示現舎

【休日読み物】日航123便墜落事故 事後の概要から陰謀論まで

日航123便墜落事故は39年前に発生した出来事で、多くの人々にとっては歴史の一幕となりつつあります。しかし、近年になり、経済評論家の森永卓郎氏が「撃墜説」を提唱するなど、事故調査委員会の公式報告書とは異なる原因が議論されるようになっています。また、犠牲者の数を減らす可能性があった対応策についても、独自に検証がされることがあります。

今回は、日航123便事故の検証をライフワークとしているという方に、事故の概要や周囲で議論されている様々な説を理解するための基礎知識について解説していただきました。

みなさん、はじめまして。郷土史家の高橋孝司と申します。このたび、示現舎とご縁があり、日航123便墜落事故について僭越ながら書かせていただくことになりました。

あらためまして、この事故で亡くなられた皆様、そしてご遺族の皆様に心よりお悔やみ申し上げます。また、生存者の皆様には心よりお見舞い申し上げます。

この事故については、事故後39年が経ちながらも、SNSやYouTubeなどで今も取り上げられており、関心をお持ちの方も多いことでしょう。また、この事故への捉え方は様々で、どれが真実なのか百家争鳴の状態です。その理由は、政府の事故調査委員会(事故調)の調査報告書に疑問を持つ方が大変多いためです。

この記事では、できる限り事実に基づき、各論がある場合は併記しつつ、かいつまんで皆さんにお伝えしたいと思います。なお、詳細を知りたい方はぜひウィキペディアをご覧ください。

さて、まずは事故の概要についてお伝えします。

皆さんはこの事故をご存じでしょうか?

1985年8月12日の夕刻、乗員・乗客524人を乗せた日本航空123便(羽田発大阪〈伊丹〉行き)が羽田空港を飛び立ちました。機種はボーイング747-100SR(ショートレンジ=短距離の意味)で、機体番号はJA8119。お盆期間中ということもあり、またビジネスマンも多く利用する便で、ほぼ満席でした。

羽田を離陸後、横田空域を回避しながら上空24,000フィート(7,300メートル)へ上昇する途上、相模湾上空に差しかかったとき、機体に異常が発生しました。機体に衝撃音があり、機長は「スコーク77」という緊急信号を発し、管制にも通報しました。スコーク77は滅多に用いられない緊急信号で、これがセットされるとレーダー上に「EMG(エマージェンシー)」という表示が出現します。

当時、相模湾付近の地上で大きな物音を聞いたという証言が地方新聞などに取り上げられています。機長と管制のやりとりは音声記録に残っており、「羽田へ引き返したい」「アンコントローラブル(操縦不能)」などの通信が確認されています。しかし、管制との通信はうまくいかず、123便は通常のルートから大きく北へと逸れていきます。在日米軍横田基地からも呼びかけがありましたが、123便は応答しませんでした。

この時点で、垂直尾翼のかなりの部分、特に方向舵が脱落していました。垂直尾翼の下にあった油圧系統4系統も破損し、操縦舵やペダルなどが効かなくなっていました。機体は、ダッチロール(機首が8の字を描く動き)やフゴイド運動(機首の上下運動)を繰り返し、不安定な状態が続きました。

機長、副操縦士、航空機関士は、左右4発のエンジン出力を調整したり、電動フラップを操作したり、ギアを下ろすなどしてコントロールを試みました。また、機内与圧の低下を防ぐため高度を下げながら機体の安定を図りました。

機内では酸素マスクが落ち、乗客や乗務員はマスクを着用し救命胴衣を装着しました。18時30分頃、一部の乗客が遺書やメモを書き残し、写真を撮った方もいました。生存者の証言によると、乗客は冷静で、一瞬機内に白い霧が発生したもののすぐに消えたといいます。不時着に備えて乗客は安全姿勢を取りました。

最終的に機体は「一本カラ松」と呼ばれる木に接触し、群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」と命名された尾根に墜落しました。乗員乗客524人のうち、4人が生存し、520人(胎児を含めれば521人)が死亡しました。この事故は単独機として現在も世界最大の犠牲者数を記録しています。

123便は管制、自衛隊、在日米軍がそれぞれレーダーで追跡していました。やがてレーダーから機影が消え、捜索活動が始まります。墜落したと見られたものの、墜落場所の特定には時間がかかりました。事故現場は群馬、長野、埼玉、山梨の県境に位置する奥深い山中で、谷が深く入り組んだ地域です。当初は長野県側と発表され、報道も御座山や三国山などと情報が二転三転しました。

航空自衛隊は早くからアラート警戒中のファントム機をスクランブル発進させて現場を確認しようとしましたが、現場上空への到着は、嘉手納基地から横田基地へ帰投途中の米軍輸送機の方が早かったとされています。その後、航空自衛隊の救難ヘリも確認に向かいました。当時はGPSがまだ普及しておらず、航空標識(TACAN)の電波を元に位置を特定する方法が使われていました。さらに新月の夜で目印が少なく、炎上している現場を見つけるのが困難だったようです。上空では報道ヘリも加わり、二次災害が起きそうな状況でした。

地上では、警察や消防が現場に向かおうとしましたが、自衛隊は羽田空港事務所からの災害派遣要請を待つ必要がありました。当時は自衛隊への世間の認識が厳しく、要請がなければ動くのは難しかったのです。要請は時間差で陸自と空自に発せられ、ようやく車両が長野県北相木村を目指しましたが、13日早朝には現場が群馬県上野村と確定し、急遽転進しました。車両は林道深くまで入りましたが、そこからは徒歩で険しい藪を進み、上空のヘリを目印に山を登ることになりました。

目撃者は各地におり、報道もされましたが、事故調査委員会の報告書にはあまり反映されなかったようです。警察や消防も山間部のため現場の特定が難しく、その間にも報道陣が押し寄せるなど混乱が広がりました。当時、携帯電話は普及しておらず、上野村の電話回線も少ないため、すぐにパンク状態になりました。地元住民からの通報もありましたが、電話が通じにくい状況でした。ただ、上野村の猟友会の方々は現場をすぐに察知し、消防団とともに向かいました。

墜落からかなり時間が経った早朝、警察のヘリから隊員が降下し、初めて墜落現場に到達しました。現場は急斜面の尾根で、木々がなぎ倒されて焼けており、主翼の一部が確認されました。機体は激突地点で前部が砕け、後部は尾根から滑り落ちていました。当初、生存者はいないと思われましたが、スゲノ沢近くで機体の隙間から動く人影を消防団員が発見しました。これにより、生存者4人が発見されました。生存者は急斜面を担架で運び出され、最寄りの上野村中心部までは徒歩で数時間かかる場所にあり、搬送にはヘリが必要でした。しかし、送電線やカラマツ林の影響でヘリのホバリングが難しく、非常に困難な状況でした。それでもヘリは現場に到達し、生存者は救急車を経て病院へ搬送されました。

機体はバラバラになり、ご遺体の状態も完全なものは少なく、多くが炭化しているなど確認が困難でした。時間が経つにつれ腐敗が進み、蛆が湧くなどの状況もありました。部分遺体が多数だったことも検視作業を困難にしました。自衛隊は現場に臨時のヘリポートを設け、警察や海上保安庁のヘリを動員してご遺体を運び出しました。特に13日の晩は対策本部のある上野村役場との往復が困難なため、現場で夜営となりました。山の気候は昼間は暑く、夜は一気に冷え込むため、捜索に当たった方々は非常に苦労されたようです。

運輸省(現在の国土交通省)の事故調査委員会(事故調)の調査官が墜落現場に入ったのは14日でした。事故調はブラックボックス(CVRとDFDR)を探し出し、14日中に発見して東京へ送付しました。一方、機体に不具合がなかったかを調査し、アメリカの事故調査委員会(NTSB)やボーイング社のエンジニアも調査に加わりました。

日本では他国と異なり、まず警察による刑事捜査が優先されます。国際民間航空条約に基づくと、事故調査に関する内容は本来刑事訴追に使用できないとされていますが、日本では刑事立件が先行します。警察は捜索活動と並行して現場保存や鑑識作業を進め、刑事事件として立件を目指しました。一方、日本の事故調査委員会(以下、事故調)は警察ほどの捜査権限がなく、困難に直面したようです。群馬県警には航空機事故に関する知見が乏しく、警視庁も捜査に加わりましたが、機体の解析やCVR(コクピット・ボイス・レコーダー)およびDFDR(デジタル・フライト・データ・レコーダー)の解析は事故調に鑑定嘱託として委ねられました。

また、123便には医療用アイソトープが貨物として積み込まれ、機体のバランス用に劣化ウランが装着されていました。どちらも放射性物質です。政府の事故対策本部で早朝に確認され、「素手で触らない限り問題ない」とされましたが、この情報が墜落現場に伝わるのは時間がかかりました。

相模湾一帯では機体の破片が広範囲に落下しました。垂直尾翼の一部は、公試中だった海上自衛隊の護衛艦「まつゆき」により偶然発見され、海上保安庁の艦に引き渡されました。そのほか、房総半島に流れ着いたり、陸上でも部品が発見されたりしました。これらはすべて事故調に引き渡され解析に使われました。

123便に乗っていた乗客の家族や関係者は、ニュース速報で事故を知りましたが、本当に搭乗していたかを確かめるため、日本航空に電話をしたり伊丹空港や羽田空港に向かったりしました。詳細な情報が即時オンライン化されていない時代だったため、日本航空も123便の状況や乗客名簿をすぐには公表できませんでした。家族は不安な夜を過ごし、墜落現場が確定すると報じられた映像を見て悲嘆に暮れました。生存者がいると報じられると希望を託しましたが、4人以外の生存が絶望的となり、悲しみや怒りに包まれました。

マスコミの第一報は、ニュース速報テロップが流れた7時前と言われています。その後、NHKや民放各社が臨時ニュースを放送し、国民は驚愕しました。当時はネットが普及しておらず、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌が主な情報源でした。NHKは臨時ニュース以降、徹夜で報道を続け、青い画面に乗客名簿が次々と表示されました。しかし、墜落場所の報道は遅れ、現場特定に時間がかかりました。

マスコミ各社は現場に急行し、ヘリを飛ばしましたが、警察・海保・自衛隊のヘリと衝突しそうになる場面もありました。自衛隊が航空管制を実施しましたが、報道ヘリが従わないこともありました。また、墜落現場には報道陣や野次馬が押し寄せ、混乱が極まりました。生存者を追い回したり、ご遺族に強引にコメントを求める記者も現れ、報道合戦が捜索・救助活動の妨げになりました。

事故調査報告書では、JA8119機が過去に尻もち事故を起こした際のボーイング社の修理ミスが原因とされています。客室と機体最後部を隔てる後部与圧隔壁が金属疲労により破断し、客室内の急減圧が発生しました。その気流で機体最後部が吹き飛び、垂直尾翼が離断したと結論付けられました。この結果を受け、運輸省やアメリカFAA(航空局)は与圧隔壁などボーイング機の点検を命じました。

それでは事故調査委員会(以下、事故調)の最終報告書の内容と、それに納得しない方々の説や議論を併記しながら整理していきます。

まずは、事故調査の過程を見ていきます。事故調(運輸省=現在の国土交通省の管轄、現在の運輸安全委員会)は、123便の機体JA8119号機が事故の7年前、大阪(伊丹)空港で尾部を滑走路に擦る「しりもち事故」を起こし、さらに千歳空港で路面に第4エンジンを擦る事故を起こしていた事実を把握しました。

また、NTSB(アメリカ事故委員会)の幹部は、しりもち事故の際、ボーイング社の修理チームが修理手順どおりに作業をしなかった修理ミスがあったことを日本の事故調に伝えました。これを踏まえ、事故調は生存者への事情聴取、残された機体の調査、ブラックボックス(CVRとDFDR)の解析作業を並行して進めました。

当時、運輸省は垂直尾翼に問題がある可能性を考慮し、日本国内で就航する旅客機の垂直尾翼の点検を航空会社に指示しました。しかし、アメリカの新聞が「123便の墜落原因は後部圧力隔壁の修理ミスにある」と報じ、ボーイング社も修理ミスを認める発表を行いました。この報道以降、事故調は圧力隔壁主因説に傾いていきます。この新聞記事はNTSBからのリークだったとも言われています。

CVRとDFDRはブラックボックス内で衝撃に耐えられる設計でしたが、損傷があり修復に時間を要しました。CVRは本来30分間のエンドレステープですが、それ以上の録音がされていたようです。DFDRもデータ解析時に多くのエラーマークがあり、事故調は航空自衛隊の専門家に解析を依頼しました。

機体調査では、最前部が焼損した機体、沢に滑り落ちた後部機体、墜落現場手前で発見された水平尾翼、各エンジン、垂直尾翼などが回収され、羽田へ移送されました。後部与圧隔壁の修理ミスと思われる部分も現場で発見されています。また、飛行ルート真下の各地から部品と見られる物も回収されました。

垂直尾翼の破片については、相模湾上空での破損が考えられ、事故調は風向や潮流を基に稲取沖の海域を絞り込み、海洋研究開発機構に海底探査を依頼しました。しかし、ソナーやビデオカメラによる探査では有力な発見はなかったとされています。

事故調の最終報告書では、以下の結論が示されました。ボーイング社のしりもち事故の修理ミスにより金属疲労が発生し、後部与圧隔壁が破断。急減圧が発生し、客室内の空気が急激に機体後部の非与圧側へ噴出。これにより垂直尾翼と機体後部が吹き飛び、油圧系統がすべて失われたため、機体が制御不能となり御巣鷹の尾根に墜落したとされました。

聴聞会も行われ、大学教授や遺族でもある大学教授、日本航空乗員組合の代表らが意見を述べました。乗員組合の代表は、急減圧は無かったと主張し、CVRの記録に基づき「パイロットが酸素マスクを着用していないこと」を根拠に挙げました。また、事故調委員に現役の747パイロットがいなかったことも問題視されました。

一方、遺族側の代表は聴聞会で意見を述べる機会が与えられませんでした。また、ニューデリー事故で公開されたCVRの全録音が、今回は公開されず、書き起こしとDFDRの概要データのみが公表されました。この不透明性が現在も争点の一つとなっています。

遺族の一部は連絡を取り合うため、「8・12連絡会」という団体を結成しました。この団体は、事故直後に現場へ赴いたご遺族の一人が事務局長を務めています。事故後、日本航空からは遺族それぞれに「相談役」と呼ばれる社員が付き、補償交渉を進めました。補償内容は、交通事故の事例を基に余命や収入を考慮して決められ、日本航空とボーイング社が補償を負担する形でした。しかし、この補償契約の不平等さを訴え、CVRの全面公開を求めて裁判を起こす遺族も現れました。

生存者は事故後、メディアや野次馬に追い回される日々が続きました。一部のメディアがご遺体の写真を公開したり、興味本位でご遺族に取材を試みるなどの問題も発生しました。墜落現場一帯はもともと国有林で、人里離れた場所でしたが、現在では「昇魂の碑」が建立され、上野村が管理する財団の所有地「慰霊の園」として整備されています。

続いて、議論の焦点となっている箇所や論点を整理します。

1. 垂直尾翼の損壊原因

事故調の結論
修理ミスにより後部圧力隔壁が破壊され、そこからの与圧空気が機体最後部と垂直尾翼を吹き飛ばしたというものです。

外部からの着力説
外部からの力で垂直尾翼が破壊されたとする説で、隕石、氷塊、ミサイル、標的機などが原因として挙げられます。特にミサイル説では、自衛隊が当時開発していた短距離空対空ミサイルや、弾頭に炸薬ではなく小型水爆や中性子爆弾を装備していた可能性も議論されています。また、標的機が誤って衝突した、あるいは意図的に当たったとする説もあります。この他、米軍やCIA、ソ連による行為という説も提起されています。

事故調が出した「解説」には垂直尾翼の「異常外力着力点」が記され、「後方から11トンの力が加わった」との記述があります。これにより外部着力説が注目されました。

機体の金属疲労主因説
JA8119機は747-100SRの中でも古い機体で、機体断面が洋梨型をしており、構造的に歪みが生じやすかったと指摘されています。結果的に機体全体で金属疲労が進行し、垂直尾翼が外側へ剥がれ落ちたことで破壊につながったとする説です。

2. CVRとDFDR

ネット上にはCVRの断片がリークされていますが、全時間や全マイクをカバーしておらず、一部のデータが意図的に削除されたのではないかとの疑念があります。さらに、報告書に添付されたDFDRにはエラーマークが多く、詳細な解析が困難であったとも言われています。

また、123便と管制とのやり取りには時報の音声が含まれており、改竄の可能性は低いとされますが、日本航空の羽田事務所との交信記録(カンパニーラジオ)は未公開のままです。

CVRでは爆発音の回数や間隔が議論の対象となり、それが垂直尾翼損壊時の音か、損壊後の音かについて諸説あります。また、CVRの一部記録には不自然な空白時間があり、事故調はこれを急減圧による乗員の低酸素症と解釈しましたが、それでは墜落直前の会話内容と矛盾するとの指摘もあります。

DFDRでは爆発音付近の機首仰角や加速度の変化が議論を呼びました。CVRの4チャンネルすべての音声データとDFDRの全センサ記録が未公開であるため、事故から39年経った今も議論が絶えない状況です。

3. 墜落に至るまで

相模湾上空(あるいはもう少しずれた地点という説もあります)で何かが起き、その音を地上で聞いたという証言があります。その音の大きさから、「ミサイルが命中した音ではないか」「音速機が飛行して発生したソニックブームが垂直尾翼に影響を与えたのではないか」と主張する方もいます。

その後、機長は「羽田に戻りたい」と述べ、ライトターンを試みました。この時、海上にレフトターンして不時着すれば被害が少なかったのではないかという指摘もあります。しかし、機体は北へ向かい続けました。この理由については、垂直尾翼の方向舵が失われたため、エンジンの出力差によって機体が制御されたのではないかという説があります。

また、事故調が示した航跡図に疑問を抱く人々もいます。「経路下の目撃情報と一致しない」との指摘があり、上野村での目撃情報と齟齬があるとの意見もあります。
墜落直前、123便は尾根を越えて「一本カラ松」に接触し、第4エンジンを落下させました。次に別の尾根を翼端で削り「U字溝」を作り、最終的には裏返しで激突したと事故調は推定しました。しかし、「カラ松に当たってエンジンが砕けるのは不自然で、ミサイルや射撃弾が原因ではないか」とする説を唱える方もいます。

4. 捜索活動

123便がレーダーから消えると、東京ACCは羽田の救難本部(RCC)をはじめ各方面に連絡を取りました。航空自衛隊もレーダーサイトで非常事態発生を追跡し、消失後に上申を行い、ソ連からの領空侵犯に備えてスクランブル待機中だったファントム機を消失地点へ向かわせました。

しかし、前述の通り、捜索は長野県側(御座山や小倉山)を中心に進められました。現場は新月の夜で暗く、目印になるものが乏しかったため、上空からの特定が困難でした。GPSが存在しなかった時代、航空標識TACANを頼りに現場特定が試みられましたが、誤差が大きく、特定に時間がかかりました。

米軍のC-130輸送機やファントム機、航空自衛隊の救難ヘリが現場上空に到達し、距離と方位を測定しましたが、地上車両の誘導は失敗に終わりました。後に、米軍のC-130輸送機の搭乗員を名乗る人物が、「現場にヘリで兵士を降ろそうとしたが、日本側の要請で撤収させられた」と証言し、アメリカのマスコミがこれを報じて騒然となりました。

生存者の証言では、「ヘリが上空を飛んでいたが、そのまま飛び去った。その時点ではまだ生きている人がいた」とされています。この証言から「場所の特定が遅れ、多くの生存者が助かる可能性があった」との批判が生じました。

遅れの背景と議論

場所の特定が遅れた理由について、「仕方がなかった」とする立場と、「意図的に遅らせた」とする立場があります。意図的に遅らせたと主張する人々は、ミサイルや標的機、炸薬の痕跡を消すため、また何らかの情報を知っていた乗客を火炎放射器で焼き消した可能性を指摘しています。

これを裏付ける証拠として、以下のような主張が挙げられています。

これらの点が議論を呼び、現在も真相解明を求める声が続いています。

5. 事故調査委員会、運輸省、政府について

事故調査委員会の委員長は、123便事故の調査途上で交代しています。体調不良が理由とされましたが、この交代が憶測を呼びました。事故調査委員会は運輸省の下にある組織であるため、「運輸省や政府の意向に逆らえず、独立性や公平性が担保されていないのではないか」との指摘があります。現在も国土交通省の下にあるため、「123便事故の真相が表に出せないのではないか」との疑念が根強く残っています。

1985年(昭和60年)は、日米間で貿易摩擦が激化し、自動車、半導体、為替レートなどが重要な議題となっていました。事故直後と言ってもいい時期に「プラザ合意」が結ばれ、円高ドル安が進むことになります。このような日米摩擦が事故の背景にあるのではないか、とする意見もあります。一部では、「中曽根内閣がアメリカや巨大資本に従わなかったため、圧力として123便事故が突きつけられた」との陰謀論も存在します。

また、当時日本では独自のOSであるTRONが開発中であり、これを妨害するために、開発者が乗っていた123便が狙われたとの説もあります。さらに、ボーイングが軍用機を生産していたことから、アメリカの軍産複合体による圧力が関与しているのではないか、という議論もなされています。

いずれにせよ、中曽根内閣や政府の対応が迅速とは言えなかったこと、先述の米軍の撤退理由などが、さらなる憶測を呼ぶ要因となっています。

ここまで多くの論点を挙げてきましたが、事故発生から39年が経った現在も、全てを説明できるストーリーは存在しないのではないかと、個人的には考えています。

重ねてになりますが、この事故でお亡くなりになった方々、ご遺族には心よりお悔やみを申し上げ、生存者の方々には心よりお見舞いを申し上げます。お読みいただき、ありがとうございました。

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