【ルポ】『士農工商』は 表現狩り業界の 流行語大賞?

カテゴリー: メディア | タグ: , , | 投稿日: | 投稿者:
By Jun mishina

「院政」「下剋上」「天王山」…。日本史の出来事に由来する慣用句、比喩表現はいくつかある。江戸時代の「武士、農民、職人、商人」の身分を表す「士農工商」もその一つ。ある世代まで「士農工商」は当たり前のように習った。近年の研究により「士農工商」は検定教科書から「削除」という傾向が強い。かつては子供も諳んじた用語だが、引用をめぐって部落解放同盟の糾弾材料にされてきた。ポピュラーな用語だが血塗られた歴史を持つ。そして「士農工商」をめぐり解放同盟は現在も抗議行動を継続中だ。「今なお根強い部落差別」と言いつつ、たかが「士農工商」に血道を上げる。その抗議から何が見えるか――。

筒井康隆、阿久悠、電通も餌食になった

士農工商をめぐっては筒井康隆、阿久悠ら巨匠や電通も解放同盟から抗議を受けたこともある。言うなれば地雷原。ではなぜ「士農工商」が問題視されるのか。お察しの通り、それは後に続く用語にある。『広辞苑』(岩波書店)第四判の項目を引く。

「士と農と工と商。江戸時代の封建社会の階級観念に従って、上位から順に並べたもの。なおこの下に、えた・非人があった」

現在の学説ではほぼ否定されている被差別部落の近世身分説に準拠している。士農工商制度の下にえた・非人という被差別階級が置かれた。こう習った人が圧倒的に多いであろう。このためヒエラルキーを例えるに「士農工商」を持ち出すことはすなわちえた・非人を想起させるというわけだ。

しかし部落解放同盟がえた非人の系譜を引くわけでもないし代弁者でもない。特に「親戚が同和地区に在住しているから自分も解放運動に身を投じた」こういう活動家も少なからず存在する。そんな実態もある中で彼らが「士農工商」に神経質になる論理も必然性もない。それ以前に誰が傷ついたというのか。

糾弾された人物・団体の中にはただ「士農工商」のみの使用。あるいは「士農工商えた非人」と“フルスペック ”表記のパターンもある。最近では『月刊サイゾー』(2016年8月)に掲載されたAV監督・安達かおる氏の記事広告が印象的。

僕は職業カーストの、昔で言えば「士農工商えた非人」の最底辺なんですよ

この記述が問題視された。士農工商糾弾史の中でもここまでダイレクトな表現も珍しい。同誌は過去、組坂繁之中央本部執行委員長のインタビューを掲載するなど明らかに解放同盟寄りの記事を多数、掲載してきた。しかしそんな経緯とは無関係で抗議の対象になるものだ。そして本題に移ろう。

動画のコメント内容に抗議された市議

少し前の話。関西地方で取材中、地元記者との雑談の中で

「神奈川県の市議が解放同盟から抗議を受けているらしい。そこに高取町の新澤良文町議が間に入った」

こんな話を聞いた。

神奈川の市議とは一体どこか気になる。さらに興味深いのは高取町(奈良県高市郡)新澤町議が浮上したこと。同氏と言えば安倍前首相が追及されている「桜を見る会」の出席で話題になった人物。写真週刊誌『フライデー』(19年11月22日号)の取材に応じ山健組系臥龍会の所属、また逮捕歴などを吐露した。このため「桜を見る会」批判に新澤町議の出席を持ち出す人も多い。

同氏に相談したのは自由同和会奈良県本部の役員という理由だろう。しかし神奈川の市議というのが分からない。と思った矢先、著者自身もリツイートしたツイッターの投稿を思い出した。

もしや綾瀬市の笠間のぼる市議のことでは? 確認するとやはりこの一件であった。奇遇にも両議員の関係について微かな記憶があった。目下のところ国内のウイグル事情について密かに取材をしている。「ウイグルを応援する全国地方議員の会」に笠間市議、新澤町議も参加したのはFacebookなどで確認していた。

「恫喝も無く、強要も無かった」とは決して笠間市議の先入観でもない。これが「同和」に対する率直な認識と関係者は理解してほしい。とにかく“ 和やかムード”だったことが強調されている。

解放同盟に抗議を受けた関係者の中には「いい話し合いができた」「気づかされた」こういう表現をする場合がある。いや正確に言えば人権団体だけでなく環境団体なども同様かもしれない。この関連の抗議は熾烈であり「反論」の余地がない。一つ印象的な事案を紹介しよう。1999年、環境展での話。松下電器(現パナソニック)のブースに突如、環境団体「グリーンピース」の活動家が押し寄せて展示製品などに「NonEco」などと書かれたビラを無数に貼り付けた。

なぜならグリーンピースが推奨するノンフロン冷蔵庫の技術を松下電器が採用しなかったからだ。その後、同社関係者に当時のことを尋ねてみるとやはり「勉強不足だった」と苦笑い気味に振り返っていた。

いい話し合いに、いい勉強…。果たしてこうした態度は本音だろうか。「人権」「環境」「反戦」こういった分野の抗議は、不条理で理不尽なことが少なくない。しかしおおかたの団体・人物は屈服せざるを得ない。特に著名人、有名企業になればなるほど、である。部落問題はその頂点に位置する。この思考パターンをどう伝えたらいいか難しい。強いて言えば「折れた自身」に対する一種のヒーリングと捉えるべきだろう。

だから和やかムードをアピールする笠間市議もそんな心境ではなかったかと邪推した。そこで同市議に確認してみると確かに新澤町議に相談していたと話す。地方議員の会合などで知り合った仲だという。

「糾弾だとかそういうことではありません。本当に穏やかにお話をしました。私がYoutubeで時事問題を話しています。今年の夏頃だったと記憶していますが、同和問題をやってみようと思いました。そこで視聴者の一人がコメント欄に部落問題について自論を投稿されたのです。正確な内容はもう削除しましたので覚えていません。“ 部落の起源は士農工商に始まる…”というような趣旨でした。これを見た解放同盟役員の方が誤解を正そうと、説明したいということで市議会会議室に来てもらいました」

確かに投稿通りいわゆる「糾弾集会」のような熾烈なものではなかった様子。抗議主は解放同盟神奈川県連という。このような抗議するとすればおそらく同県連・根本信一委員長ではないかと確認すると

「本人(根本氏)からの許可もありますので、その方で正解です」

と教えてくれた。通常、このような場合は「隠す」ものだが、堂々と取材に応じてくれた笠間市議は見上げたものだった。と言ってもYoutube内の視聴者の行為なのにとばっちりを食った格好だ。それも直接的な差別発言というよりもステレオタイプな部落観の開陳といったものである。

ならば根本氏は神奈川県連委員長と名乗りコメント欄で訂正しても良かったのではないか。それも啓発というものだ。立場を問わず独特の部落史観はブログ、SNSで散乱している。それをいちいち訂正していくのだろうか。ネット上には突拍子もないトンデモ論を呟くユーザーもいるが…。おそらく根本氏が動いたのも相手が「市議」で氏素性が判明しているからだろう。

ネット上というのも注意が必要だ。過去を鑑みれば抗議を誘発するための第三者による「自演」という可能性も捨てきれない…。それにしても細かいところまで目配りするものだ。笠間市議には失礼だが、それほど視聴再生数や登録者数が多い動画でもない。それをチェックしていたこと自体に驚いた。

曹洞宗で講演する根本委員長。かながわ人権政策推進懇話会にも参加する。

一方、新澤町議は「相談を受けたのは事実です。自分も(解放同盟が)おかしいと思ったからもしの時は同席しますよ、とお話しただけです。私の地元も部落がありますが、若い世代はもう解放運動を嫌がっています。だから隣保館という名前を普通の公民館名にしたり取り組んでいます」ということだった。

笠間市議の話からすれば問題視されたコメントはおそらく「差別的表現」というよりも認識不足といった性質のものだろう。しかも本人の投稿ではなく一視聴者のコメントまでも「啓発」の対象か? 意図を聞こうと県連側には再三、連絡を取ってみた。「欠席裁判」ではなく接触の努力をしたことは理解してもらいたい。

結局、問題視されたコメント文面を確認できなかったのは残念である。しかしここでも「士農工商」を含めた表現のようだ。

『紙の爆弾』も「士農工商」が標的に

斜陽化した出版業界にあって気骨があると評価される『紙の爆弾』(鹿砦社)。同誌の論調は左派・リベラル。だが保守層からも少なからず支持者が多いのは反差別活動家による大学院生リンチ事件を長らく追及してきたことだろう。現状の左派は身内(同じ政治的立ち位置)には甘いものだが、この問題については全く独自の編集方針を貫いてきた。

鹿砦社・松岡利康社長が8月21日、Facebook上で解放同盟から抗議をされていたことを投稿した。しかも申し入れ書まで掲載。この辺りは松岡氏も歴戦の兵だ。普通の出版社であればまずこのような公開はしない。

部落解放同盟中央本部より、『紙の爆弾』9月号の記事が「部落差別を助長する」との指摘を受けました。原則的に「あらゆる差別に反対する」立場から真摯に対応します。 鹿砦社代表・松岡利康 

8月7日付けの、このFBで「今月号のイチ押し」として挙げた、『紙の爆弾』9月号の昼間たかし寄稿の「政治屋に売り飛ばされた『表現の自由』の末路」に対し、部落解放同盟中央本部から8月18日付けで「部落差別を助長する」との指摘を受けました。この問題は、どこかの大新聞の記者のように逃げたり、蔭でこそこそ動きプラグマティックに対処するのではなく、あえて公開し、皆様方の意見をいただき、真正面から取り組みたいと思います。私たちは常々申し上げているように、原則的に「あらゆる差別に反対する」立場から真摯に対応いたします。

すぐに解放同盟に電話し、9月15日午後1時に私、中川、昼間の3人で伺い面談することになりました。

同日FBの一部を引用

同号ライター昼間たかし氏の『政治屋に売り飛ばされた『表現の自由』の末路』の記事中「『もうこのジャンルは書き終えたからやらない』と格好よく言いたいところだが、士農工商ルポライター稼業。襤褸をまといあばらや暮らしもおぼつかない。だから、請われれば書いて、いま追いかけているテーマの取材費の足しにする」が問題視された。

繰り返すが世の中、「士農工商ルポライター稼業」と書かれて本気で「傷を負った」と考える人がいるとすれば…それは「思い込みが異常に強い」か「何らかの政治意図」のいずれかだ。

昼間氏は厳しい執筆業を嘆き「苦境」の意味で士農工商ルポライターと自虐的に使った。特に被差別部落を揶揄したわけでもない。

ならば対人関係を比喩する上で、しばし用いられる「スクールカースト」はどうなのか。これもインドの不可触民を想起させる。面白いことに普段は「人権問題」に鋭敏な朝日新聞や社会学者たちが好んで使用している。

大手メディアの報道で「スクールカースト」が使用されるのは単純に「声の大きな人」が抗議しないからだろう。まさかインドから被差別階級民がやってきて街宣車に乗り込み、ゼッケンをつけてトラメガ片手に新聞社や自治体を包囲する――ありえない話だ。しかし万一、かの地からの抗議があればまるでなかったようにメディア、学者たちが血眼になって「カースト表現狩り」に走ることだろう。平気で手のひら返しをするのは目に浮かぶ。

ではあの鹿砦社がどう応じるのか興味はある。そこで松岡氏本人に取材を申し込んでみたが返事はなし。その後の対応として複数の書き手による検証文が掲載されることになった。『情況』元編集長の横山茂彦氏がこう記述した。「部落差別とは何なのか 部落の起源および近代における差別構造〈後編〉」(2020年11月17日)でこう記述した。前編はこちら。

◆結婚差別および「部落の解消」

最後は問題提起である。21世紀まで残された差別の典型として、結婚差別があるとされている。被差別地域を出てもなお、部落出身者であることを暴露される。意識的に差別を助長している人々が存在する※のも事実である。※鳥取ループなど。

この通り突如として弊社代表の名前が挙がった。さらに本誌1月号では

ところで、このかん、『全国部落調査』復刻版の出版を目論み解放同盟から提訴されてる「鳥取ループ/示現舎」関係者から松岡・昼間にアプローチがありました。われわれの立場としては、明らかな差別、排外主義を鼓舞するものと関係するつもりはありません。解放同盟との係争中とのこと、これにも巻き込まれたくありません。こうしたことはあらかじめお断りしておきます。

暴力を批判した出版社が「立場が違うから関係しない」というのはおかしい。もし彼らが弊社を問題視するならば取材依頼時にその旨を伝えるべきではないか。それで当方が反論できない状況で“ 言いっぱなし”がジャーナリズムの態度とは思えない。ただ

「解放同盟との係争中とのこと、これにも巻き込まれたくありません」

この辺りのくだりに本音が垣間見えて可愛らしい。

横山氏の記事では従来からの専門書、機関誌等に準拠したもので特に目新しいものではない。関係書物の内容を凝縮した、といった体。また士農工商の歴史的な経緯を説明しているが、「士農工商ルポライター稼業」が差別か否かは触れていない。本題を回避した印象すらある。

外部(弊社)に矛先を向け教科書通りの論説でかつ人権問題には「配慮」を見せる文面だ。しかしそれでも異論はありえるもの。11月12日、前編を紹介した松岡社長のFBの投稿にて横山氏にこんな意見が。

今度は「非人は特権層でもあった」との記述で解放同盟シンパと思しき人物から横山氏が問い詰められた。別段、新説でもないが怒りを買ったようだ。

これも興味深い現象、というよりも「あるある」だ。つまりこの分野、どんな形であれ足元を取られるもの。

部落研究の大家、塩見鮮一郎氏ですら抗議や指摘を受けることもあった。横山氏は情況出身だから左翼事情に詳しいとしても部落の専門家ではない。しかし専門性を問わず「部落論」で槍玉に挙げられるのは適正か否かではなく、政治的に正しいか否かである。もし同じ文章を解放同盟員や周辺学者が執筆した場合、まず異論はなかったであろう。

「参考までに、「◆非人は特権層でもあった」、を被差別部落運動関係者に読んでいただきました。激怒されていました」とある。これが事実とすれば問題の記事のフォロー原稿がさらに怒りを買ったという妙な格好だ。

本来ならば「士農工商が差別と考えない」で済む話なのだが…。

書面にあった解放同盟中央本部の大西総務部長に話を向けると

「鹿砦社からも断られたでしょ。係争中だし話はできません」というのは予想通りの反応だ。

また当の松岡社長に突然のあの対応はなかったのではないか? と聞いた。

「ちょっとデリケートな時期なんでおたくの取材は勘弁してほしいな。もうちょっと解同(カイドウとの略称に驚いた)との話し合いが進展したら構わないけど。何回か(他の書き手に)書いてもらってから昼間さんにお願いする予定です。横山さんにはネット上の連載で書いてもらって本誌でもお願いしたんだけど」

また同誌・中川志大編集長は

「いろいろな意見を加えて検証する方針です。うちとしては表現を取り下げるということではありません。いったんうちとしては研究活動を続けていきます、という姿勢を示したものです。これから第4回、5回と続いていきます」

あらゆる社会問題に切り込む『紙の爆弾』だからより明確なメッセージが欲しいところ。しかし「取り下げない」という方針は一般の出版社としては気骨を見せたとの評価もできよう。

ソーシャルディスタンスで指摘を受けたIMADR

この通り、「士農工商」をめぐる言論状況についてレポートしてきた。ここ数年、とにかく「表現規制」は厳格になっており、発言一つで失職する可能性がある。表現ハンターたちの特徴として攻撃対象の「生活の途」を奪うことをもって「勝利」「決着」と考えるフシがある。しかも奇妙なことに普段、ネットの炎上や抗議については「暴走」と断じるマスメディアが表現ハンターの追い込みは静観、便乗している。

あるいは笠間市議もし自身の発言だったら…同氏も「二人で大笑い」などとツイッターに投稿している場合ではなかったはず。

コメント欄まで自身の問題として降りかかるならば――。今後、政治家、著名人など動画、ブログやSNSなどにおけるフォロワー、視聴者のコメントまでリスク管理が必要だ。

逆に人権を訴える側が抗議、言葉狩りに合わないとも限らない。部落解放同盟の国連ロビー活動を担うIMADR(反差別国際運動)が発行する「IMADRインフォメーション」(2020年12月11日 No.506)にはこんな記述があった。

こんにちは。いよいよ師走となりました!今年はウイルスと闘うためのソーシャルディスタンスや外出自粛などの影響で、人と会ったり集まったりする機会が減りました。ですが、代わりにオンラインでのイベントが盛んになり、今までは距離が壁となっていた外国の人とも交流する機会が増えました。辛いことも多かったですが、学んだこと、良かったことも見つけて前向きな気持ちで一年を終えたいですね。皆様の心身の健康を祈りつつ、今日もIMADRからのお知らせをお伝えします。

どうもソーシャルディスタンスが地雷だったようだ。15日の配信でこんな釈明文が配信された。

IMADRインフォーメーションの読者の皆さま

いつもIMADRをご支援くださりありがとうございます。12月11日にお送りしたインフォーメーションNo.506においてIMADRとして使うべきではない誤った言葉を使ってしまい、一人の読者の方からご指摘をいただきました。メールの冒頭の事務局からのメッセージにある「ソーシャルディスタンス」という言葉は、社会的距離をとるとして日本語でも使われていますが、英語であれ日本語であれ、この言葉には過去において、また現在においても、特定の集団を社会から切り離すということを示唆する意味が含まれます。

対象とされる集団は社会によってまた時代によって異なりますが、とりわけ、IMADRの活動の中心課題である日本の被差別部落、そしてインドやネパールのダリットコミュニティは、「浄・不浄」の観念のもと触れるべき人びとではないとして、社会において距離をとる対象として隔離、差別されてきました。近代になって人権意識が高まり、法律や政策による対応も行われてきましたが、実際にはこの言葉につながる差別や排除の慣行や行為は今も続いています。感染が世界的に広がり始めた3月頃から「ソーシャルディスタンシング」という言葉は、公衆衛生の観点より国際機関や各国政府によって使われ始めました。もちろん、これは感染拡大を防ぐために使われたものであり、特定の集団や個人の排除を助長するためでないことはすべての人が認めるところです。

この言葉が使われ始めた頃より、IMADRの友好団体であるインドのダリット人権NGOは異議を唱え、代わりに「セーフディスタンシング(安全な距離をとる)」という言葉を使ってきました。部落解放同盟も早くからこの点を問題として指摘してきました。インドのNGOや部落解放同盟とともにこの問題について議論をして確認してきたにもかかわらず、IMADRとしてこの言葉を軽率に使ってしまいました。このことを明らかにして訂正するとともに、差別の助長につながる言葉を使ったことについて事務局として反省をいたします。皆さまのご理解をいただけますようお願いいたします。パンデミックがとりわけ社会的に弱い立場に置かれてきた人びとに大きな影響をもたらしています。このような時だからこそ、さらに気をひきしめて、反差別の活動を続けていきます。厳しい冬になりそうですが、皆さまの安全と健康を願います。

反差別国際運動事務局事務局長代行 小森恵

世界中で感染対策を実施する中でソーシャルディスタンスは一種の共通語。差別的な意図で用いているわけではない。曲がりなりにも国際的な人権団体を標榜するIMADRとしては仮に認識不足だとしても、差別目的がないのは明白。ソーシャルディスタンスが「差別」と朝日新聞や毎日新聞に抗議すればそれこそ「使用禁止」キャンペーンを大々的に開始するだろう。しかし混乱を招くだけだ。

指摘したのはあのIMADRのニュースレターを購読するような読者。日常的に各種メディアの「穴」を探し求めているに違いない。本来はシンパであるはずの表現ハンターの銃口がIMADRに向けられたという皮肉な事例だ。

IMADRは訂正で済むかもしれないが、IMADRや解放同盟に抗議をされた場合、「ご指摘をいただきました」では収束しない。この力関係の差も結局は天下御免の「部落差別」を掲げているから。この一点に尽きる。だから「士農工商が差別」という抗議が成立しえるのだ。動画のコメント欄にまで監視の目を向けさせたパワーワード「士農工商」には表現狩り業界の「流行語大賞」を贈るとしよう。

そして解放同盟に限らず左派の間で強くなる「表現規制」の嵐。普段は左派メディアや左派文化人らが「閉塞する社会」「不寛容社会」などとネットや社会に転嫁しがちだ。その実、閉塞や不寛容を増幅させているのはご自身たちだと自覚してもらいたい。

Jun mishina について

フリーライター。法政大学法学部法律学科卒。 月刊誌、週刊誌などで外国人参政権、人権擁護法案、公務員問題などをテーマに執筆。「平和・人権・環境」に潜む利権構造、暴力性、偽善性を取材する。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

【ルポ】『士農工商』は 表現狩り業界の 流行語大賞?」への3件のフィードバック

  1. .

    非人に特権があったという見解は本当に間違っているのでしょうか?

    「非人の特権的職域の中核は物乞い=勧進である」(富田三樹生『精神病院の底流』33ページ)
    「奈良坂など死穢の取り扱いを職掌とする非人の特権的地位」(黒田俊雄『歴史学の再生: 中世史を組み直す』118ページ)
    「谷非人の特権である福引興行」(『近世中国被差別部落史研究』128ページ)
    「非人鑑札は、面桶・懸袋・塵木札の三種の道具であった。これらは、非人頭惣元から授与されるもので、これを常時、携帯することにより、非人の特権が確認される身分証明となった」(荒井貢次郎『近世賤民社会の基礎構造』95ページ)
    「非人の特権を利用しての蓄財が見られ、一九世紀には非人から百姓への脱賤者も出てくる。また、非人たちの華美を非難して「両山之非人共、身分不相応成風俗ニテ、男女子供二至迄衣類華美之類致着」、「居小屋草葺は勿論之事ニ候、瓦庇等付候事不相成之処」」(『日本民衆の歴史―地域編 (1)』65ページ)

    佐野宇なる御仁がどこの馬の骨なのか知りませんが、単に正義感が明後日の方をむいているだけなのか、無意味な揚げ足取りをして遊んでいる愉快犯なのか、ポリコレを使ったマウンティングのゲームを仕掛けているだけなのか、理解に苦しむところです。同和問題を無駄にややこしいものにしている一因がこの種の変人であることは間違いないでしょう。

    返信
    1. 三品純 投稿作成者

      ありがとうございます。
      ご指摘通りだと思いますよ。
      単純に「悲劇の部落民」ということが言いたいだけでは
      ないでしょうか。
      横山氏も文献を明示したらいいのに。

      返信