J・マーク・ラムザイヤー教授『アイデンティティ政治の 発明について:日本における 被差別部落民』②

By 宮部 龍彦

On the Invention of Identity Politics: The Buraku Outcastes in Japanの日本語訳の続きを掲載する。前回はこちらを参照のこと

今回は、近代の部落研究の成果についての続きである。そして、近世つまりは徳川幕府時代の部落が、同和事業が行われた20世紀半ばの研究と、今もなお流布している「通説」と全く違ったものであったことを説明している。例えば、江戸時代の身分は常に固定されているわけではなく、流動的であったということだ。

C 機能不全

1 スラム

現代の部落を訪れた人が驚きを隠せないのは無理もない。西洋の標準的な説明によれば、現代の部落の最も注目すべき点は、注目すべきことがない点だ。貧乏ではない。汚れていない。室内の配管や十分な居住空間、防火設備がないわけでもない。全く特徴がないのである。評判を聞くと、スラムを期待してしまう。主たるところでは大阪だけが―大阪のある場所だけに―、それを見つけることができる。

大阪市西成区の釜ヶ崎地区に、日本の悪名高いスラムがある。暑い夏の夜に激しい暴動が起き、1966年に「あいりん」と婉曲的に改称されたこの地区には、日雇い労働者、浮浪者、ホームレス、アルコール依存症、薬物中毒者などがいる。2万人から3万人の多くの部落民が住んでおり(訳注:あいりん地区は歴史的に被差別部落ではなく同和地区指定もされていないが、『全国部落調査』には部落として掲載されている)、主に男性日雇い労働者の中心地となっている。いくつかの犯罪組織が本部を置いている。また、福島原発の清掃作業員を募集する業者もいる。

訪問者は、日本には部落以外にスラムがほとんどないことに注目すべきだろう。暴力団系の解放同盟の指導者が多額の政府補助金を流用したことを批判すると、解放同盟に同情的な作家たちは、少なくとも補助金によって最悪の部落スラムは解消されたと答える。しかし、実際には、部落以外のスラムのほとんどが消滅している。同和対策事業を受けていないのに、消えてしまったのである。日本のスラムは、政府の補助金によって消滅したのではない。日本人の所得が増えたから消滅したのである

2 収入

都道府県レベルのデータは、現代の部落民が他の日本人よりもわずかに貧しい傾向にあることを示唆している。(1935年を除き)都道府県レベルより詳細な部落民人口のデータがない場合、都道府県レベルのデータを使用した。生態学的な誤りのリスクは明らかに存在する。しかし、そのような注意を払った上で、ある都道府県における部落民の割合と、個人の福祉に関するいくつかの指標との間の相関関係を考えてみよう。部落民人口については、14回の実態調査のうち最も新しい1993年のものを使用する(総務庁, 1995)。

都道府県レベルの変数は以下の通りである。

部落民PC、1993
1993年(総務庁, 1995)の部落民人口を総人口で割った値。
人口密度、1993
1993年の総人口を面積(100平方キロメートル)で割ったもの。
県民所得PC、1993
県民総所得(内閣府、1994 年)を総人口で割ったもの。
下水道普及率、2010
2010年に下水道施設が整備された人口を総人口で割った値(日本下水、2011)。
貧困率、2007
2007年に最低生活費以下で生活している世帯の割合。戸室(2016)は、まず都道府県ごとの最低生活費を推定し、その指標を下回る収入の世帯数を評価することでこの数値を算出している。
HS-大学進学率、2010
2010年の大学進学者数を高校卒業者数で割った値(文部科学省、2011a)。
平均余命女性、2010
女性の平均余命、2011年(厚生労働省、2011b)。
身長5年生女性、2010
2010年の女子生徒の平均身長5年生(文部科学省,2011b)。
乳児死亡率、2010
2010年の新生児死亡数を総出生数で割ったもの(厚生労働省、2011b)。

表3には抜粋した要約統計量を掲載している。読者の便宜のために、これらの変数とそれ以降のすべての変数の定義を表4で繰り返している。

表3: 抜粋された要約統計

n最小値平均値中央値最大値
部落民PC
18684401.1820.8404.862
19214601.6050.9125.750
19934600.9570.3354.289
人口密度、192146285924,80316,574174,998
県民所得PC、 2009472.0062.6062.5794.486
犯罪数PC
1920470.0050.0130.0110.037
2010470.0050.0110.0100.019
生活保護率、2010470.0070.0240.0210.054
非嫡出率
1920470.0050.0810.0720.159
2009470.0130.0220.0210.040
納税者PC、1923470.0090.0300.0280.059
外婚率、19214200.0670.0250.500
水平社支部、19334607.457045
部落県民有権者数、19214200.0170.0160.037
殺人率、1920474.98e-60.000030.000030.00007
部落の農業比率、19354100.5300.5370.979
部落の大きさ、19214241.2211.9168.2798.5
補助金PBC、1963-663700.7350.2947.263

出典: 本文および表1を参照。

表4: 使用した変数

解放令反対一揆
1871年の解放令に反対する一揆があった県は1、それ以外は0。
部落の農業比率
農業に従事している部落の世帯数を部落全体の世帯数で割ったもの。
部落犯罪率PBC(部落民一人当たり)
犯罪をした部落民の数を部落民全体の数で割ったもの。
部落非嫡出率
非婚の部落民の出生数を部落民全体の出生数で割ったもの。
部落県民有権者数PBC
都道府県知事選挙の投票権を持つ部落民の数(被選挙権は所得に応じて異なる)を部落民全体の数で割ったもの。
部落の生活保護者PBC
生活保護を受けている部落民の数を部落民全体の数で割ったもの。
部落民PC
部落民の数を総人口で割ったもの。
胸囲
7歳時の男子女子の胸囲。
一人当たりの犯罪数
刑法違反の件数を総人口で割ったもの。
密度
総人口を面積(100平方キロメートル)で割ったもの
離婚率
離婚件数を婚姻件数で割ったもの。
赤痢率
赤痢による死亡者数を総人口で割ったもの。
外婚率
部落民と一般民との婚姻数を、部落民全体の婚姻数で割ったもの。
身長,5年生女子
5年生における女子の平均身長。
身長
男子と女子の7歳時の身長。
非人率
1868年の部落民のうち、非人の割合。
HS大学進学率
大学に進学した生徒の数を、高校卒業者数で割った値。
非嫡出率
非婚による出生数を総出生数で割ったもの。
乳児死亡率
新生児の死亡数を総出生数で割ったもの。
糾弾率
糾弾会の回数を部落民の数で割ったもの。
平均寿命、女性
女性の平均寿命。
覚醒剤犯罪一人当たり
覚醒剤を使用した犯罪の件数を総人口で割ったもの。
殺人PC
ある年の総殺人数を総人口で割ったもの。
人口増加率
1884年以降の都道府県別総人口の伸び率の割合。
貧困率
最低生活費以下で生活している世帯の割合。戸室 (2016) は、まず都道府県ごとの最低生活費を推定し、その指標を下回る所得の世帯数を評価することでこの数値を算出している。
県民所得PC
県民総所得を総人口で割ったもの。
下水道普及率
下水道施設利用者数を総人口で割ったもの。
白山神社
白山神社(部落の伝統的な場所を示す目印とされた)の数。
補助金PBC
部落を対象とした県の補助金(単位:万円)の一定期間の金額を部落数で割ったもの。
自殺率
自殺者の数を総人口で割ったもの。
水平社BO
全国水平社の支部数。
納税者PC
納税者数を総世帯数で割ったもの。
総犯罪PC
ある年の総犯罪数を総人口で割ったもの。
結核率
結核による死亡者数を総人口で割ったもの。
体重
男子女子の7歳時の体重。
生活保護依存度
生活保護を受けている世帯数を世帯数で割ったもの。

注記: 明らかに、これらの値は時系列で変化している。本文中および以降の表では、該当する年を示している。

第一に、都道府県レベルでは、(粗い測定ではあるが)部落民の集中は、単純なペアワイズ相関では一人当たりの所得と有意な相関はないが(部落民が違法な産業に従事している分だけ、所得の数値は実質的な所得を過小評価している)、貧困ライン以下で生活する人口の割合とは相関がある。因果関係ではなく、相関関係を調べるために、表5では人口密度と県民所得を一定にしてみた。重要なことは、ある県の部落民の割合は、貧困ライン以下の世帯の割合と相関しているということである(表5、パネルA、回帰(2))。人口密度や一人当たりの所得が一定であっても、部落民の多い県は貧困層の割合が高い。

表5: 現代の部落

A. 社会福祉

(1)(2)(3)(4)(5)(6)
従属変数下水道貧困HS大学進学率平均寿命身長小5女子乳児死亡
部落民PC 93-2.8880.00016**130.421**-1.9995-11.849-0.0022
(1.845)(6.52e-5)(56.224)(5.106)(8.454)(0.033)
密度 935.90e-7*-1.32e-125.59e-7-5.33e-77.01e-71.03e-8**
(2.98e-7)(1.05e-11)(9.08e-6)(8.25e-7)(1.37e-6)(5.37e-9)
県民所得 PC 090.092-9.86e-6***13.739***0.0402-0.3698-0.0074***
(0.083)(2.92e-6)(2.520)(0.229)(0.3789)(0.0015)
調整後R2:0.270.380.56-0.05-0.000.36

B. 機能不全の指標

従属変数犯罪覚醒剤生活保護非嫡出離婚
部落民PC 930.0822***0.00156***0.2585**0.1292**0.7269**
(0.0295)(0.0005)(0.0987)(0.0574)(0.331)
密度 931.11e-8**2.87e-10***8.05e-8***3.05e-8***9.17e-8*
(4.77e-9)(8.68e-11)(1.59e-8)(9.27e-9)(5.36e-8)
県民所得 PC 090.00296**0.00002-0.0184***-0.0110***-0.0762***
(0.00132)(0.00002)(0.0044)(0.0026)(0.0149)
調整後R20.430.400.380.300.44

注記: *, **, ***:それぞれ、10、5、1%の水準で統計的に有意。OLS回帰。相関係数、または回帰係数に標準誤差を加えたもの。すべての回帰には定数項を含む。

出典: 本文および表1参照。

第二に、部落民よりもはるかに多くの一般民が貧困状態にある。戸室 (2016) は2012年の国民の貧困率を18.3%と推定しているが、1993年の実態調査では日本人全体の0.71%しか部落民ではなかった。部落民の割合が最も高い高知県を考えてみると、世帯数の4.3%(13,800世帯)となっている。貧困率は23.7%で、76,300世帯が貧困状態にある。仮に高知県の部落民全員が貧困レベル以下で生活していたとしても(実際にはそうではない)、貧困層の大部分は部落民ではないだろう。また、部落民の割合が比較的高い都市部の県である福岡を考えてみると、2.3%、48,500世帯である。貧困率が20.6%であることから、435,000世帯が貧困状態にある。また、部落民が全員貧困状態にあったとしても、福岡の貧困家庭のほとんどは部落民ではない。

第三に、表5の他の回帰分析は、いずれも部落民の生活が貧しいことを示唆していない。公共インフラの指標として、下水道を例にとると、都市部では農村部よりも集中型の下水道施設が普及しているが、人口密度を一定にすると、部落民は下水道へのアクセスが低いこととは関連しない(Part A, 回帰.(1)).また、未報告の回帰分析では、水道へのアクセスの低下とも関連していない。教育アクセスの指標として、大学教育を例にとると、部落民は大学進学率の低さとは関連していない。部落民は大学進学率が低いのではなく、むしろ有意に高いのである(回帰A(3))。公衆衛生の指標として、平均寿命を例にとると、部落民は女性の平均寿命の低下とは関連していない(回帰A(4)、調整後R2は正ですらない)。また、男性の平均寿命の低下とも関連していない(未報告の回帰)。小学校5年生女子の身長の低さとは関連していない(回帰A(S)、調整後R2は正ですらない)。男子の身長の低さとも関連していない(未報告の回帰)。また、乳児死亡率の高さとも関連していない(ただし、農村部の死亡率は高い;回帰A(6)).また、失業率の高さとも関連していない(未報告の回帰)。

3 厄介な目印

a 要約統計量

しかし、その他のデータは、厄介な事態を示唆している。表6では、部落民コミュニティの社会構造をより直接的に調べた。表5では、部落民の集中度と都道府県レベルの社会現象との相関関係から、間接的にその社会構造を探った。この表6では、部落民と一般民との間の各種の割合を直接比較した要約統計量を、やはり都道府県レベルで報告している。この統計は、1993年の実態調査をもとにした政府の調査(総務庁, 1995)と、解放同盟が発表した追加資料(全国部落, 1998)から取ったものである。この調査は、少なくとも名目上は全国的なものであるが、事前に行われた小調査を基礎にまとめられたものである。もちろん、部落民は全国的な社会現象ではなく(表2参照)、ほとんどの施策について、報告書を提出したのは約半数の都道府県にすぎなかった。

表6: 社会福祉、部落民とその他、1993年(要約統計量)

部落民部落民部落民部落民部落民その他その他その他その他
n最小値中央値平均値最大値最小値中央値平均値最大値
生活保護依存360.343.0554.028250.200.645.6841.85
ひとり親世帯200.82.152.093.70.81.151.1131.3
持ち家2424.866.369.1398.647.967.269.2576.5
Lot Size24160243271.6532119278265.1420
家の大きさ2322.832.132.6642.125.333.734.0242.6
下水道36013.721.9471.14.428.3531.8977.1
失業者2235.355.58123.54.755.057
賃金
100万未満2310.721.721.228.312.715.215.2317.9
700万超231.52.93.477.24.57.2813.3

注:太字の数字は、都道府県別平均値の平均が1%水準で有意に異なる場合。その他の詳細については本文を参照のこと。

出典:総務庁『平成5年度同和地区実態把握と調査』(東京:総務庁、1995)参照。全国部落解放連合会『全国同和地区の年次別概況調査ならびに 1993年現在の府県別概況調査基礎資料』(東京:全国部落解放運動連合会、1998)。

表6によると、部落民は一般の人に比べて貧しい。部落民は、生活保護を受けている人が多い。農業従事者の割合がほぼ同じであるにもかかわらず(部落8.43%、一般8.42%)、自治体の下水道網へのアクセスが少ない(表5にはなかった点)。また、低所得者が多く、高所得者が少ないという結果になった。また、表5の非嫡出子に関するデータと一致しているが、部落民は崩壊した家庭で子どもを育てる傾向が強い。

b 相関関係

さらに、1つの都府県の部落民の割合は、機能不全行動のいくつかの指標と関連している。次のような変数を用いた。

一人当たりの犯罪数、2010
刑法違反件数(警察庁、2011)を総人口で割ったもの。
一人当たりの覚醒剤犯罪数、2011
2011年に発生した覚醒剤を使用した犯罪件数(警察庁、2011)を総人口で割ったもの。
生活保護依存度、2010
2010年に生活保護を受けていた世帯数を全世帯数で割った値。
非嫡出率、2009
2009年の非婚姻出生数を総出生数で割ったもの(厚生、 2010)。
離婚率、2010
2010年の離婚件数を婚姻件数で割ったもの(厚生、2011b)。

単純なペアワイズ相関では、部落民の集中度は、一人当たりの覚醒剤犯罪件数、生活保護受給者の割合、非婚姻出産の割合、離婚率と有意に関連する。

表5パネルBでは、人口密度と一人当たりの所得を一定にして、単純なOLS回帰でこれらの相関性(因果関係ではない)をさらに調べた。部落民の集中度は、犯罪発生率と統計的に有意な相関があり(パネル B 回帰(1))、特に覚醒剤犯罪の発生率(回帰B(2))と統計的に有意な相関がある。覚醒剤(メタンフェタミン)は、日本で最も広く乱用されている薬物であり、その流通は犯罪組織と深く結びついている。また、部落民集中率は、生活保護者の割合(回帰B(3))、非婚の親から生まれた子どもの割合(回帰B(4))、離婚率(回帰B(5))と有意に相関している。実際の大きさはわずかなものである。部落民の割合が0.5%(東京近隣の埼玉県の割合)から1%(大阪府の割合)になったとする。部落民集中率の係数0.0822は、都道府県レベルの中央値0.0103に対して0.0004の犯罪率の増加を示唆している。また、非婚姻率が0.0007(都道府県レベルの中央値は0.0210)上昇していることを示唆している。

4 犯罪と汚職

a 脅迫

日本の編集者や記者は、何年もの間、部落民の指導者たちの腐敗について沈黙していた。報復の危険性が大きすぎるという、単純な自己都合でこの問題を避けていた。部落の指導者たちは、「糾弾」という名のもとに、批判に対して残忍で暴力的な手段で対抗してきた。

部落問題が発生しても、多くの日本人は「同和は怖い」(訳注:原文にも”dowa wa kowai”とある)の一言で済ませてしまう。1989年、ある松阪市議会議員は後述する部落補助金について、「逆差別」として反対する住民が多いが「部落民からの嫌がらせが怖くて何も言えない」と指摘したという。彼は「私も怖いんです」と付け加えた。

解放同盟の活動家にとって、その市議は「部落民は『怖い』というステレオタイプ」を永続させていた(宮本、2013:91-96)。皮肉のつもりでもないのだが、解放同盟は市役所に乗り込み、彼の処罰を要求した。市議会は、おとなしく懲罰委員会を開き「怖い」という発言を「差別」とした。そして、その市議は部落民の行動に感謝し、「この問題がなければ、私は部落問題を研究する機会はなかったと思います」「これからは、部落問題を真剣に勉強して、『人権を守る松阪市』という目標の実現に人生を捧げたいと思います」と説明した。

解放同盟の活動家たちは、自分たちの残忍な言論統制を正当化するために、2つの原理原則に基づいている。戦後の解放同盟のリーダーである朝田(1979:251)は、1956年の解放同盟年次総会で公式の命題として1つ目の原則を明確にした。「日常生起する問題で、部落にとって、部落民にとって不利益なことは一切差別である」。第2の原則は、解放同盟が正式に採用したものではないが、同じように中心的な役割を果たしており、同様に朝田に起因するものである。すなわち、何が差別であるかを決める権限は、部落民にしかない(藤田、1988, 1987:57)。このようにして、執拗な差別への抗議と暴力的な糾弾が続いたのである。

b 腐敗

現代の部落では犯罪が重要な指標となっているが、解放同盟はその犯罪の中心的役割を果たしてきた。解放同盟は、そのゆすり戦略によって、1969年から2002年の間に15兆円(2002年の為替レートで1,250億ドル)を国から部落民に分配するように仕向け、主に建設事業を行った。そして、暴力的な脅しによって、そのお金を好きなように配分する権限を自らに与えたのである(詳細はラムザイヤーとラスムセン, 2018に記載されている)。

解放同盟は、同和建設協会(同建協)に加入している企業に建設契約を発注した。その見返りとして、企業は契約額の0.7%を協会に支払っていた。解放同盟の指導者の中には、企業が0.7%の手数料を超える貢ぎ物をしていることもあった。例えば、ある著名な部落民は、契約額の3~5%を要求したようである(角岡、2012:96; 森、2009:78, 180)。

名目上は部落民の企業のみが同建協に参加していたが、実際には一般の企業も参加を希望していた。つまり、政府資金による同和対策建設事業の利益が非常に高かったため、一般企業はお金を払って部落企業になったのである。有名な部落民の指導者を社長として雇うこともあれば、単に賄賂を払うこともあった(森, 2009:180-83)。

解放同盟の指導者たちは、日常的にこれらの事業のための土地を政府に過大な値段で売っていた。また、彼らは建設資金をダミー会社を通して自分たちに還流することも日常的に行っていた。そのために、彼らはまず会社を設立した。その会社は同建協に参加し、一般の建設会社と提携した。この2社が一緒に政府契約の入札を行い、落札したらダミー会社が分け前を取り、一般の会社に仕事を任せたのである(ラムザイヤーとラスムセン, 2018)。

c 組織的犯罪

同和事業にまつわる派手な汚職は、多くの日本人が理解していながらも、公の場ではほとんど言わなかったことを明るみにした。それはすなわち、暴力団は部落の産物である。部落民ジャーナリストの角岡(2012:28)は、「大多数の部落民はまっとうな生活をしている」、「しかし、犯罪組織のほとんどの男性は、朝鮮人や部落民のようなマイノリティのメンバーである」と書いている。

角岡の発言は扇情的に聞こえるかもしれないが、部落民コミュニティ、犯罪組織、警察関係者は、部落民の男性が犯罪組織の構成員の過半数(多くの推定では50~70%)を占めていると一貫して報告している(詳細はラムザイヤーとラスムセン, 2018で論じている)。この重複した最も厄介な側面は、学術的な説明では決して言及されないほど扇情的なものであるが、暴力団に加わることを選んだ部落民の男性の割合にある。この割合の大きさは、同和事業が行われた時期に、若い才能の膨大な流出、つまり合法的な生活から、まったくの犯罪行為への流出があったことを示している。1980年代後半の暴力団の最盛期には、20~29歳の部落民男性の20%、30代の男性では25%が暴力団の一員となっていただろう。角岡(2012:20)が言うように、「部落」は「長い間…暴力団の温床だった」のである。

IV 近代以前の先例

A 序論

現代の部落における社会的崩壊は、一連の関連する疑問を提示している。最も基本的なことは、これがどのようにして起こったのぁ? いつから犯罪や家庭崩壊が部落の中心になったのか? いつから、そしてなぜ、部落の名目上の人権擁護団体の指導者が、犯罪組織の構成員と重なるようになったのか?

徳川時代の農村に関して近代の歴史家は、問題の根源がどこにあるのかを明確にしている。それは、祭祀儀礼の不浄や、徳川時代の日本における職業に関連した階級に起因するものではないということだ。つまり、近代の部落民の先祖の大半は、動物の死骸をまったく扱っていなかったのである。その代わりに農業を営んでいた。臼井(1991:20)は兵庫県の研究でこう述べている。

兵庫では、部落の仕事は農業である。部落の人々は、他の町人や農民と同じ仕事をしている人が圧倒的に多い。

部落の前近代的な先祖は、皮革職人のギルドではなかった。皮なめし職人のギルドでもなかった。死んだ馬や牛を扱っていたわけでもなかった。そもそもギルドではないのだ。

近代の部落民の祖先は農民だったのである。「先史」は、歴史学者の藤沢靖介(東、2018:115)が言うように、「明らかに間違っている」。

B カワタと非人

部落民の先祖である徳川時代の人々の多くは、西日本では「カワタ」、東日本では「長吏」と名乗り、「エタ」という蔑称で呼ばれていた。また、「非人」という言葉を使う少数のグループもあった(エラース参照、近日公開)。巡回する乞食や行商人、芸人などは、時代によっては別の呼び名で呼ばれることもあった。歴史家の渡辺(1965:101,338)は、カワタ、長吏、非人のほかに、さまざまな下層身分の呼称を40種類近く挙げている。<一般に、斎藤と大石(1995:52, 62); イーラス(近日中); 大貫-ティアニー1989)を参照。>

従来、20世紀半ばにおいて、下層社会の歴史研究者は、カワタと非人に注目していた。カワタは死んだ牛や馬の皮を剥ぎ、革に関する商売をしていたという。非人は村で警察をしており、牢屋に入れ、刑罰を下す。カワタは生まれながらにしてその集団に属していたが、非人は貧しさゆえにその地位に堕ちたり、犯罪の罰としてその地位に就いたりすることもあった。非人は身分を脱することもあるが、カワタはそれができない。<例えば峯岸(1996:44-46, 56)、渡辺(1977:135, 335)、塚田(2007)、長谷川(1927:10)など。詳細は、イーラス(2018); 塚田(2007)を参照。>

実際には、その区別はあまり明確ではなかった。確かに、多くの非人はその地位を受け継いでいない。継承した者もいるが、刑事罰として身分を与えられた者や、浮浪者としてその身分に堕ちた者もいた。また、一定の条件のもとで、普通の農民の身分に戻れる者もいた。<石井(1994:91)、塚田(2001:3)、菊池(1961:444)、尾崎(1982:154)、高柳(1979:20)、峯岸(1996:129-30)。>

しかし、平民もカワタの身分を得ることができた。偶然に仲間入りした者もいた。貧しく都会に出てきて、カワタの近所に部屋を借り、カワタの雇い主のもとで仕事を見つけた人もいた。やがて彼らとその子孫はカワタになった。他の一般民も自分の意思でカワタを選ぶことができた。時には、ある地域でカワタが管理する産業が非常に儲かることもあった。このような場合、一部の一般民は、その産業に参入するために意図的にカワタの身分を選んだのである。<畑中(1997:110-11)。また、他の場所では、非人が時代の経過とともにカワタになったり、誰も2つのグループを全然区別しなかったりした(渡辺、1977:63, 127; 畑中、 1997:110-11)。>

また、カワタの地位を捨てて一般民になる者もいた。時には、またいくつかのコミュニティでは、カワタは正式に身分の変更を申請することができた。一般的に、彼らは単純にカワタのコミュニティ外で成功するための技能と経済的手段を獲得した。彼らは家を出て、新しい都市に移り住んだ。到着すると彼らは一般民の町に部屋を借り、一般民の商店で職を得た。彼らとその子孫は今はもはや一般民である。<渡辺(1977:127); 畑中(1997:69-80, 110-11); マコーマック(2013:53)。>

C 農業

1 収入

農民の中でもカワタは貧乏人の方に近い傾向がある。資料の関係で、カワタを研究する歴史家は通常1つまたは少数の村に焦点を当てている。その際、村の土地所有の状況を詳しく説明する。一般的にカワタは貧しい村の住民の中に多く存在したことが分かっている。カワタは、まれに皮革産業の副業で農家としての収入を補うこともあった(渡辺 1977:106)。しかし、彼らは村の最貧困層の農民ではなかった。むしろ、彼らは一般民の収入とほぼ同じような収入を得ていた。

例えば、歴史家の尾崎(1982:89-92)は、1736年の長野県のある村の米の生産に関する記録をまとめている。この村には27戸のカワタと23戸の一般民がいた。彼らの生産は次の通りである(1石は180リットルに相当する)。

1石未満1-3石3石超合計
カワタ1112427
その他1031023

歴史家はこのような村の土地所有や米の生産に関するさまざまな調査をまとめているが、そのほとんどは、同じものである。すなわち、平均的なカワタ農民は平均的な一般民より貧しかったが、最も裕福なカワタ農民は一般民の基準から見ても豊かだった。<畑中(1990:84)、寺木(1996:75, 111)、臼井(1991:162, 176-77, 285)、峯岸(1996:30-31)など。>

2 土地売買

農民は土地を売買することができたし、実際に売買していたことに注目しよう。徳川幕府は、最終的に土地の譲渡を制限しようとしたが、それは幕府時代の後半に限られ、決して効果的ではなかった(山村、1981:343-44)。

徳川幕府が土地譲渡を止めようとした場合、農民は制限を回避するような取引を行うだけであった。斎藤(2009:171; 原文ママ)は、その方法を次のように説明している。

徳川時代の農民は、「永代」であれば土地を売ることが許されなかった。この永久売買の禁止は、同時代の人々には、農民が限られた期間だけ土地を売ることが許されるという意味に解釈され、実際には「質入れ」できることを意味した。

3 土地所有権

成功したカワタは、日常的に多くの農地を所有していた。<臼井(1991:20);畑中(1997:10);京都部落(1995:305);峯岸(1996:32、330)。>歴史家の主張とは逆に、臼井(1991)は、「二、三の[徳川]幕府令と諸藩の勅令に由来する」と説明している。一般民は水田をどんどん移したし、カワタもそうであった。

カワタの土地が増えれば村の共有地をめぐる争いが起こるかもしれないが、それはカワタの身分そのものが原因ではない。村の共有地に対する権利は、肥料や薪、水などの利用を可能にするものであり、重要なものであった。カワタが新しい土地を開発したことで、村の共有資源に対する需要が高まったときに、紛争が発生したのである。一般民は、代々土地を所有してきたカワタが、村の共有資源を利用することには異議を唱えなかった。しかし、新しく水田を作った人がそれを利用したいと言ったときだけ、村人は文句を言った(京都部落、1995:393)。

4 動物の死骸処理

農村では通常、一戸ないし数戸が、決められた区域内で死亡した馬や牛の皮をはぐ権利を持っていた。<渡辺(1977:104); 前(1975:217-18, 225); 斎藤と大石(1995:67, 72)。>この皮剥ぎの権利は、カワタが集団で持っているのではなく、少数の人が所有する譲渡可能な財産権であった。農家は、皮はぎによる代金を受け取る権利である「株」を売買したり、担保に入れたりした。ほとんどの村では、株を持っている農民は裕福なカワタに属する傾向があった。借り手が借金を滞納したときに株を手に入れる者もいれば、株を買い取る者もいた。また、株は一般民に譲渡することも可能であり、そして時には譲渡されることもあった。<渡辺(1977:114, 304);松岡(1975:19-20, 24-25);前(1975:204, 225);斎藤と大石(1995:120);臼井(1991:205)。>

死んだ動物の皮をはいだ者が、皮をなめすことはほとんどなかった。皮をなめすのに必要な専門知識や設備を持っている農家はほとんどなかった。皮はぎに参入できる株を持っている者は、皮(と副産物)を近隣の町の専門の皮なめし業者に売っていた。彼らは、皮を革にするための技術と設備に出資した人たちである。彼らの中にはカワタもいれば、そうでない者もいた。<峯岸(1996:226);渡辺(1977:191);斎藤と大石(1995:124)。>

5 皮革産業

カワタの多くは農業を営んでいたが、一部の人は皮革の仕事をしていた。しかし、それも独占できるものではなかった。皮革関連の多くの分野(例:裏革のある草履)では、一般民の商店と競争していたのである。買い手は当たり前のように、カワタと一般民の売り手との間で注文を切り替え、労働者自身も2種類の商店の間を移動していた(峯岸、1996:120; 松岡, 1975:16, 41)。

D 移住

耕す土地のない部落民は、移動することができたし、実際に移動した。そうすることで、一般民の仲間入りをしたのである。徳川時代には、人口が増加した。1600年の1,700万人から1874年の3,450万人まで、徳川時代全体で日本の人口は2倍になった(斎藤と高島、2015a:8)。

そして、人口の増加に伴い、徳川の農民たちは移住した。相続する農地がない娘や次男、三男は村を出た。ある者は商店に弟子入りした。ある者は未開拓の土地を求めて遠方の村を目指した。貧しい農民たちは、新しい田んぼを作り、新しい村を作るために一斉に旅立っていった。

幕府はこの動きを止めなかった。20世紀半ばの学者たちは、これを否定する主張をすることがあった。それは、徳川幕府の「移住禁止令」を引用して主張するものである。しかし、実際にはそのようなことはなかった。著名な経済学者である斎藤(2009:184-185)は次のように説明している。

藩主の実際の政策は、地方によって、また時代によって異なるが、幕府の姿勢が個人の移動に対して寛容であることは間違いない。…移動は時代とともに増加し、徳川時代後半には農村から都市への人の流れが大きくなった。

一般民と同じように、多くのカワタは村を離れて都市部に移り住んだ。実際、彼らは大量に町や都市に移住したのである。渡辺(1977:154)が言うように、「徳川時代末期の未解放部落(つまり、カワタ村)への人の出入りは膨大なものであった」。<京都部落(1995:364-67)、塚田(2001:11, 14-15, 30)、マコーミック(2013:51)などを参照のこと。>

農民(一般民とカワタ両方)の移動に伴い、最初は大都市、次に地方都市が成長し、繁栄していった。徳川時代の前半では、農民は大坂や新たに設立された政治的首都である江戸(つまり、東京)などの大都市に移り住んだ。後半では、小さな地方都市に移った。人口学者の速水(2009:102)によると、17世紀には「おそらく毎年7~8万人が都市に引っ張られた」という。1600年に6万人だった江戸の人口は、1721年には110万人に達していた。その頃には、「大阪と京都の人口はそれぞれ40万人に達していた」。<斎藤と高島(2015a:7, 16); 高島(2017:192-93, 198); 速水(2009:102)参照。>

E 規制法令

1 階級の階層

カワタの地位をめぐる混乱は、政府の新儒家が果たした役割をめぐる混乱に由来するものである。20世紀半ばの歴史家(日本と西洋の両方)は、徳川社会を、厳格な階層構造を持つ新儒教的な4つの階級及び被差別民の階級構造(武士、農民、職人、商人、穢多非人)で構成された世界と表現した。

実際、現代の日本史研究者の結論としては、中期の先人たちは、これら新儒家の哲学的な論文をあまりにも真剣に受け止めすぎていた。徳川幕府の幕僚たちは、18世紀半ば以前には、4つの階級についてほとんど何も言及していなかった。表面的なレベル以上には追求していなかった。また、1778年まで「階級外の被差別民」の行動を規制しようとしたこともなかった。<斎藤と大石(1995:20); 渡辺(1977:6-7)参照。>

さらに、社会史家の斎藤と大石(1995:32-33)は、徳川政府は「穢多非人」という接尾語を持つ四階級制を使ったことはないと続けている。この徳川の用語が最初に出てくるのは、1874年のことである。その後半世紀の間、この言葉はほとんど出てこなかった。そして、1920年代後半の歴史書になってようやく、「四民と被差別民」が広く登場するようになったのである(斎藤と大石、1995)。

2 倹約令

18世紀末から19世紀初頭の徳川の幕僚たちは、新儒家の助言を受けて、カワタに身分の低い生活をするように定期的に命じていた。実際、徳川幕府はさまざまな「倹約令」を出している。この令によって、人々の服装や行動を規制しようとしたのである。

徳川の幕僚たちが最も標的にしたのは、裕福な商人たちであった。これらの成功した人々は、農民や職人よりも低い社会的地位として新しく理論化されたこととはひどくかけ離れていたため、政府役人は彼らの目立った消費を抑制しようとしたのである。また、裕福なカワタたちも、理論上の身分とはかけ離れており、幕府の役人たちは時折、彼らの目立った行動を抑えようとしたのである。

幕府の最後の100年の間に、徳川の幕僚たちは、カワタを対象とした命令を出すことに、ますます躍起になっていった。このような命令を出すとき、彼らは過剰な抑圧の力として出したのではない。社会の変化を遅らせるための苦肉の策として出されたものである。

実際には、これらの命令は、より起業家的なカワタの富を反映したものであった。新儒家によって社会構造の底辺に位置づけられた彼らは、理論上の役割とは全くかけ離れた生活をしていた(渡辺、1977:126; 京都部落, 1995:376-79)。商人が貧しい生活をしていたら、政府の役人は彼らに慎ましい生活をしろとは言わなかっただろう。同様に、カワタが没落した生活をしていたとしたら、幕府の役人は彼らに慎み深い生活をしろとは言わなかっただろう。京都部落史研究所(1995:384)によれば、次のとおりだ。

一見、これら[命令]は差別を強化しているように見えるが、実はカワタが身分の壁を破ってきたことから生まれたものである。幕府は、世の中を昔の秩序に引き戻そうとしていたのである。

3 部落の土地所有と税

徳川幕府の後期に行われたカワタの土地所有の禁止も、同じ現象を反映している。歴史学者の畑中(1997:11)が説明するように、幕府がカワタの土地所有を禁止しようとしたのは、まさにカワタがあまりにも広範囲に土地を所有していたからである。普通のカワタは自分の農場を持っているだけでなく、成功したカワタは非常に多くの土地を所有していた。<渡辺 (1977:189); 斎藤と大石 (1995:156-58); 臼井 (1991:22); 内田 (1975:310)。>他のカワタから土地を手に入れた者もいれば、一般民から手に入れた者もいる。また、村の財政を担った者もいれば、工業や商業で大成功した者もいた。そしていずれにしても、彼らはその富を大規模な土地所有に結びつけたのである(京都部落, 1995:375)。渡辺(1977:156)はこう言っている。

部落の中に大地主が出現した。…このような大地主が出現したのは、彼らが商売や高利貸しに関与したからである。

カワタは、儲けた分に対して納税する。この点についても、学者や部落解放運動家は日常的に反対の主張をしている。実際、カワタは収穫物に対して税金を支払っていたのである。<畑中(1997:10);渡辺(1977:189);峯岸(1996:330);京都部落(1995:275);臼井(1991:22)。>そしてその税率は、他の人々と同じであった。

F カワタの意味するところ

これらの記述から明らかなように、ほとんどの部落民は、伝統的に不浄な仕事を専門にしていた人々を先祖としているわけではない。また、皮なめし職人や死刑執行人、革職人などの家系をたどることもない。一部の人はそうだが、ほとんどの人はそうではない。

ほとんどの部落民は、貧しい農民を先祖としているのである。1920年代以降、カワタを研究する日本の歴史家は、通常、「カワ」を革のことだと解釈してきた。革は「かわ」なので、「かわた」と書くときには「皮」という漢字を使っている。しかし、「カワ」は「川」でもある。もちろん、皮と川では漢字が違うが、日本語には同音異義語が多く、17世紀の農民は文字を書くことはほとんどなかった。彼らにとって「カワタ」は文字ではなく、話し言葉だったのである。

歴史学者の渡辺(1977:257-58)は、より可能性の高い語源を説明している。<「穢多」という蔑称の起源ははっきりしない。何人かの著者(高橋1927:85など)は、ペットの餌を求めて死体を漁る者を意味する「餌取(エトリ)」が転訛したものではないかと指摘している(柳田1913:99に反論)。しかし、解放同盟が主張し、西洋の学者たちもほぼ一様に、「大いなる穢れ」を意味するというのが通説である。しかし、「穢れ」に使われている 「穢」という字は、小学校6年生までに習う標準的な2,200字の中にも入らない、稀で複雑な18画の漢字である。日本人が「穢」に出会うとすれば、それは大学での読み物の中だけだ。17世紀の半文盲の農民が、18画の不明瞭な文字の中国語読みを使って、他の農民を軽蔑する言葉を生み出したという考えは、表面的にはあり得ないことである。一般的には木田,1919:80を参照)。>徳川時代の困窮した家族が家を出ることになったとすると、彼らは村の近くの未墾地に移っただろう。徳川時代の前半には、水田の候補地の多くが開発されずに残っていた(渡辺, 1977:120)。

特に台風の季節には洪水の危険性があるため、農家は川沿いの土地を未開拓のままにしておくことが多かった。町や村の近くで未開拓の土地を探していた移民たちは、川岸に土地を見つけたであろう。そして、そこに定住して水田を作ったのである。実際、近代の部落民は川沿いに住んでいることが多い。それは、貧しい先祖が移住してきたときに、利用可能な(無料ではないにしても、一番安い)土地が川沿いにあったからである。

移住者が乾いた河原(カワラと言う)や川岸に住み着くと「カワラモノ」―河原の人々―になった。<渡辺(1977:122)、臼井(1991:63)、斎藤と大石(1995:64-66)。>「田」とは水田のことであるから、川沿いに水田を作ると「川田」となる(長谷川, 1927:28)。<カワタの中には、カワタだけの村に住んでいる者もいた(臼井、1991:39)。これは、ほとんどの場合、徳川時代に新たに作られた村である。そこでは、新しい水田を利用していた(臼井、1991:144-45、354-56)。渡辺(1977:120)によれば、徳川時代の初めには十分な農地が残っていたので、水田を作ったカワタは、時にはとても肥沃な土地を手に入れたという。>貧しい農民の中には、他の農村ではなく都市部に移住する者もいたが、その場合も町外れの川沿いに住むことになった。そこでは、最も魅力のない仕事に就くことになる。臭いだけならまだしも、皮なめしの仕事も好まれない仕事の1つだろう。そういった初歩的な理由から、最近来た人たちの中には皮なめし職人になった人もいた。

V 過渡期の数十年、1868年から1922年

A 序論

1868年のクーデターで勝利した連立政権の軍人たちは、京都の天皇を国家元首に任命し、東京から直接統治することにした。その際、実態調査を行い、「エタ」439,000人、「非人」53,000人を数えた(表1)。その3年後にはこれらの区分を法的に無効とし、1872年には34,806,000人の市民を数えた(大里、1966:12)。

クーデターとはいえ、いくつかの地域の住民は不安を抱えていた。最初の数年間は、変化に対して暴動を起こす者もいた。税金、徴兵制、物価、学校の授業料などを理由に暴動を起こした。場所によっては、1871年に出された穢多非人についての勅令をめぐっても暴動が起きた(高山, 2005:27; 小林, 1985:297)。

数年後、カワタという言葉は一般には使われなくなった。エタはその蔑称のままであった。公的な用語では、「特殊部落」や単純に「部落」が使われた。

B 人口動態

1868年から1921年にかけて、部落民の数は他の人口と同様に増加した。図1では、部落民の数と一般人口の数を1921年の値で指数化している。この50年の間に、2つの人口はほぼ同じ割合で増加している。1868年から1921年にかけて、部落民の総数は約70%増の83万人となった。1872年から1921年の間に、一般人口は60%増加している。

この間、部落民の中で地位を捨てた者はほとんどいなかったようである。確かに、一部の一般民は部落に入り、出て行った部落民と入れ替わった。しかし、部落民の総数が一般人口と同じ割合で増加したという事実は、第一次近似として、部落民として生まれた人々が部落に留まる傾向にあったことを示唆している。

この50年間に日本人は移動した。徳川時代にも田舎から都会への移動はあったが、1868年から1921年までの半世紀の間に、そのスピードは一気に加速した。都心部では、繁栄する経済の中で、良い収入の仕事に就くことができた。1878年の一人当たりの所得は11.5円だったが、1921年には199円にまで上昇した(大里、1966)。都市に行き着いた人々の中には、膨大で多様な小企業に就職する者もいた。また、新しい巨大な繊維工場で働く人もいた。1898年には3,050万人(人口の71%)が5,000人以下の町に住んでいたが、1920年には2,710万人となり、人口の48.9%を占めるまでになった。1925年の大阪市の工場労働者85,000人のうち、大阪府内出身者は20,000人に満たなかった(鈴木、2016:37)。

部落民は、他の人たちと同じように、田舎から都市へ、農場から工場へと移動していった。<渡辺(1977:168);鈴木(2016:27);奈良県(1970:102)。>部落民の中には、他の部落民が経営する小企業に就職する者もいれば、就職差別があったとはいえ、巨大な新工場で働く者もいた(渡辺, 1977:168; 馬原, 1984:138)。豊かな人たちは、住みやすい場所に家を建て、商売を繁盛させた。貧困層はスラムに住んでいた。

多くの部落民は、この明治時代(1868-1912)に非常に成功した。肝心なのは、彼らが部落のアイデンティティを捨てることなく成功したことである。先に述べたように、部落の人口が全体の人口とともに増加したということは、成功した部落民は、富を得てもほとんどが部落の中に留まったはずである。部落の中でも特に成功した部落民は、部落に留まることを選択することで、部落が繁栄するために必要な社会的・経済的インフラの構築と維持に貢献したのである。

京都では、部落民が1899年に柳原銀行を設立し、1927年まで経営していた(重光、1991)。大阪市南区の西浜部落では、皮革産業に従事する部落民が莫大な富を築いた。南区全体の12万世帯のうち、第一種投票権を持つほどの所得を持つのは130世帯(0.1%)にすぎなかった(上杉、2010:101-02; アノン、1918)。南区の部落1500世帯のうち、最上の投票権を持っていたのは9世帯(0.6%)であった。1918年には津市の市議会議員に部落民が就任している(アノン、1918)。奈良の部落出身の米田庄太郎はアメリカに渡り、ニューヨークの米国国監督派神学校(1895年)、コロンビア大学大学院(1898年)に留学した。帰国後、京都帝国大学の教授に就任した(鳥飼、1988:70)。

C 接触と衝突

1 序論

経済成長に伴い、地域間の旅行、商取引、移住も盛んになった。このような移動の増加に伴い、部落のコミュニティと日本の他の地域との間に接触が生じた。このような接触の増加に伴い、2つの世界の行動規範の違いに根ざした緊張感が生まれた。

日本の主流派の人々から見ると、極貧の部落民は自分たちだけの規範で生きているように見えた。喧嘩をすると危険なレベルまで激高し、難しい仕事には時間と労力をかけたがらない。彼らは家族の絆を極端に軽んじていた。

日本の主流派により語られた部落の規範は、もちろん、世界中のさまざまな下層階級に共通する規範である。このような集団は、部分的には主流のコミュニティを食い物にして生きており、その範囲内では、規範は彼らに役立っているのである。しかし、この規範は、より広く共有されている日本の行動基準とは明らかに相容れないものであった。両者の接触が増えるにつれ、敵意も高まっていった。

2 合併

明治政府は、1888年に最初の部落と一般民の衝突を引き起こした。徳川時代の町村は小さな世帯の集まりで、1888年時点で71,000の町村が存在していた。このうち、全く住民がいない町村は800、1~10世帯が2,800、11~30世帯が12,000であった。71,000の町村のうち70%近くが100世帯以下であった。<横道(2007:2)、北川(1940:267,275)参照。>

明治政府は、これらの自治体に幅広い行政業務を課した。71,000のうちの多くは、新たな責任を負うための費用に耐えられなかった(中島, 2013:4, 21)。ある村は小さすぎ、また、規模が大きくても貧しすぎる村もあった。

この問題を解決するために、明治政府は、効率的な規模とサービス可能な富を持ように村を合併することにした。1889年には、71,000の村々を15,800に統合した。しかし、この合併は、全国的に激しい抵抗を引き起こした。小さくても豊かな村との合併には誰も反対しない。貧しい村との合併には誰もが反対した。義務づけられた新しい行政サービスには、高い費用がかかる。豊かな村が貧しい村と合併すれば、必然的に貧しい村のためのサービスに相当な費用を負担することになる。根本的には、経済的再分配のための合併であり、裕福な村は、貧しい村との合併に対し総ぐるみで争ったのである。<北川(1940:275, 280)、高寄(2006:150-51, 154-55)参照。>

部落は貧しい傾向にあるので、豊かな村は部落との合併にも抵抗があった。また、部落を理由に合併に反対する村もあったかもしれないが、それはあまりにも考えすぎである。裕福な村は、部落も一般民も、どこでも貧しい村との合併に反対した。

しかし、部落民にとっては、これらの拒絶は偏見に他ならない。1922年5月、水平社は大正村で最初の奈良県における糾弾会を開催した(内務省1922:62)。1889年、近隣の村々は大正村との合併を拒否していたが、解放同盟によれば「その理由は極めて単純」であった。大正村が部落だから彼らは反対していたのである。<楢本(N.D.:71)、楢本(1955:2)、東(2018:293)参照。>他の合併する部落の1つでは、かなりの数の世帯が税金を滞納していた(楢本、1955:66-67)ことも忘れてはならない。40年経っても、その侮辱感は消えなかった。2009年に解放同盟の公式出版社が書いたように(朝治他、2009:43; 尼崎, 1988:229も参照)、1889年の合併によって「部落民が赤裸々に排除されたからこそ」、「部落改善運動に立ち上がった」のである。

3 学校

部落と主流社会での行動規範の違いは、学校をめぐる争いをも引き起こした。19世紀から20世紀にかけて、部落の子どもたちの学力は、一般の子どもたちに比べて大きく遅れていた。そもそも明治時代の村(一般の村も部落も)は、自分たちの子どものために小さな学校を維持していた。政府が村を合併し、学校に求める教育水準を上げると、地方自治体が学校を統合するようになった。部落民の学校は、拡大した新自治体の大規模な学校に統合されていった。<例えば、青木(1982:34-35, 47)、楢本(1955:98-99)、東(2018:294)など。>

部落民と一般民が同じ学校に通うようになると、緊張感が高まった。このような問題は、当時を知る人なら誰でも知っていることである。部落の子どもたちは行き当たりばったりで学校に通っていると、見ている者たちはしばしば不満を漏らした。1910年に東京大学の法律雑誌に掲載された記事によると、奈良の部落の生徒の多くは月に10日から15日しか来ないという。兵庫県尼崎市の研究者も1880年代に同様のことを指摘しており、1912年にも同様のことが書かれている。1919年、大阪の釜ヶ崎スラムでは、部落の子どもの70%以上が学校に通っていなかった。たとえ学校に行っても、宿題はしない。家で授業の復習をすることもない。教師が生徒の両親を訪ねて勉強するように促しても、両親は協力してくれなかった。<小原(1910:1452-54)(奈良);尼崎(1988:250, 357, 380)(尼崎);木曽(1986:77)(大阪);遠藤(1912:277)(1912年観測)参照。>

学校に来ても、部落の子どもたちは日常的に授業を妨害していた。喧嘩をすることも多かった。(不登校で授業を受けていないため遅れをとった)子どもたちを教師が放課後に引き留めて復習させると、父親や兄が来て教師を非難した。奈良では、一人の先生が何人ものトラコーマの生徒と向き合っていた。奈良では、ある先生がトラコーマの生徒数人を前方席にして、伝染の危険性を考えて他の生徒から離していた。しかし、実際には全員が部落出身者だった。彼らはこの新しい席順を差別と呼び、ボイコットを始めた。<小原(1910:1440:1452-53)参照。>

同時代のこのような出来事は、貧困や部落差別を理由にすることもできる。部落民の多くは貧しく、水平社は他の日本人の偏見を告発している。しかし、部落民の不登校を、学校で受けた偏見のせいにすることはできない。部落民の子どもたちは、部落民を主体とする小規模の学校でも不登校になっていたからである。また、不登校の原因を部落の貧困に求めることもできない。多くの部落民は貧困であったが、一般民の多くも同様に貧しかったからである。

4 犯罪と部落の発見

そして、地域間の接触が増えるにつれ、政府の役人は、歴史家の黒川(2016:68)の言葉を借りれば、部落民を「発見」した。最も顕著なのは、彼らが重大犯罪に気づいたことだ。1907年、強い権限を持つ内務省は、部落をその異常な状態から取り戻すための事業を開始した(黒川、2016:69)。同省はまず犯罪に注目し、次にトラコーマの蔓延に注目した(黒川, 2016:71)。1907年に三重県知事は、「部落には犯罪者が多いため、社会からの警戒心が避けられない」と指摘している。

(続き)

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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J・マーク・ラムザイヤー教授『アイデンティティ政治の 発明について:日本における 被差別部落民』②」への2件のフィードバック

  1. 匿名

    原因?「明治以前から怠学を続けていたようだ」って書いてあるじゃん

    ・明治の町村合併以前に各村(一般の村も部落も)自分たちの子どものために小さな学校を維持していた。
    ・部落民の不登校を、学校で受けた偏見のせいにすることはできない。部落民の子どもたちは、部落民を主体とする小規模の学校でも不登校になっていたからである。
    ・不登校の原因を部落の貧困に求めることもできない。多くの部落民は貧困であったが、一般民の多くも同様に貧しかったからである。

    裏読みすれば、明治の町村合併の後、一般の貧困世帯はきちんと学校に通っていた?
    おたくの私見は当時の部落一般問わず、貧困世帯のほとんどにあてはまりそうなもんだが、何が言いたいのやら

    返信

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