部落と言われてもピンとこない茨城県でも、どこが部落かといった地元での伝承は存在する。ただし、それらは不正確であることが多いので、文献に基づいた検証が必要である。そのような検証で、ほぼ間違いないと特定されたのが、今回訪れた古河市諸川の西部地区である。
かつての部落名は西原、いにしえの記録では戸数17であったという。
現地に西部公民館がある。西原から、西部になったのではないだろうか。
地元では、こう言われている。この地に昔からある鈴木ではないかと。古老によれば、かつては貧しい農家が多く、よく唐辛子の行商に来ていて、断りにくくて困ったという。
しかし、今となっては鈴木と言えば豪邸が多い。商売で成功し、町議会議員も出すようになった。
もはや鈴木と言えば名家であり、部落という話は知る人ぞ知るという話になっているようだ。
確かに、1960年代の航空写真と名字の分布を比較すると、鈴木の分布は昔からある家と大体一致しているように見える。
それが今は都市化して、農村の面影は消えてしまった。
白山神社は発見できなかった。いくつか祠があるが、どれも屋敷神のお稲荷さんのようだ。
地元の長宮神社では、西部地区も氏子に入っていることが確認でき、融和しているようだ。
さらに手がかりを求め、お寺の墓地を訪れてみた。
古河市の部落は、時宗の場合と真言宗の場合とがある。ここは時宗のようなのである。
やはり、墓地の一角に鈴木だけが集まっている場所を見つけた。古くからの住民でなければ、このように同じ苗字の墓が固まっていることはあり得ないだろう。今回も勝利である。
え?
勝利って、素直に読めばどこにも「部落」を示す客観的根拠が見えませんよ。
>古河市の全部落コンプリートを目指しています 残りあと1部落
残りはKさん・Fさんの部落ですかね?Eさん・Sさんも構成する名字なのだろうか。
さすがに今回は雑すぎましたかね。
山地の多いところと違って茨城は平らで土地が広く、大地主から名字をもらった小作人を含めて、同じ名字が広い範囲で住んでいるところでもあります。鈴木でも何系統もありそうですし、何とも言えない、というのが感想です。
田舎はいまも名字でなく屋号で話しますよ
xx(屋号)の家のじいさまが・・・みたいに
苗字にさほど意味はありません
筑西市樋口と笠間市橋爪と同じなんだな・・・
鈴木の姓を調べました。
苗字由来netより引用
①古代の氏族であり、物部の伴造(とものみやつこ)として軍事、刑罰を担当した物部氏族穂積氏の子孫、現和歌山県と三重県南部である紀伊国熊野の豪族で熊野神社勧請で広まる。左記のように紀伊国熊野発祥の族は穂積姓。
「軍事、刑罰を担当」は同和扱いされる職業ではないですか?「被差別部落」かどうかはおいておきます。
諸川は宿場町だったようです。宿場町は売春宿があったり故障した馬が処分されるところだったみたいです。
殺人村とよばれた岩の坂も宿場町。
あからさまな被差別部落ではなく同和認定の職業がマッチしてるのでもらえるんならと同和対策事業を受給して目立たない改良住宅を建てたところってあるんですかね。
私はこの地域出身の者ですが、ここで出されている苗字がいわゆる被差別民だったと言う話は聞いたことがありません、あと写真で紹介されている場所はこの地域にあったお城の諸川城付近であり、至って普通の場所です。
勝手に勝利と決めつけていますが、何一つ根拠になっていません、さすがに無理がありますね。
私が子供の頃はこちらでは紹介されていない場所にトタン屋根の小さい家がいくつか立っている場所がありました、今はありませんが。
あまり思い込んで決めつける事のない様にして下さい。
こうして間違った情報が流されてしまう事には問題がありますよ。
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とは言っても、それでは反証にならないと思います。
この付近でトタン屋根の小さい家が部落ということはまずあり得ないです。
あなたのような人がジャーナリストを名乗っている事に大きな疑問を感じますね。
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こちらの地区の北西に「七五三場」というエリアが。
この元・三和町、元・総和町で古河市と合併したエリアではなく、古河駅近くの元祖・古河に住む知人曰く「七五三とかいて『しめ』と読む。この苗字は元来〆る仕事であり差別されていたと祖母から聞いた」とのこと。
そういえばジャニタレにもこの苗字のタレントが居て、確か古河市出身だったはず。
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