曲輪クエスト(346)長野県 佐久市 甲・矢嶋

カテゴリー: 曲輪クエスト, 未分類 | タグ: , | 投稿日: | 投稿者:
By 宮部 龍彦

現在は佐久市の一部となっている旧浅科村、さらに昔は五郎兵衛新田村があった。その名の通り、新田開発が行われた場所である。市川五郎兵衛による新田開発が始まったのは1626年のこと。

それから80年も経過した1707年に高野町から太兵衛という穢多が引っ越してきた。その役目は、五郎兵衛新田の警備のためである。また、隣の旧矢嶋村にも穢多が住んでいた。婚姻などで、高野町以外からも穢多が移り住んできていたようであるが、戸数は多くなく、ほぼ点在している。

菊池山哉はこう記している。

○台地の突端の裾に居る。県道も裾を迂廻して居る。

○白山神、人家と人家の間にある。一度街道筋へ奉遷したが、村中崇りが絶えず、占者の言に旧地がよしと出たので、また元の地に鎮座せしめたと云、乃ち私祭と思はるる位置にある。

○五郎兵衛なる入は戦国末の人である。この地へ土着したのが、江戸幕府当初と伝へて居るから、この曲輪は其時より上へは遡らない。

村の鎮守諏訪神社も、曲輪も一つ台地に並び、創立年次を一つにせるものと伝へらるるから、曲輪の村方で重要視された一面を語る様である。戸数は九戸ばかり。

高台に五郎兵衛記念館がある。この建物は浅科人権文化センターでもある。五郎兵衛新田関係の文献を読むと、新田開発と同時に賤民についても触れられているものが多い。

例えば、『浅科村史』にも、特別に五郎兵衛新田の部落について書かれた部分がある。江戸時代初期から明治にかけて、部落の人口は増減を繰り返すがさほど増えず、ずっと少数の部落だったことが分かる。

『差別とのたたかい 部落解放運動20年の歩み』には北佐久郡浅科村上原、俗称「池下」21戸との記録がある。

記念館近くにあるのが五郎兵衛の墓で、子孫は今でも地元の名士なのだとか。

五郎兵衛自身を祀る真親神社と、諏訪神社が一体となっている。これが菊池山哉が記した村の鎮守であろう。

白山神社が合祀されているのは確認できない。

さて、冒頭で書いた穢多の太兵衛であるが、現在の佐久穂町高野町では寺の「庭掃」であったという。その父親は「牢守」であった。高野町に牢屋があった記録と関連している。

五郎兵衛新田の人口が増えると、治安上の問題も多くなり、言わば治安維持要員として招かれたと想像できる。

これは天台宗妙香院。五郎兵衛の菩提寺であるが、太兵衛は妙香院の庭掃もしていたという。

ここには消防団の詰所があるが。

バス停は「上原隣保館前」となっている。『水と村の証言 : 五郎兵衛新田物語』によれば、1961年に部落外のここに隣保館が作られたのであるが、現在は消防団の詰所になっているということのようである。同和対策目的のものであったが、時期からすると国の同和予算が投入されたものではなかったであろう。

現地の案内図。「大池」とある。この池の近くにあるから、池下と言われたのであろう。

そして、これが大池だ。農業用のため池である。

この池の周辺の名字を分析してみた。「高野」が集中している場所がある。地図にある住宅が2戸一組になっていることも分かる。ここが池下であろう。この「高野」という名字は太兵衛の故郷の高野町に由来することは間違いない。現代でも、こうやって江戸時代初期からの歴史を実感することができる。

この観音堂の先が池下だ。

このオレンジ屋根の特徴的な建物が、浅科人権文化センター、現在でも残る隣保館である。

その先に、ニコイチ住宅がたくさん建っている。20戸くらいはあっただろうか。

ただ、かなり古くなってきており、大部分が空き家になっているように見えた。

そして、この近くにもう1つ気になる場所がある。五郎兵衛新田の隣の旧矢嶋村の部落である。

『差別とのたたかい 部落解放運動20年の歩み』には北佐久郡浅科村矢島、俗称今井坂に7戸の部落があったとされる。ここは曹洞宗宝泉寺の庭掃で、五郎兵衛新田の穢多とは違った起源を持つという。

聞いてみると、確かに同和教育が盛んだった頃には、高野に加えて「今井」も部落に該当すると教わったのだという。とすると、今井姓が多いこの辺りの、この坂こそ「今井坂」であろう。

ここには、旧浅科村の看板が立った集会所がある。

そして、この近くで、最近ここを訪れた別の探訪者が発見したという重要な場所に行ってみた。

この墓地、新しい墓石は高野姓だが。

古い墓石には「賤」、「革」、「畜」の異体字が確認できる。

名字から分かる通り、ここは五郎兵衛新田の部落の墓地である。戒名からするとおそらく天台宗。「熱と光 死後まで人間を踏みにじられたひとびとここに眠る ふたたび過ちをくり返してはならない人間の尊厳にかけて」と刻まれた石碑がある。

石碑が作られたのは1993年である。これが本当に「差別戒名」と言えるのかどうかは学術的に検証されるべきであろう。

五郎兵衛新田の穢多の人々は、貧困者というわけではなく、警察の役割を担っていて、そしてこれもまた現代の警察と同様に、無宿人の保護や斃牛馬の処理など、厄介事を処理する役目を担っていたであろうことは間違いない。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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曲輪クエスト(346)長野県 佐久市 甲・矢嶋」への12件のフィードバック

  1. 匿名

     >穢多の太兵衛であるが、現在の佐久穂町高野町では寺の「庭掃」であったという。

    庭掃の仕事も実際に行っていたと思いますが、庭掃呼称が出てくるのは、宗門人別改帳上だけだったかな。寺から見たら、そう言わざるを得ないんでしょうね。

    #d838f5830e177d0606c03864d094eb75

    返信
  2. 佐久市甲 上原

    動画で「うえはら」と言われてましたが、正しくは「かみはら」です!
    #d838f5830e177d0606c03864d094eb75

    返信
  3. 匿名

    熱と光の石碑がある墓地の住所が知りたいです。
    Googleマップに載っていますかね。
    #4941d4f3c32d56198e7d91888d1fb58f

    返信
    1. 宮部 龍彦 投稿作成者

      史跡保護のため控えておきます。
      現地でクエストしてみて下さい。
      #2dda0b8a6aea5bf26e051983ef20a161

      返信
      1. 匿名

        同和関連の史跡を地図上で探索できる「人権のふるさとマップ」を作ったら話題になると思うのですが。

        #66a0f6215c477765e5ad3a7613de6c36

        返信
  4. 匿名

    >ここには、旧浅科村の看板が立った集会所がある。
     「鶴沼コミュニティセンター」同和対策集会所
      1974年設置 施設所管 : 佐久市人権同和課

    #d838f5830e177d0606c03864d094eb75

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