この古村については、国立国会図書館でも見ることが出来る『この差別を見よ』に記載がある。地名は、赤羽村赤生田字下新田。昭和初期には17戸あった。
『部落問題研究所紀要 (140)』には赤生田村には31軒の長吏が居住していたとの記述がある。


現地を訪れると密集地域ではなく農村で、昭和初期から農業が主であった。、近世も風景はあまり変わらず、農村で長吏の役目をしていたのではないか。


歩いていると、「生」と書かれた太鼓のようなものが掲げられた錆びついた建物が目についた。

看板に「館林生産市場」と書かれているのが読める。調べてみると、株式会社として昭和42年にはすでに存在していた。農産物の集積出荷施設だそうだ。


『部落問題・水平運動資料集成補巻一』によれば、「邑楽郡赤生田水平社」の記述があり、水平社運動もあったことが分かる。


赤生田町下新田の地名は現在でも確認できる。写真は1960年代のものだが、今と大きくは変わっておらず、生産市場も既にあったのが確認できる。

これは庚申塔である。

白山神社は少し分かりにくい場所にあり、ここから先の突き当たりにある。


白山神社の隣は集会所になっている。



北関東辺りではよく見る、中でちょっとした集会が出来るタイプの神社である。


この田北東集会所は1980年の群馬県『教育年報』に同和対策集会所として掲載されている。教育集会所は30世帯以上が対象であるため計算が合わないが、同和事業は属地主義のため、赤生田町というくくりで見れば一般も含めれば世帯数はクリアできるのであろう。


ここが古村のメインストリートである。昔も今も農村なのだが、昨今変わったのはスクラップヤードがと、太陽光発電所が出来たことだ。

平日に来たため、皆仕事をしているのか、人と会うことはなかった。