東三条の同和地区の規模は京都市内では崇仁に次ぐ。戦前の記録では1000戸近くあった。
かつては天部、あるいは余戸、余部とも呼ばれた。歴史的には刑吏の役目をしており、名前の通り石川五エ門が釜茹でにされたことで知られる三条河原に近い。

この地区は亀井文夫監督作品『人間みな兄弟 部落差別の記録』で紹介されている。



記録映画に写っていた大将軍神社は今も残っている。



世帯数が多いだけあって立派な神社であり、境内には天満宮もある。

京都の他の地区と同じく、多数の団地があり、団地ごとに御神酒が寄付されているのがユニークである。

この廃墟は蓮澤寺で、ご覧の通り廃寺になっているようだが経緯は不明である。

菊池山哉は『日本の特殊部落』にこう書いている。
今東三条に昔の余部の人や、他の部落の人々が居住して居ります。何れも天正十五年(一五八七)豊臣秀吉の検地と条坊整理の折に移されたと伝えて居り、それ迄余部の人は四条河原今の大雲院のところに住んで居り、寺裏の人々は三条河原や鳥部野に居つたものとも伝えて居ります。寺裏とは寺院が並んで居る其の裏町の義で、余部と相隣接して居つても、筋が違うとて交際はしません。余部では寺裏のものは土蔵を建てゝはならない法度であるが、余部のものは構わないなどと言つて居ります。

これは東山いきいき市民活動センター。かつての三条隣保館である。


京都の同和地区には判を押したように、保育園、診療所がある。

刑吏の役目の他、江戸時代には武具を製造し、記録もある。

それが、明治維新後に武具製造がなくなったために落ちぶれたと言われる。


『人間みな兄弟』によれば、旧家には捕物道具が残っていたというが、今回は見つけられなかった。

しかし、そのような旧家は部落では別扱いされ、浄土宗城安寺の信徒であったという。この写真は浄土真宗の圓光寺。「三条道場」とあるので。もとは寺ではなく道場であったのだろう。部落の多くの住民はここの信徒であった。


今はカーシェアもあれば、LUUPもある。

ここは三条浴場。


もう閉鎖されているのかと思ったら、中から音がする。これだけの規模の地区なので、まだ需要はあるようだ。


この地区も古い住宅の取り壊しと集約が進んでいる。

この看板は古いものなのか、コミュニティーセンターと隣保館の表記が重なっている。京都の隣保館の名称はコミュニティーセンター→いきいき市民活動センターと変遷している。

これは老人施設。

掲示板には公営住宅の解体の案内が。





公営住宅のある辺りが、大体の地区の範囲となる。



