2018年から2019年にかけて、ハーバード大学法科大学院の J ・マーク・ラムザイヤー教授らにより、日本の部落問題について2つの衝撃的な論文が発表された。1つ目は部落民と犯罪・暴力団の関係を真正面から分析したものであり、2つ目は部落民というアイデンティティが「でっち上げられた」ものだと主張している。
部落解放同盟は論文に猛反発し撤回を求めているが、これらの論文は決していい加減なものではなく、過去に公表された文献やデータを活用して緻密な分析がされている。そのデータの1つとして、 『全国部落調査』 が使われている。
原文(Outcaste Politics and Organized Crime in Japan: The Effect of Terminating Ethnic Subsidies)は英語で書かれているが。まずは1つ目の論文を「全国部落解放研究所」有志により日本語訳したので、今回から複数回に分けて毎週土曜日にそれを掲載する。
今回掲載したのは論文の表題と冒頭、論文の概要と、公表済みのデータを使っていかに部落民の分布を特定していくかという部分である。同和対策事業が行われた経緯と多額の予算が投入されたこと、それらが部落に犯罪組織を引き寄せて差別を助長したこと。そして、部落民は何を基準に特定されるのかということと、『全国部落調査』 から分析された部落民の地理的分布について論じられている。
日本の 被差別民政策と 組織犯罪:同和対策事業 終結の影響
J・マーク・ラムザイヤー、エリック・B・ラスムセン
概要
1969年、日本政府は「部落民」のための大規模な同和対策事業を開始した。同和事業は暴力団を引き付け、組織犯罪によってすぐに得られる高収入は、多くの部落民を引き付けた。そのため同和事業は、多くの日本人が部落民を暴力団と同一視していた既存の傾向を後押しすることになった。政府は2002年に同和事業を終了した。
我々は、30年間の自治体データを、長く封印されていた1936年の全国部落調査と結合することにより、同和事業終了の影響を調査した。同和事業終了後、部落民による市町村からの転出が増加していることがわかる。一見して、同和事業は若い部落民が主流社会に加わることを抑制していたようである。また、政府による様々な助成が終了したにもかかわらず、同和事業終了が近づくにつれ、部落近隣の市町村では不動産価格が上昇したこともわかった。同和事業がなくなり暴力団が撤退すると、一般の日本人は、かつての被差別部落が魅力的な住環境であることに気づくようになった。
Ⅰ. 序
2002年、日本の国会は部落民を対象とした大規模な特別施策の試みを終了した。日本において「部落民」は歴史的に差別に直面していた人々のことである。1969年「同和対策事業特別措置法」の下、国および地方自治体は巨額の補助事業を開始した<注1:”Burakumin” は英語で最も一般的に使われる用語である。この言葉は20世紀前半に日本で広く使われていたが、現在は「同和」と呼ばれる。>。2002年までに、政府は15兆円(2002年の為替レートで1250億米ドル)を費やしたが、特措法上の事業以外でも多額の資金を費やした<注2:15兆円は、この分野の書籍で常に引用されている数字である。例:角岡(2012:38,69)。一ノ宮とグループK21(2012:126)、森(2009:78)。この図の元の出典を特定することはできなかった。しかし、内閣府の調査(1995)において、1993年時点で市町村が10.3兆円、都道府県が3.56兆円を費やしていると報告されている。注12も参照のこと。>。同和事業に関連する贈賄、歪んだ雇用、恐喝的行為による支出、および税収の喪失は、その社会的費用をさらに押し上げた。
部落民の多くは、伝統的に肉屋や革なめしなどの汚れた仕事をしていた人々の子孫だった。未だにそのような仕事に就いている人々もいた。生物学的に他の日本人と区別はつけられないが、大抵は居住地によって識別可能であった。つまり、日本に5,000から6,000ヶ所点在する穢多・非人コミュニティである「部落」に彼らまたはその家族が住んでいたかどうかで識別された。最大規模の部落は有名であるが、そうでない他の部落は、長年近くに住んでいる人たちだけが知っていた。
これらの、対象を定めた同和事業を使って、政府は集会施設と公営住宅を建設した。建物は住宅戸数を改善したが、政府はそれらの地域を同和地区として明確に特定した。さらに悪いことに多額のお金は、「ヤクザ」と通称される犯罪組織を引き付けた。犯罪組織に属する部落民は、部落民による市民団体を標榜する部落解放同盟(BLL)で主要な役職に就いた。そこで、彼らは政策を主導し、行政当局を脅迫し、同和事業に反対する者の口を封じ、そして同和事業を彼らの私的財産に流用した。
その結果、大部分は部落解放同盟自身が認めていることだが<注3:例えば角岡 (2004, 2005, 2009, 2012)、宮崎(2004)、宮崎と大谷 (2000)。>、部落民の指導として選ばれた者と犯罪組織に多額の政府資金が流用された。ある市では優遇された企業と建設契約を交わした。そして部落民の有力者から高騰した価格で建物の土地を購入した。国税局は、部落解放同盟によって認定された企業の確定申告を精査しないことを約束した。ある市役所は、部落解放同盟が選んだ部落民を雇うことに同意した。大企業は差別糾弾を避けるためにお金を払った。そして関連団体は、莫大な収入源の管理をめぐって互いに激しく争った。
さらに皮肉なことに、この事業は部落民の男性が合法的な仕事から離れるのを助長した。若い部落民にとって同和事業は、相対的に収益源を合法な職業と違法な職業の間で転換させた。新たに生じた犯罪収益を考慮にいれたところ、多くの若い男性は、日本の主流派に加わるために不可欠な教育投資よりも、違法な活動を選択した。多くの部落民が暴力団に加わったので、主流派の日本人は恐怖のため彼らを避けた。すなわち、暴力団の関与自体が差別を引き起こしたのである。
本稿では、2002年に同和事業を終了するということを決めた1996年の政府決定の結果を検証する。同時期に、政府は積極的に警察権力を行使することにより暴力団の指導者に直接打撃を加えることを決定した。政府は、部落における腐敗と、暴力団が深く関与することを阻止するために戦った。そのために、同和事業をやめ、暴力団を警察により摘発した。これらの同時期に行った政策の相乗効果を検証する。
30年前のこの事業を開始するという政府の最初の決定については、本稿では検証していないことに留意する必要がある。終了の影響に関する私たちの分析は、必然的に、その発生の影響と、その作成と打ち切りの背景にある党派力学について平行した質問を提起するが、本稿では事業の終了の影響に限定して検証する。
この調査では、長く出版禁止されていた1936年の全国部落調査を使用し、5,000余の伝統的な部落民のコミュニティを特定する。日本の1,700余の市町村について、1980年から2010年までの人口統計および経済データと、全国部落調査を組み合わせている。日本は全土で市町村が組織されているため、これには農村部も含まれる(訳注:米国では市町村に相当する地方政府がない地域が当たり前のように存在する)。「差分の差分法」を使用して、同和事業の終了の影響を検証する。
その論法は単純である。若い部落民の男性は、主流なもの(合法)と傍流のもの(しばしば犯罪である)のどちらの職業を選んだかどうかである。前者は教育への多額の投資を必要とし、後者はそれを必要としなかった。前者は部落民に向けられる一般市民の敵意を下げ、後者はそれを悪化させた。 2002年以前は、同和事業は部落民に対する一般市民の敵意を高め、部落を離れて日本の主流社会の職業に加わることによる相対的な利益を下げ、犯罪へ加わることによる利益を高めた。同和事業が終了すると、それらの相対的な利益(リターン)が切り替わった。意欲的な部落民は今では大学進学を機に部落を離れ、二度と戻らない。暴力団と部落解放同盟は構成員を大量に失った。そして一般の日本人は、かつての同和地区が、住む場所としてより魅力的であることに気づいた。
この論文は2つの部分から成る。1つめは、同和対策事業の制度的構造と効果についての非統計的な議論から始め、社会的背景を説明する(セクションII):部落民(セクションII.A)、組織犯罪シンジケート(セクションII.B)、および2つのグループ間の関係の変化(セクションII.C)。次に、警察の取り締まり(セクションIII)と関連する腐敗の性質(セクションIV)について説明する。2つめに、データについて説明し(セクションV)、「差分の差分法」を使用して、同和事業の終了が移住と不動産の価格に与えた影響を調べる(セクションVI)。
II. 部落民と犯罪組織
A. 部落民
1. 序
研究者は、部落民を、肉屋、皮なめし職人、皮革労働者、行商人など、伝統的に汚れた仕事や評判の悪い仕事で働いていた人々の子孫であると説明することが多い(詳細はセクションII.A.5を参照)<注4:韓国の「ペクチョン」もほぼ同じ状況に直面した。しかし、朝鮮戦争中の大規模な混乱と家族登録制度(戸籍)の崩壊は、それらを識別可能な集団としては消し去ったようである(アノン2012)。韓国のペクチョンに対する差別がまだ存在していると主張する作家は、ほとんどが部落解放同盟に関係する日本の学者であるように思われる(コテク2009)。>。デビッド・ハウエル(1996:178)が述べているように、部落民の祖先は「穢れていると考えられる職業、特に死の穢れを伴う職業に従事した」。幕府は部落民を、武士、農民、職人、商人の4つの主要階級の下に置いた。1871年、近代化された政府は部落民を「解放」したと宣言した<注5:「穢多非人の称を廃し、身分・職業とも平民同様とす。」1871年10月12日の太政官布告、非公式に解放令として知られる。 ファー(1990:77)を参照のこと。ハンキンス(2014:21)、アップハム(1980:41)、トッテン&我妻(1967:34)。>。しかし、ほぼ同時に、新設された市町村に戸籍を創設した。これらの戸籍は、新しく解放された部落民を「元穢多・非人」、「新平民」、または穢寺所属、と記載することがあった。したがって、最も正確な定義によれば、部落民とは、1870年代初頭の戸籍で部落民として記載された祖先を持つ人のことである。この戸籍は現在、一般公開されていない。
現在の日本の人口1億2700万人のうち、部落民は約180万人である。 1936年、政府は全国部落調査を作成した(中央融和 1936、セクションIV.Cで説明)。それによれば、部落民は999,700人だった<注6:以下で説明するように、この数値はほぼ確実にいくつかの部落を見逃している。 1871年、政府は部落民の総人口を38万人と報告した(角岡 2005:24; Price 1967:24; デボスと我妻1967b:115)。 1920年の人口は83万人と報告されている。中央融和(1936:336)を参照のこと。プライス(1967:24)、デボスと我妻(1967b:115)。>。2010年までの日本の人口増加率を想定すると、180万人という数字が導かれる<注7:一部の作家は、部落民の増加率が一般社会の人口よりも高いことを示唆している。出生率の違いによるものは、同盟によって部落民となった一般の最貧層の部落への移住によるものではない。一般的にプライス(1967:13)を参照のこと。 デボスと我妻1967b:114)。>。政府は1975年に別の同和地区実態調査を実施したが、その時は、同和対策事業で指定された4,374の地区に110万の部落民がいた<注8:朝日(1982:81)。 1963年、政府は指定された地区に170万人(部落民と一般民)が住んでいることを発見した(角岡2005:29)。内閣(1995)は、1993年に指定された4,603地区のうち4,442地区に216万人(一般民を含む)が住んでいると報告している。地区の部落民人口は892,000人であった。その他の同和地区実態調査については、塩見(2012:106 [1987]、107 [1993])を参照のこと。高木(1997:48)(1986)、山口(2004)(90万人を主張)。>。おそらく、70万人の部落民は、同和地区指定されていない部落に住んでいたか、一般地区に移動していたようだ<注9:部落解放同盟自体は、部落民の数は300万人、時には600万人であると主張しているが、主張の根拠が不足しているようである。たとえば、アップハム(1980:63)を参照のこと。部落差別(出版年記載なし)。 デボスと我妻(1967b:117)は、次のように書いている。「現在の部落民の推定人口は100万人から300万人までさまざまである。高い数字は、左派の部落指導者によって政治目的で使用されたようであり、確固たる証拠なしに確立された事実として科学文献に掲載されている。」 同じ効果については、プライス(1967:11)を参照のこと。>。
対象を絞った同和対策事業を通じて、1969年に国と地方自治体は部落民に多額のお金を給付し始めた<注10:同和対策事業特別措置法 1969年法令第60号>。立法府は、元の制定法を10年で失効するように設定していたが、さまざまな延長および代替制定法を通じて、事業は2002年まで継続された<注11:地域改善対策特別措置法 1982年法令第16号。地域改善政策に関する特別国家財政措置に関する法律、1987年法令第22号。>。それが終わるまでに、政府は15兆円を分配した<注12:1969年には、1ドルは約360円に相当。 2002年までに約120円になった。>。 1969年から2000年まで、大阪府だけでも2.9兆円を費やした。このうち、建設事業に35.5%(1兆190億)を投資した<注13:角岡 (2012:38, 69, 96)、一ノ宮とグループK21 (2012:25, 126)、森 (2009:78)。>。この事業は部落民の住宅戸数を改善したが、組織犯罪をも引き起こした。有権者が、その後の腐敗を阻止するために、政治家に同和事業を終了するよう圧力をかけたのではないかと我々は思っている。公式には、部落のインフラが主流社会と同じレベルに達したため、政府が同和事業を終了したと宣言している。理由が何であれ、国会は2002年に同和事業を打ち切った。
2. 統合
実は、「被差別部落」という言葉は長い間誤解されてきた。部落民の子孫ではない人々も部落に住んでいる。多くの住民は、家賃を安くするためにそこに引っ越しただけで、今日、部落は混住している。 1993年の政府調査によると、部落に住んでいる人のうち、部落民は41.4%だけであった。都道府県の平均の範囲は、九州のある県の2.7%から、中部地方のある小さな県の97.9%までである。部落民が多い都道府県は、指定同和地区住民の56.9%が部落民である兵庫県(神戸市がある)と、九州最大の県で36.6%が部落民である福岡県の2つである(角岡2005:57、内閣1995)。
1960年代後半以前は、部落を離れて主流社会に移った部落民は、部落内の中流階級か、部落のエリート家族の次男以降の傾向があった。エリート家族の長男は部落を離れなかった(ドナヒュー1967、コーネル1967:178)。長男は家族の財産と部落内の役割を継承した。部落内の底辺層の部落民も離れなかった。彼らは主流社会に溶け込むために必要な教育と社会的スキルを欠いていた。ある新聞記者は、1980年代初頭の中年の部落女性との会話を思い出した(角岡2004:65–66)。
もしあなたが8年前にここに来ていたら、私はおそらくあなたにお茶を出さなかったでしょう。当時はまだ字も読めませんでした。部落の外から人が来たとき、私はただ途方にくれてうろうろしていました。私は自分に問いかけていました。私はお茶を出すべきなのか? デザートを出すべきなのか? しかし、私には分からないのです。通常人々は何を飲むのだろう? 通常何を食べるのだろう? 私はとても怖かったので、家の中に隠れました。…できることなら、町に引っ越して住みたいです。でもご承知のとおり、それは怖すぎます。町の人々は教育を受けています。そして、私は彼らに何を話したらよいのかわかりません。私は本当にこの村を離れることができないのです。
3. 部落の場所
同和事業の下で給付を受けるために、被差別部落を政府に登録する必要があった。ただ、すべてがそうだったわけではない。政府の1936年全国部落調査(中央融和1936)では、5,367の部落で999,700人の部落民を数えた(全国部落調査の信頼性についてはデータの部分で後述する)。 1993年までに、政府は4,603の部落を登録した(角岡2005:30–36、内閣 1995)。これは1936年調査の85%である。
ほとんどの被差別部落は規模が小さい。 1936年に報告された地区のうち、2,067(38.5%)の世帯は10世帯以下であった。全国部落調査によると、1993年の時点で被差別部落が特措法による給付を受け取ることを選択しなかった8つの都道府県のうち、3つは1936年に部落民の居住地がまったくなかった。5つは1936年に309の部落が存在していたが、規模が小さく、そのうち246(79.6%)は10世帯以下であった。
居住地はばらばらに分布しているわけではない。表1に都道府県別の分布を示す。日本では標準的な方法を使用して、都道府県を地域ごとにグループ化し、北東から南西に向かって大まかに並べる。図1に、この分布を日本地図に示す。最も黒い領域は、部落民の密度が最も高い都府県である(後述の「部落民」変数を使用)。 1993年に部落が指定されていない東京以外の7道県は、日本海沿岸の北東部である。部落民は主に中西部、大阪、京都、神戸周辺、瀬戸内海に面した都道府県、北部九州に居住している。
大阪と京都の部落は巨大である。 1936年、京都、大阪、兵庫、奈良、三重、和歌山、広島には1,401の部落民地区があった。そのうち159世帯(11.3%)が10世帯以下であった。 1936年の京都の3つの最大の地区の世帯数は、653、955、および1,815である。大阪で最大の3つは881、1,017、2,683世帯である。 2,683世帯の部落人口は17,435人であった。 1936年には、大阪におけるこの単一の地区と同じくらい多くの部落民の総人口を持っていたのは、7つの都道府県だけだった(中央融和1936)。
4. 部落民の特定
アメリカの研究者は皆、部落民を特定する方法について困惑している。微妙な文化の違いが存在する(友常 2012:4章)。仏教では、部落民は浄土真宗の檀徒であることが多い(角岡2005:65–70;若妻1967:89b)。神道では、白山神社を崇敬していることが多い(前田2013)。部落民はより頻繁に牛肉産業で働いている(ファー1990:79)。革なめしと関連して、部落民は伝統的な和太鼓を作製する傾向もあった。部落民は独特のバラードと歌を歌った。貧しい部落民の中には、やや特異な方言を話す人もいた(佐々木とデボス 1967:135、ドナヒュー 1967:149)。それより他の違いは、ごくわずかであった。
部落民を正確に(必ずしも部落民自身の心の中でではなく、調査員の心の中で正確に)特定するために、調査員は、誰が1870年代の戸籍に「新平民」の祖先を持っているかを確認する必要があった。しかし、国会は差別をなくすため、1970年代に戸籍の一般閲覧を廃止していた。メディアは、まれに他人の戸籍を不法に閲覧する人がいる事件を報道し続けている。ただし、法律上、家族と特定の人たちだけが誰かの戸籍を閲覧することができる<注14:富永 (2015:27–28)、 角岡 (2016:15)、戸籍法 [家族登録法],、1947年法令第224号第10条, 10-2。>。
表1. 部落民の地理的分布
都道府県 | 部落民戸数 | 部落人口 |
---|---|---|
東北と首都圏 | ||
北海道 | 0 | 0 |
青森 | 0 | 0 |
岩手 | 0 | 0 |
宮城 | 0 | 0 |
秋田 | 16 | 105 |
山形 | 0 | 0 |
福島 | 173 | 998 |
茨城 | 877 | 5,329 |
栃木 | 2,581 | 15,863 |
群馬 | 4,870 | 30,005 |
埼玉 | 5,402 | 32,875 |
千葉 | 559 | 3,533 |
東京 | 1,378 | 7,248 |
神奈川 | 933 | 5,400 |
新潟 | 787 | 4,363 |
富山 | 1,601 | 8,132 |
石川 | 563 | 2,671 |
福井 | 559 | 2,892 |
山梨 | 341 | 1,818 |
長野 | 3,956 | 24,036 |
岐阜 | 910 | 4,457 |
静岡 | 2,655 | 16,132 |
愛知 | 2,732 | 13,593 |
関西 | ||
三重 | 8,303 | 41,926 |
滋賀 | 5,862 | 28,287 |
京都 | 9,893 | 47,692 |
大阪 | 19,565 | 104,375 |
兵庫 | 24,043 | 128,963 |
奈良 | 7,399 | 37,444 |
和歌山 | 9,685 | 48,620 |
中国 | ||
鳥取 | 3,835 | 21,999 |
島根 | 1,727 | 7,796 |
岡山 | 9,772 | 48,430 |
広島 | 9,022 | 47,685 |
山口 | 4,484 | 21,751 |
四国 | ||
徳島 | 4,926 | 25,578 |
香川 | 1,701 | 7,384 |
愛媛 | 9,783 | 51,970 |
高知 | 7,206 | 37,709 |
九州 | ||
福岡 | 15,774 | 71,913 |
佐賀 | 454 | 2,366 |
長崎 | 648 | 3,189 |
熊本 | 2,690 | 14,612 |
大分 | 1,770 | 9,559 |
宮崎 | 211 | 1,055 |
鹿児島 | 1,908 | 9,934 |
沖縄 | 0 | 0 |
B. 1936年に最も部落民が多かった都市(都市の境界は2015年時)
市 | 府県 | 1936年の部落人口 | 変動部落人口 |
---|---|---|---|
大阪 | 大阪 | 60,882 | 229.9 |
神戸 | 兵庫 | 35,701 | 261.1 |
京都 | 京都 | 24,391 | 164.8 |
福岡 | 福岡 | 18,225 | 167.4 |
和歌山 | 和歌山 | 15,930 | 397.5 |
広島 | 広島 | 13,356 | 134.5 |
姫路 | 兵庫 | 12,650 | 255.6 |
津 | 三重 | 12,639 | 476.1 |
松山 | 愛媛 | 12,549 | 283.8 |
北九州 | 福岡 | 11,220 | 105.3 |
戸籍が閲覧禁止になっているため、調査員は対象者またはその両親がどこに住んでいるかに注目する必要があった<注15:もちろん、これはある程度以前にも起こった。 デボスと我妻(1967b:118)を参照のこと。デボスと我妻(1967c:246)。>。将来の義理の息子や娘の身元を確認したい父親は、自身でそれを行うか、経験豊富な探偵事務所(興信所)を雇うことができる。雇用主は、求職者の身元を確認するために、興信所を雇っておくことさえあるかもしれない(富永2015:57)。探偵はこれをどこでも公然と行うことができるわけではない。大阪は1985年にこの興信所サービスを禁止し、熊本、福岡、香川、徳島がそれに続いた(角岡2005:43–44、富永2015:55)。いずれにせよ、このサービスは安くはない。ある記者に、探偵は身元調査に50万円(約5,000ドル)の価格を見積もった(富永2015:36)。
政府が1970年代に戸籍を閲覧禁止したことにより、2つの横断的現象を引き起こした。1つめは、進歩的な部落民が部落を離れて日本の主流社会に溶け込みやすくした。2つめは、部落に住む一般民が差別に直面する可能性が高まった。部落に住んでいる人のうち、部落民が半数未満であることを思い出してほしい。差別者が家族の戸籍を閲覧できる限り、部落民と一般民を区別することができた。戸籍の閲覧禁止後、差別者は部落民であるかどうかの識別に、本人の住所と両親の住所を使用する以外に選択肢がほとんどなくなった。
図1. 部落民の地理的人口密度
図は、日本国内の部落民人口密度を示す(本文セクションVで詳述する部落民変数を使用)。濃い地域(大阪、兵庫、和歌山、愛媛、福岡)が、高い人口密度の都道府県である。
新聞記事や調査は、後者の効果を確認している。あるジャーナリストは、部落民かどうかをどうやって決めたのかを探偵に尋ねた。すると探偵は「両親が部落民だったら」部落民だ、「あるいは部落出身だったら」と答えた。結局のところ、「彼らが現在部落に住んでいるなら、彼らは部落民だ」(角岡2005:50、2016:50)。 2005年の大阪の調査でも同じ質問があった。回答者のうち、50.3%が本人の住所、38.3%が本人の自宅(本籍)の住所、その他が本人の両親または祖父母の住所を確認したと回答した(富永2015:35) 。
5. 現代の学術研究
英語で書かれた部落研究で最も網羅的でバランスの取れたものは、東京大学民法教授(訳注:我妻栄のこと)の息子である我妻洋とジョージ・デボス(デボスと我妻 1967a)による1967年の民族誌的古典である。同和対策事業の直前に、我妻、デボス、および数人の共同研究者が、都市部と農村部の、安定したまたは過渡期にある部落に関する詳細かつ幅広い研究をまとめた。
我妻-デボス以降の学者は、一般の人々の間と部落民を自認している人々の間の両方において、部落民の定義の違いを強調する傾向がある。調査員は、家族が何世代にもわたって部落に住んでいたかどうかを尋ねることがある。そして部落の居住者は、家族の先祖に19世紀後半に差別された人々が含まれていたかどうかを尋ねることがある。これは1870年代の戸籍を追跡することによる定義である。それでも、戸籍で特定された部落民でさえ、肉屋、皮なめし屋、葬儀屋以外の職業の人が含まれていた。一部の地域では、様々な重大犯罪を犯した人々が含まれていた。他にも、行商人や芸能人が含まれていた。部落民の範囲は部落ごとに異なるものであった。
これらの違いは、19世紀の日本の地理的多様性を反映している。これらは、ラジオや鉄道の時代の数年前、現代の通信と輸送革命の前であり、良くも悪くも、以前の職種の多くを消し去っていた。前近代の部落は、今日の趣のある郷土料理だけでなく、幅広い側面にわたって大きく異なっていた。部落間の違いは、一般集落も包括した集落ごとの違いを反映していた。賎民へ追いやられた家族の種類の違いも反映していた。
現代の民族誌学者は、部落民の性質についての争点を詳細に調査している。人類学者のジョセフ・ハンキンス(2014)は、部落民の皮なめし工場で数か月働き、さらに多くの月日を部落解放同盟の人権部門でインターンして過ごした。彼は、部落民の労働者が自分自身を特定する方法、他の人が彼らを特定する方法、そして部落解放同盟が部落民の主義主張を国際人権運動に統合しようとした試みを詳細かつ細心の注意を払って研究した。彼は特に、日本をより「多文化的な」社会に変えるための同盟の取り組みを調査した。
社会学者の筒井清輝(近日公開)は、部落解放同盟の国際人権活動とその自己アイデンティティとの関係を研究した。 「グローバルな人権」のための仕事は、「地域の社会運動」に「構成的かつ変革的な影響」を与える可能性があると筒井は書いている。部落民の場合、「グローバルな人権」は「変革的影響」をもたらし、最終的には彼らの社会運動を「構成し、再構成する」ことになる。
クリストファー・ボンディー(2015:3)は、部落の自己同一性も検証した。彼は、部落解放同盟は「部落民の誇りを奨励し、差別が見つかったときはいつでもどこでも差別に対抗することを決意している」と説明した。彼は、主要報道機関が部落民に関する報道をしばしば回避する方法について議論し、「メディアは、部落問題の一般への露出を沈黙させる機関である」と結論付けた(2015:6)。
アラステア マクロラン(2003)は、部落解放同盟が彼のために選んだ部落民21人に取材した。取材した話を詳述した後、マクロラン(2003:113)は、「部落解放同盟は明らかに[X]部落住民の擁護者であると結論付けた。この非常に強力な組織が、部落住民の状況を改善するためにたゆまぬ努力をしてきたことは間違いない…」
ジェフリーバイリス(2013:1)は、より歴史的なアプローチを取った。彼は「(部落民が)苦しんでいる搾取、偏見、疎外」について語った後、部落解放同盟の対応に目を向けた。解放同盟員は「(彼らの)待遇と戦うための闘争」に従事している。彼らが差別者を「糾弾」するとき(バイリス 2013:2 n2)、彼らは「部落および運動のより広い政治的目的の両方に働く」ポリシーを組み込むためにそうしているのである。
イアン・ニアリー(2010)は、初期の部落解放同盟リーダーである松本治一郎の伝記で同様の歴史的アプローチを採用した。彼(2010:1)は、大部分を前向きに描写した。松本は「彼と仲間の部落民が日常生活で遭遇した偏見と差別に反対する運動を行った」。
フランク・アップハム(1980、1984)は、同和対策事業自体の、特に最初の10年間に焦点を当てた。アップハムは(1980:204)事業を「積極的差別是正措置(アファーマティブ・アクション)」と表現し、「糾弾」会を「活動的で、参加型の個人による正義の実現」と表現した。同盟の前身である「水平社」は、「マルクス主義とキリスト教の哲学に強く影響されている」と彼は付け加えた(1984:187)。
私たちは、これらの研究で採用された多次元的アプローチに異議を唱えたり、多くの部落解放同盟指導者の人道的本能を否定したりしない。ただし、これらの問いを調査するのではなく、外部に焦点を当てる。 1969年、日本政府は被差別部落に巨額の資金を分配し始めた。 1936年の全国部落調査と、解放同盟支部の場所という、2つの異なる部落地名情報を取り上げる。次に、事業の終了が移住パターンと地価に与えた影響を検証する。
ピンバック: J・マーク・ラムザイヤー教授 『日本の 被差別民政策と 組織犯罪:同和対策事業 終結の影響』② - 示現舎