂城の伝説では康正に松本には長吏が居つたと云。康正は永正から五十年も前である。然らば別に古い組があつたので、大友氏は別に新規取り立ての長吏であらふか。
永正頃は小笠原家は百年骨肉相食む闘争を続けて居つた時代である。
これ丈の伝承では遂に真相は捉み難い。


現在の庄内1丁目には新家町公民館と南新町一丁目公民館があり、旧町名の名残が今も残っている。

新家町公民館の横には旧町名の石碑がある。菊池山哉は小島を俗称のように記しているが、実際は小島村の一部という位置づけであったようだ。



南新町一丁目公民館の裏手には、旧家のものとみられる墓地がある。大友 井野根 上田 田中 神田など。
菊池山哉は浄土真宗であることを示唆しているが、戒名を見る限りはおそらく浄土宗である。

白山神社は庄内1丁目1番地付近にあり、資料上でもこの地区を考える上での代表地点である。

白山神社は少し奥まった分かりにくいところにある。



鳥居に刻まれている名字は、先ほどの墓地と大体同じである。




今でこそ都市化しているが、戦後間もない頃は白山神社の周辺は田畑であった。


近世松本藩領の長吏組織では、藩の頭役を勤めた彦太夫家の文書は散逸している。しかし大町組の「永代留書帳」からは「出川彦太夫」「出川役元」の存在が確認されている。研究上、彦太夫の居住地は出川ではなく小島村であり、「出川」は居住地ではなく頭役家に冠された通称、あるいは出川刑場との関係に由来する呼称と解されている。

庄内3丁目1番地には貞享義民刑場之址、いわゆる出川刑場跡がある。現在は空地になっている。


『差別とのたたかい 』によれば、1948年結成の部落解放全国委員会長野県連合会初代役員に、政治部副部長として松本市南新町の井野根姓の人物が見える。

古村の住民の土地だったところに新しいアパートが建っている一方、高齢化や住民の入れ替わりが起こっていることがうかがえる。

何とこの青果店は大正時代から105年営業しており、困難はあってもまだしばらく営業を続けるという。店は開いていたが、残念ながら店主はどこかに出かけているようであった。




ここの頭の大友彦太夫の弟が9代目の浅草弾左衛門の妹の養子になり12代目の浅草弾左衛門になっと菊池山哉や君は知らんのか?
ネットの電話帳の一般検索がまた不能になったぞ早く直せよ。