めくるほどにナゾが増える。〝昭和の奇寺〟平和寺本山(伊豆市)の追跡レポート。2020年7月、同寺から廃棄物混じりの土砂が流出し柿木川に流出するも寺側は撤去に応じない。静岡県は行政代執行の予定だ。だが政治、反社、韓国まで絡む同寺だけに過去、行政は後手に回ってきたのではないか。怪しい活動歴を追った。
熱海土石流事件の検証途中で話題に
2021年7月に発生した熱海市土石流の復旧工事や検証が続く中で、伊豆市では平和寺本山からの土砂流出事件が騒動になった。静岡県は盛り土と不法投棄が非常に多い地域だ。平和寺本山の土砂問題も当時、大きく注目された。
改めて概要を説明しよう。2020年に同寺内の盛り土と不法投棄物が付近の柿木川に流出。2021年3月26日、伊豆市は寺の関係者ら4人に対して損害賠償を求め提訴した。いまだ撤去に応じていないために静岡県は行政代執行を検討。静岡テレビ朝日によると2月27日に県と伊豆市が住民向けの説明会を開催し、早ければ7月に行政代執行に踏み切る予定だ。
現役世代の行政関係者にすれば「後始末」という思いだろう。開山には政治力が働いており、右翼、ヤクザといった面々も関与した。このため行政的にはアンタッチャブルな存在となり、行政指導が鈍った可能性が高い。このため土砂流出について行政の不作為と筆者は睨む。



政治力といったのには理由がある。1972年、戦争犠牲者と戦没者慰霊を目的に靖国会館で第1回創立会が開催された。古参の関係者によれば「中曽根康弘元首相ら自民党要人が発起人だった」と話す。数年前に火災で亡くなった元役員の自宅には中曽根元首相の揮毫が飾られていた。平和寺ゆかりの政治家だったようだ。
また平和寺本山は5・15事件の中心メンバー、三上卓海軍中尉を顕彰している。三上は『昭和維新の歌』の作詞者で、弟子には故・野村秋介。三上に対しては現在でも右翼の信奉者は少なくない。
保守派・右翼勢力との結びつきに加えて地元行政もあわよくば平和寺を観光地化したいという思惑があったという。「旧天城湯ケ島町(伊豆市)も協力的だった」と元役員は話す。

開祖は大野浩龍(故人)という人物。四国出身で前歴は暴力団組幹部だったが、抗争に疲れて子分の慰霊のために伊豆にやってきたそうだ。
浩龍を補佐をしたのが「宮永等」という人物で元官僚として通っていた。平和寺本山では「国際理事」の肩書きを持ったが「周囲には内閣情報調査室出身を名乗った」(元信者)という経歴である。
なにしろ関係する人物は元暴力団、反社、そして右翼活動家といった手合いが目立つ。伊豆市から提訴された一人(故人)は右翼団体代表という肩書きがあり、ボランティアで寺の整地作業を行った。
浩龍氏の経歴が怪しいとしても地元では相応に信奉者、支援者はいた。ところが東光院智應という人物が管主になってから状況が変わった。平和寺に石碑を寄贈した業者によると「東光院氏もウチに来たことがあった。その時は“ おかしな人たちが寄ってくるからもう来ないでくれ”といった」と嫌悪感を露わにした。
一時期は平和寺本山のWEBサイトがあったが、その時の管主が東光院氏。「おかしな人たち」という点で象徴的なエピソードがある。音楽プロデューサー・小室哲哉氏の楽曲詐欺に関わった音楽事務所の所在地というのが平和寺本山だ。
その東光院氏が管主の頃から活発になったのが戦時中の朝鮮人遺骨返還事業である。
本当に遺骨収集事業はあったのか

現在は平和寺本山を離れた元支援者らが共通して「怪しい」とするのが戦時中の韓国朝鮮人犠牲者の奉還事業である。同事業は内閣情報調査室出身を名乗る宮永等なる人物が韓国、在日本大韓民国民団(民団)との仲介役になったそうだ。
今回、当時の資料の一部を入手したが、「太平洋戦争時韓国朝鮮人犠牲者の霊位祖国奉還記録」(第3次奉還者名簿、第4次奉還者名簿)という冊子がある。戦時中に福島県内の炭鉱で働いた朝鮮人労働者の遺骨や位牌を本国に返還するというのだ。韓国、それから北朝鮮とあるが、北とはどういうルートを持つのか謎である。
2002年12月10日の第3次奉還では遺骨46柱+他1柱、霊位104柱、また2003年3月16日の第4次奉還では位牌50柱、遺骨51柱を韓国側に返還したと報告されていた。
資料を提供した元役員はこう一笑に付す。
「これだけの大事業でしかも戦時中の朝鮮人犠牲者の遺骨返還なんてマスコミが好んで報道しそうなものでしょ。ところが取材されたことなどはただの一度もなかったし、もちろん報道にもなっていませんよ」
確かに指摘は頷ける。東京都目黒区・祐天寺に厚生労働省の委託で仮安置されていた700人分の遺骨返還をめぐっては市民団体が政府と協議を重ねてきた。それにこうした情報は朝日新聞など左派メディアが大々的に報じるものだ。もちろん遺骨の中には朝鮮北部(現北朝鮮)出身者分もあるため、返還は進んでいない。
ところが民間の、それも平和寺本山という怪しげな団体が第3次で151柱、第4時で101柱(いずれも遺骨、位牌の合計)という国策級の返還事業を行えたのだろうか。それならばHP上などでも堂々と成果を発表すべきだが、閉鎖以前のHPには遺骨返還についてのレポートはなかった。

その一部を抜粋してみよう。

第3次、4次は全て同様の書式、同じ筆跡で改葬許可証がまとめられている。墓は福島県・出蔵寺で許可証には当時のいわき市長印もあった。許可証の取扱窓口の欄には「本庁」とあるが、「本」の筆跡は左に寄り非常に特徴的だ。まるで特定の人物が流れ作業的に書き込んだ印象を受ける。「平和寺本山の事業」だから著者も「疑ってかかる」という先入観があるのは認めよう。だが不自然な点があまりに多い。それ以前に戦時中の朝鮮人遺骨返還とはいかにもマスコミ、市民団体が好みそうな事業なのに大きく取り上げられなかったのが不思議でならない。
出蔵寺によれば「宮永等という方が返還事業に関わったのはよく覚えていますが、先代の住職の時のことなので詳しい話は分かりません」ということだ。
平和寺本山の設立経緯からして行政的には〝触らぬ神に祟りなし〟という態度であったことは目に浮かぶようである。現在はすでに廃寺、廃屋同然で関係者、地元にとっても負の遺産でしかない存在だ。このタイミングで行政代執行と静岡県や伊豆市が騒いでも対応が遅すぎた。昭和の暗部、歴史の不良債権に苦慮する現役世代の行政職員や地元住民に対しては同情を禁じ得ないが…。
少なくとも強制動員というのは捏造。
#278fc8072e7ea50eb3a86d186f3b8843
ありがとうございます。
ご指摘通りです。
炭鉱で働いていた労働者ということですが、かといって強制動員されていたなんて証拠は何もありません。