今回は小田原市の部落を探訪した。酒匂川を挟んで東側に酒匂部落、西側に山王部落がある。1934年の記録では合わせて77世帯の部落があったとされる。
しかし、1976年5月3日の解放新聞中央版には気になる記述がある。解放同盟小田原支部が、小田原市に対して「山王部落に近接する浜町の部落をも交渉に先立って視察させた」という記述である。つまり、浜町にも部落があるということだ。
とりあえず、山王部落に相当する、小田原市東町にやってきた。奇しくも解放新聞にある交渉が行われた1976年4月9日と同じく、雨の中での探訪となった。
しかし、部落を思わせるようなものはどこにもない。
これは昭和30年代から40年代の文化住宅と考えられ、同和とは関係ない。
山王70区自治会とある。この辺りが部落と考えられる。
普通にアパートやマンションが建っており、古くからの家はむしろ豪邸が多いように感じられる。
ここが白山神社。住民によれば、もとはここから少し離れた場所に小さな祠としてあったものだが、日露戦争の報奨金を元手にここに移転して神社を建てたという。
公園となっている境内には、大きなイチョウ等の切り株がいくつかある。見ての通り幹が太くて立派な木だったと考えられるが、落ち葉や実の掃除が大変なので5~6年前に伐採したという。
周辺には「山王神社」の幟があちこちにある。この辺りも山王神社の氏子ということだ。
この案内板がある公園の脇には…
これは市営東町住宅。この場所は白山神社からは離れており、部落の中ではない。
白山神社付近の住民に東町住宅について聞いてみると、開口一番に言われたのが「あれはゴネ得で作られたものだ」ということ。昭和50年頃のこと、同和住宅を建てるということが住民に持ちかけられたのだが、住民はそもそもここが部落だとは認識しておらず、しかもさきほどの白山神社の土地に住宅を建てるという話だった。無論、白山神社の土地を所有する住民はそれを断った。そこで、区画整理により市が取得した土地に建てられたのが現在の東町住宅である。
「奈良の方から行政との交渉に長けた人らがやってきて、小田原市を吊し上げた。近くに古くなった(旧酒匂町の)町営住宅があって、そこの人が入った」と住民は語る。同和住宅ということで、解放同盟の認定で同和関係者のみが入っていたはずだが、実際は素性など分かり様がないという。
東町住宅の周辺には普通の民間のアパートがある。なお、市営東町住宅はなぜか小田原市のウェブサイトの市営住宅一覧に掲載されておらず、小田原市によれば今も事実上同和住宅という扱いで一般公募はしていないそうだ。ただ、時期は未定だが近いうちに一般公募になるだろうという。
東町住宅の前のこれは、サークルKが撤退した跡だ。
再び白山神社方向に戻る。改めて見ると、古くからの住宅地の痕跡のようなものは見える。
さて、忘れてはいけないのは解放新聞にあった「浜町」について。東町の住民によれば、住宅が密集しており、屠殺場があったためにむしろそちらの方が部落と認識されていたという。新たに引っ越してきた住民が、そこは部落だよというような事を言われて驚くということがあったらしい。ただ、今となっては若い人は知らないことだそうだ。
現在、アライ・リステムという廃棄物処理工場がある場所の周辺で、現地に行けば雰囲気ですぐに分かるというので、行ってみることにした。
東海道を西方向に歩くと、例の工場が見える。この山王川を越えると浜町だ。
最初に目についたのが、この藪原稲荷神社。この辺りは「藪原」というらしい。
この神社も住民に大切にされていることが分かる。
この切り株に生えているのはキクラゲだろうか。妙に美味しそうに見えた。
(後編に続く)
東近江の川久保に来てください。割と立派な家が立ち並んでますが未だに、親とかは近くを通るときは静かにしろと言ってきます。
川久保は東近江ではなくて愛荘町ではなかったでしょうか?
ぜひ岡山県にも来てください。
東町1丁目の70区公民館と白山神社のちょうど真ん中辺りにタレントの柳沢慎吾さんの
ご実家があるんですね。
山王原の元々の白山の位置は、70区公民館付近です。
今の白山は戦後にK西家が再建したものですが、
山王原の元小頭一族は関与してないと思いました。
山王原の元小頭一族は、もうここには居ません。
一部は付近に、そして二十数代目となる本家は東京都下の別の地域に移転してます。
解同の力が強くなり過ぎると、比較的財力のある土着が地域を離れ、
解同関係の流入が増える為、地域の歴史が見え難くなる様です。
この辺、戦国時代に北条氏の庇護の下、関東に勢力を張った長吏頭太郎左衛門とその子孫の居住地ですよね。
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