長谷川豊の「差別発言」の元ネタを探してみる

アバター By 鳥取ループ

ご承知の通り、日本維新の会の公認候補(現在は公認停止中)である長谷川豊氏が、講演での部落問題についての発言を巡って猛批判をされている。しかし、長谷川氏の発言のどこが差別なのか、よく分からない人が多いというのが実情ではないだろうか。

何よりも、長谷川氏の「差別発言」には元ネタがある。部落問題についての認識というものは、少し前までは研究者でさえ長谷川氏と同レベルで、それが史実として教えられていたもまた事実なのである。今回はその点を検証してみようと思う。

さて、問題とされた長谷川氏の発言は次のとおりである。

日本には江戸時代にあまり良くない歴史がありました。士農工商の下にエタ・ヒニン、人間以下の存在がいると。でも人間以下と設定された人たちも性欲などがあります。当然、乱暴などもはたらきます。一族、夜盗郎党となって十何人で取り囲んで暴行しようとした時に、侍は大切な妻と子供を守るだけのためにどうしたのか。

侍はもう刀を抜くしかなかった。でも刀を抜いた時に。どうせ死ぬんです。相手はプロなんだから、犯罪の。もうブン回すしかないんですよ。ブンブンブンブン刀ブン回して時間稼ぎするしかないんです。どうせ死ぬんだから。

さて、少し部落問題について知っている人は、「士農工商の下にエタ・ヒニン」という点が間違いであると考えるだろう。現在では、農工商に上下関係はなく、穢多・非人は「身分外身分」とされ、下にあるのではなく別個の階層構造であったという説が定説になっている。この点は古谷経衡氏が言及しており、古い説が教えられてきたために長谷川氏に限らず同じ認識を未だに持っている人が多いことにも触れている。

しかし、この 「士農工商の下にエタ・ヒニン」 という説は、非常に根深いものである。古谷氏は「本格的な意味での被差別部落問題の解消は、第二次大戦後、池田勇人内閣における「同和対策審議会」(1960年)の設置を待たなければならず 、被差別部落地区の劣悪なインフラ改善や人権救済は、続く佐藤栄作内閣における「同和対策事業法」(1969年)の立法からようやくスタートするのであった 」と述べているが、実はそのような政府による差別解消政策が 「士農工商の下にエタ・ヒニン」 という認識を前提に行われたものである。同和対策審議会答申(1965年)にはこうある。

封建社会の身分制度のもとにおいては,同和地区住民は最下級の賎しい身分として規定され,職業,住居,婚姻,交際,服装等にいたるまで社会生活のあらゆる面できびしい差別扱いをうけ,人間外のものとして,人格をふみにじられていたのである。

ここで「同和地区住民」という用語を使うことがそもそも間違いだが、ともかく当時の政府機関の認識は、穢多・非人は下に置かれた身分であって、それは政治が生み出したものであるから、政府に解決の責任があるというものである。

このような認識は歴史学的には間違いとされるようになったが、現在でも同和対策審議会答申は地方自治体が事実上の同和対策事業を現在も続ける根拠とされており、 「同和対策審議会答申は誤っている」と非難されたという話は聞かない。

当然、学校でも少なくとも前世紀までは 「士農工商の下にエタ・ヒニン」という説が教えられ続けていた。

さて、「一族、夜盗郎党となって十何人で取り囲んで暴行」「相手はプロなんだから、犯罪の」という部分はどうだろう。

毎日新聞の記事で江戸時代の部落史に詳しい寺木伸明・桃山学院大名誉教授の話として次のコメントが紹介されている。

長谷川氏の話を裏付ける資料は全く見たことがない。犯罪は身分とは関係なく起こっていた。江戸時代に被差別の身分の人々が携わった主な役目の一つは、警察的な仕事だった。

裏付けると言うほどの資料と言えるかどうかはともかく、実は「エタ・ヒニン」と犯罪の関係については元ネタとも言えるような資料は存在する。それが、1960年に部落問題研究所(現在の部落問題研究所と、部落解放・人権研究所の前身)が作成した「講座・部落」である。

その1巻、「部落の歴史(上)」には、幕末の大阪の非人の様子について、次の記述がある。

極貧の非人が、強請・非行を働いたのは、ぎりぎりの最低生活をえようとしたためであり、非人頭らが、権力を逆用して弱い市民を苦しめ豪富をつんだのは、いずれも、それ自体をぬきだしてみれば、反社会的・ 反秩序的な行動であったが、それは当時の社会状況のもとで、彼らにゆるされた最大限の、差別に反撥する抵抗の意思表示であったともいえる。

今回は動画での説明もあるのでぜひご覧頂きたい。

長谷川豊の「差別発言」の元ネタを探してみる」への2件のフィードバック

  1. アバター十六島

    1960年当時は「造反有理」の時代で、反体制・反権力の大義名分にこじつければ、小松川事件(1958年)の李珍宇のようなレイプ殺人犯まで悲劇のヒーローにされてしまった時代ですから、分裂前の部落問題研究所もそのような小児病的な社会風潮の影響を免れなかったのでしょう。

    「それ自体をぬきだしてみれば、反社会的・ 反秩序的な行動であったが、それは当時の社会状況のもとで、彼らにゆるされた最大限の、差別に反撥する抵抗の意思表示であった」といった強弁の仕方は、そのような時代の空気から出てきたものです。解放同盟や取り巻きは、未だにこの種の歪んだレトリックに依存して八鹿高校その他における集団暴力行為を正当化しようとしていますね。要は「反差別が目的だから何をやっても無罪」というわけです。これは社会正義の暴走であり、中国の「愛国無罪」と同じ構造をしています。

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  2. アバター十六島

    なお帆足万里は『東潜夫論』(1844年)で「穢多は犯罪者を取り締る役目にありながら、犯罪者の宿、『悪の巣』になっている、だから、すべての穢多を召集して、蝦夷地におくり、その開発に従事させよう」と提案していたような気がします。「江戸時代に被差別の身分の人々が携わった主な役目の一つは、警察的な仕事だった」という寺木のコメントは長谷川発言と関係があるようで関係ありませんね。

    現代でもそうですが、警察的な仕事をしていることと悪の巣であることは両立するわけです。

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