昨年12月31日、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 大晦日年越しSP絶対に笑ってはいけない アメリカンポリス24時!』(日本テレビ系)でダウンタウン浜田雅功が米黒人俳優・エディ・マーフィーの出世作『ビバリーヒルズ・コップ』のアクセル・フォーリーに扮した。
が、この際、顔を黒塗りメイクしたことが「黒人差別」として批判を浴びた。番組終了後、ネットでは批判意見が殺到し、呼応するかのように人権運動家、文化人、メディア関係者も苦言を呈した。もちろん全ての表現物で人種的、民族的な描写は慎重になるべきだ。しかし過剰な批判と自主規制はいつか自分の首も絞める。特に出版、新聞、報道問わずメディア関係者の方、またジャーナリスト、作家の類、その矛先は自分に向けられるかも―――。
ダウンタウンと人権
ダウンタウン。紛れもなく国民的お笑いスターだ。かく言う著者も若い時分、番組観覧に行ったフリークだが、やがてダウンタウンで人権を論じるとは思いもよらなかった。
また同和問題に関心がある人ならば、あのコントを想起するかもしれない。90年代の人気番組『ダウンタウンごっつええ感じ』で松本・浜田両氏による「豆」というコントがあった。「豆」は、部落解放同盟の糾弾集会のパロディではないかと、マニアの間で語り継がれている。ダウンタウン両氏は、兵庫県尼崎市出身。解放教育がなかったはずがない。おそらく子供の頃の原体験に由来していると思う。興味がある方は、「ごっつ 豆 コント」こんなキーワードで検索すれば現在でも視聴できるはずだ。とても風刺が効いた名コントである。一見は不条理ギャグの世界、だが訳知りの人が見れば背筋が凍るだろう。
一方、今回のガキ使で問題となった演出は、エディ・マーフィー主演の映画『ビバリーヒルズコップ』の主人公・アクセル・フォーリーのモノマネ。メイクが差別か否か別として、特に似てもいなければ、面白くもなかった。人種的な特徴をデフォルメしたメイクでもない。個人的には、日焼けしたパンチパーマのオジサンにしか見えなかった。演出のレベルとしては、とても稚拙だ。テレビ業界の人々は「ふりきった企画」とか「とんがった企画」という言葉を好む。そんなにとんがりたいならば、あの「豆」の再現というわけではないが、今回はポリスがモチーフ。ならば、だ。
黒塗りメイクをした浜田のもとに人権ポリスがやってきて糾弾する。『ちびくろサンボ』を絶版に追い込んだ「黒人差別をなくす会」のパロディ。どうせならこれぐらいの演出に挑んでほしい。では、抗議を受けた日本テレビの見解はどうか。局側の見解、抗議件数、また人権団体等からの抗議の申し入れの有無などを聞いてみると日本テレビ広報部名でこう回答があった。
今回の「絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時」は、アメリカの架空の警察署という設定で制作しました。ご指摘のシーンについては、ダウンタウンの浜田さんが、あくまで、映画「ビバリーヒルズコップ」で俳優のエディ・マーフィーさんが演じる主人公「アクセル・フォーリー」に扮したもので、差別する意図は一切ありません。本件をめぐっては、様々なご意見があることは承知しており、今後の番組作りの参考にさせていただきます。
この通り無難でひな形的な内容だった。ただガキ使自体、日テレの看板番組であり、これぐらいの抗議で揺らぐとは思えない。またダウンタウンが所属するのは、あの巨大な「吉本興業」だ。芸能界では絶対的な力を持ち、また「同和問題企業連絡会」(同企連)の会員企業である。この団体、企業の人権啓発を行うのが目的だが、実質は人権問題でトラブルが起きた時の“用心棒”的あるいは“防波堤”的な役割を持つ。ガードは万全。詳細は『あなたの会社が同和に狙われる第4回 同和と企業は持ちつ持たれつ?』で触れている。
表現物における黒人描写の変遷
それにしても時代は変わったものだ。例えば80年代の人気番組『オレたちひょうきん族』では、ウガンダ・トラ(故人)がマイケル・ジャクソンに扮し『スリラー』のモノマネや黒人少女とのコントをやった。同じくひょうきん族で言えば、島崎俊郎の「アダモステ」は、肌が黒い南洋の原住民がモチーフだ。今のご時世ならば抗議があるかもしれない。また鈴木雅之、田代まさしらのバンド「シャネルズ」は、顔を黒塗りにしたバンドだった。この場合の黒塗りは、差別的な意図ではなく、純粋に黒人音楽へのリスペクトだろう。
TVCMでも印象的な作品がある。西日本、東海地方の方なら覚えているかもしれない。和歌山県の銘菓「那智黒」のCMだ。https://www.youtube.com/watch?v=lmM1br9zFSs
著者が小学校低学年ぐらいまでは、ごく普通に放送されていた。老女と黒人男性がダンスをしながら、男性が「ナチグロ」と叫ぶだけ。同じく80年代、読売ジャイアンツで活躍したウォーレン・クロマティが漫画で登場する時は、チリ毛、分厚い唇、体臭、といった描かれ方だ。韓国のプロ野球から日本球界に復帰した新浦壽夫投手がニンニクやキムチを食べた口臭をクロマティに吐きかけ、クロマティは腋の臭いでやり返す(高橋春男『Black & White』より)。現在なら新浦の描写も併せて別の線からも怒りを買いそうな内容だ。
近年の例を挙げよう。元SMAPの香取慎吾は、2005~2007年頃流行した「ブートインキャンプ」のビリー隊長のモノマネをした。この時のメイクも黒塗りだ。またお笑い芸人のノッチは、オバマ前大統領のモノマネをしていた。彼自身、もともと地黒だから黒塗りメイクというほどでもないが。ただ当時、香取やノッチに抗議が殺到したという話は聞いたことがない。
何より笑ってはいけないシリーズでは、以前も黒人に扮する演出があった。「絶対に笑ってはいけない地球防衛軍24時」(2013年)でタレントのマツコ・デラックスが同じく黒塗りメイクで「エマニエル坊や」に扮した。ところが当時、ガキ使が炎上したとか、批判が殺到したとか、そういう話は聞かなかった。
にも関わらず浜田の黒塗りメイクは、問題だと言う。この違いが謎だ。このことは「人権意識の向上」といった性質のものではないだろう。ネットを中心とした批判、抗議、バッシングといった現象は、謎のレールが存在し、僅かなきっかけやその都度の空気感でレールに乗せられる。このレールは、誰にも見えない。何かに怒りたい不特定多数の暗い情念が一定量集まった時にレールが敷かれる。現象は異なるがネット上で“文春砲”と賛美された『週刊文春』も目下のところ小室哲哉の不倫疑惑で炎上中だ。勢いがある著名人の不倫報道は「功績」で、かつての輝きを失った小室の不倫報道は「残酷」という。この違いも全く謎である。文春報道も浜田の黒塗りメイクもこの謎の抗議レールに乗せられたと思う。
本当の怒りの根源はアナタの心の闇! 抗議する人たちの素顔
それともう一点気になることがある。とにかく抗議者たちは、ここ2~3年で先鋭化したことだ。全ての俳優、歌手、政治家ら著名人は、パロディの対象になる。しかしガキ使への抗議者たちは、黒人に関してはその対象外と考えているのか。例えばトランプ大統領の被り物は許容され、オバマ元大統領の被り物は禁止、そういうわけでもないだろう。通販サイトを見れば、肌が黒く塗られたオバマ元大統領の仮面やおもちゃが販売されている。
ただ抗議者たちの怒りは、沸点に達するのも早いが、冷却も早い。黒塗りメイク問題は、年明けからネットニュース、SNSでも随分盛り上がったものだ。現在は、すでに収束状態にある。中には、純粋に人権問題に関心がある人もいたのだろう。しかしその大半は、とにかく怒るタイミングを待っているように見受けられる。これが人権問題だろうが、企業の不祥事、タレントのスキャンダル、大学生や高校生の悪戯…なんでもいい。とにかく騒動があるところ何でも抗議の対象にする。
ちなみに抗議と言えば弊社、示現舎もご想像通りとても多い。そしてその経験上からある傾向を感じている。例えば「同和問題」の場合、抗議主は、人権団体の当事者というよりも例えば「ネットを見た」「新聞で見た」という人々だ。特に知識があるわけでもなく勢いで抗議してきたのが容易に分かる。そんな人々の話を聞いてみると、最終的にこんな本音を吐露することがある。
「教育委員会が私の意見を聞いてくれない」
「人権意識が低くなったので私の文集を図書館が採用してくれない」
こういったもの。なんだ結局、自分のことじゃないか? 怒りの根底を辿ってみると日常生活における不平不満が募っている。そんな様子だ。参考に『住所でポン』の抗議は、さらに鮮烈。
「お前らのせいで反日ユダヤと朝鮮総連の工作員が家の前にいる」
「創価学会が電磁波攻撃をしてきた」
最初のような不満はまだしも「反日ユダヤ」「電磁波攻撃」の類は、老婆心だがライフスタイルや精神状態を改善した方がいい。電話をかける先を明らかに間違えている。もちろんこれらは、極端な例かもしれない。ただ何かにつけて抗議、苦情といきり立つ人々、本当の怒りの元は、自分の心に潜んではいないか。
黒塗りを禁じることが問題解決なのか?
それにメディア関係者の反応も疑問が残った。浜田の相方、松本人志が出演する『ワイドナショー』(フジテレビ系)1月14日の放送回では、黒塗りメイク問題が扱われた。出演者各氏の反応が興味深い。松本は「言いたいことがあるけど、面倒臭いので浜田が悪い」と笑いを取りつつ、明らかに不満気だった。
逆に演出に対して否定的だったのは、キャスターの安藤優子。「エディマーフィーに扮したことではなく笑いのネタにしたことが問題だ」と指摘した。また音楽プロデューサー・もふくちゃん は「国際的な立場になっているということに目配せした番組作りが必要なんじゃないかなというふうに思います」と訴えた。
安藤、もふくちゃん両氏は、黒塗りメイクを否定的に見ていた。今後、どんな意図であれ黒人を連想させるような演出はNGという意味か。松本はこう問いかけた。「モノマネとか色々バラエティで、黒塗りは、じゃあもう、なしでいくんですね? はっきりルールブックを設けてほしい」。するともふくちゃんは「黒塗りはアウトだと思います」と応じ「塗らないやり方のモノマネはいくらでもある」と強調していた。彼女も表現に関わる立場として、こうあっさりと演出の手段、手法を閉ざしてしまっていいものだろうか。
なぜなら仮に黒塗りメイクを禁じても、批判者たちは別のシーンで差別の鉱脈を見つけるものだ。だからもふくちゃんの認識はとても甘い。『ピーターパン』のフック船長も障害者差別だ、やがてこう言いだしかねない。他人に対する「差別」というレッテル貼り。相手を屈服させるにこれほど効果的な言葉もない。行政、司法、政治すらも「差別」という言葉に白旗を挙げることもある。だから新聞、テレビなど報道機関は、政治家などの失言を待ち構えている。その効果を熟知しているからだ。だからこそ逆に「差別」という批判にも弱い。こうした特性上、今回の黒塗りメイク問題によって放送業界では一層、自主規制が強化されると予想する。
ブラック企業は差別的表現? 人権派教授もやり玉に
もちろん自身が一撃必殺の「差別」を使用できる立場の時はいい。しかし逆に身に降りかかる可能性がある。今回の黒塗りメイク問題の場合、黒=肌の色、という分かりやすい状況があった。では言葉の表現はどうか。例えば「ブラック」「黒」。
元来、日本語で「黒」はネガティブなイメージで使われてきた。「腹黒い」「頭の黒いネズミ」「暗黒街」「暗黒社会」。あるいは「黒い霧解散」(1966年)、「黒い霧事件」(1969年)など。この場合の「黒い」は、主に暴力団関係者を示している。また「容疑者はクロ」この場合は、犯人ということを意味する。
そんな経緯から労働基準法を逸脱したり、過酷な労働環境にある企業に対しては「ブラック企業」と言うようになった。また金融機関で返済状況が悪い利用者などを「ブラックリスト」と言う。中身が不透明で怪しげな様を「ブラックボックス」。この通りブラックもネガティブなイメージで使用されてきた。この場合のブラックは、もちろん黒人を示すものではない。従来から黒に込められた意味を当てはめたにすぎない。それに色で物の様態、状況を表すのは「黒」に限ったことではない。「白」もしかり。また「真っ赤な嘘」、「黄色い声援」、「青ざめる」などもある。あるいは、共産党員を「アカ」という。これも蔑称に違いないが、なにしろ赤は共産主義のシンボルカラーだし、共産党員自身が自虐的に「アカ」と自称することもある。
ところが「ブラック」「黒」の使用について黒人差別を助長するという声が少なからず存在する。「ブラック企業」という表現も黒人差別を助長する、こういう主張に対して、我々日本人はどう向き合うべきだろう。特に左派の方々、メディアにとって「ブラック企業」問題は、とても関心があるはず。ブラック企業の過酷な労働現場に迫って喝采を浴びるかと思いきや、別の一派から差別とお?りを受ける。そんな可能性が大いにあるのだ。
先述したもふくちゃんが言うところの「国際的な目配せ」が必要と言うならば、「ブラック企業」「ブラックリスト」「腹黒い」「黒い人脈」これらも排除しなくてはならないのか。メディア関係諸氏、そして黒塗りメイクに抗議した人々は、こういう状況を望む?
そして中には人権問題に取り組む専門家ですら“ブラック狩り”に遭遇することもある。在日コリアン、被差別部落問題に取り組む東京造形大学・前田朗教授もまたその一人。人権派の前田教授も「ブラック企業」という言葉を使ったら差別的だと指摘を受けることもあるのだ。そこで前田教授に「ブラック」という表現について、また批判に対してどう応じたのか聞いてみた。
(次号に続く)
とにかく誰でもいいから叩きたい時の便利な道具にして便利な言葉「差別」
通り魔と同じじゃん・・・
苦いブラックコーヒーは嫌いだ、と言ったら
ニガーとブラックをイメージするとか。
どういう取材をしているかは知りませんが、浜田雅功の「黒塗りメーク」問題の最初の批判者のバイエ・マクニールを無視するって、あり得ないでしょう?彼は以前にもフジの音楽番組での「黒塗りメーク」を批判しているのですから・・・。
★私は2015年にも、ブラックフェイスを放映しないでください、という運動をしました。このときは5000人近くの署名が集まり、フジテレビはそのシーンの放映を取りやめました。しかし、フジテレビはその理由も説明せず、署名活動を認めることもありませんでした。
バイエ・マクニール氏の意見は黒人社会の総意なんですかね。
※注:私のブログでも、「黒塗りメーク」「黒塗りメイク」と、表記が混在しているので、これ以後私も「メイク」に統一。
あなたの答え、反論にもならないでしょう。
今回の浜田雅功の「黒塗りメイク」問題で、バイエ・マクニールに触れないなどあり得ない。以下、テレビと「黒塗りメイク」問題などの時系列──
★時系列 テレビと差別語「ブラック」問題・「黒塗りメイク」問題
2011年 Eテレ、「日本賞グランプリ『アメリカを振り返る 人種隔離バスへの抵抗』
2012年 今野晴貴『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』
2013年 オリバー・カープ「ラッツ&スター」のものまねは、罪のないパフォーマンスといえるのか
2013年12月 「ブラック企業」が新語・流行語大賞の「2013トップテン」に選ばれる
2013年12月 『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』第13回大佛次郎論壇賞(『朝日新聞』主催)
2015年 バイエ・マクニール フジテレビ、「ももクロ」「ラッツ&スター」「黒塗りメイク」問題
2015年 Eテレ、日本賞グランプリ『キミの心の“ブラック・ピーター”』
2017年 バイエ・マクニール 日本テレビ、浜田雅功「黒塗りメイク」問題
バイエ・マクニールはフジテレビ系の「ミュージックフェア」の放送カットの理由は「フジテレビはその理由も説明せず」と書いてますが、『朝日新聞』の2018/01/19の記事「顔黒塗りのネタ 批判を考える」によると、<当日その部分は放送されず、フジはこの当時、「人種差別という誤解を与えかねないという意見もあり、総合的に判断した」と説明した。>
よってフジテレビ系は抗議で人種差別に気づき、「黒塗りメイク」部分を放送カット、一方日本テレビ系は抗議にもかかわらず再放送を強行。
あなたは表現規制を憂慮しているから──その中身はここでは問わない──、問題が顕在化しても居直った日本テレビを支持するのでしょうけれど、それができるのは問題の本質にまったく気づいていないから──
★ジム・クロウ制度(人種隔離制度):アメリカの黒人差別体制一般をいう。ジム・クロウとは、1828年ケンタッキー州で上演され、ヒットしてヨーロッパでも流行したミュージカルの登場人物(黒人)の名前で、白人が「黒塗りメイク」で黒人を演じた。その後黒人の蔑称になり、人種隔離のことをよぶようになった。
日本では素人でも私を含め、無知ゆえに結婚披露宴で「黒塗りメイク」をやっているが、それが米国の人種隔離と密接に関係あると知ってしまったら、もう絶対「黒塗りメイク」はできない。では人種隔離で何が起こるのか?南部の白人は、「ピクニックしながらリンチを観賞」していた。
▼黒人リンチで4000人犠牲、米南部の「蛮行」 新調査で明らかに
2015年2月12日 15:39 発信地:ニューヨーク/米国
http://www.afpbb.com/articles/-/3039348
▼オリバー・カープ
「ラッツ&スター」のものまねは、罪のないパフォーマンスといえるのか
2013年07月02日 17時36分 JST | 更新 2013年08月31日 18時12分 JST
★ 総意について
Eテレ日本賞 『キミの心の“ブラック・ピーター” (オランダ56分)』を見れば一目瞭然ですが、オランダでも「黒塗りメイク」問題があり、抗議者(黒人も多い)がいて、伝統と名乗り強行する人間がいる。オランダでは抗議者が警察に逮捕されている。一方、英国は“今”では問題外で、公園で「黒塗りメイク」のスタッフは激しく詰め寄られる。もちろん米国でも問題外。
日本ではオランダのような例もあるからまだ安心していられるかもしれない。何しろ名誉白人低国では、白人を仰ぎ見て、媚びて、卑屈で従順なのだし、白人の美意識に追いつけ追い越せと、白→善、黒→悪と労働運動でさえ、ブラックにあらゆる悪を詰め込んで、差別語「ブラック」大合唱している最中だ!
丁寧すぎるご解説ありがとうございます。
まず一点。>日本では素人でも私を含め、無知ゆえに結婚披露宴で「黒塗りメイク」
これ無知ゆえですかね? 単純に差別的な意図がなかっただけの話じゃないですか。
今回、ガキ使に抗議又批判した人たちは過去の黒塗り演出について抗議したのかどうか。これって人権的な観点からではなく、ただ世相の流れにのって騒いでいるだけのようにしか思えません。こうした行為が果たして人権問題に寄与するかどうか。
次に全ての著名人はパロディや風刺の対象になること。政治家でも芸能人でも
ごく普通に身体的特徴を真似していますよね。黒人はそれが免れるとすれば
それはなぜ? 逆に風刺の対象になるということはそれだけ黒人が地位向上したことの
証左ではないですか。
日本の場合、松元ヒロさんとかニュースペーパーとか安倍や麻生に扮して寸劇やコントをやっています。仮に自民党から黒人の政治家が出た、そして首相になると。なおかつこの人がとてもタカ派だとする。
当然、左派の人たちにとって政敵なわけで、社会風刺好きの
芸人さんたちにとってもネタの対象になることでしょう。
この時、芸人さんが黒塗りメイクにしたら差別なんですか?
また黒塗りにしなかったらとても不自然だし。
普段は人権に熱心な日本の左翼様でも日常の行動様式から察するにゲラゲラ
笑っている様子が目に浮かびます。貴方様がそうだとは思いませんが。
じゃあ黒塗りをなくせば黒人差別って無くなりますか?
アメリカや欧州では黒人に関する厳格な表現規制があるとのことですが、
それで差別が無くなったんですか? いわんや「腹黒い」も黒人差別とおっしゃる。
「黒い人脈」「黒い組織」全部なくせば黒人差別解消!となるのかどうか。
じゃあいっそ檜原さん、ブラック解放同盟を結成してみてくださいよ。
それでブラック、黒いにまつわる表現規制を求めてみてください。
それで黒人差別が無くなったら、糾弾でも反省文でもなんでも受けますよ。
今回も長いですよ。あなたは表現規制とかいって騒いでいるだけでいいが、私には話すことはいくらでもある。
>これ無知ゆえですかね? 単純に差別的な意図がなかっただけの話じゃないですか。
私を含めて人間は知らないことばかりです。知っていることより知らないことのほうがはるかに多い。よって大事なことは、他人から無知を指摘され批判されたときに人がどう対応するかなのです。筒井康隆などは最悪の事例で、病気無知を晒して批判されただけなのに、表現規制にすり替えた。彼は喫煙者だが、自らを正当化するためにも都合の良いだけの医学情報だけを集めて得意がるだけ。ただの愚か者です。よって、喫煙が鉄たんぱくを体内に生じさせ、それが環境の放射性物質を体内で濃縮するとかいう発がんのメカニズムの研究にはまずたどりつかない。
表現規制云々でも、モノカキに差別語を使う権利などないのに、あると思い込んでいるから、「言葉狩り(刈り)」とか言って居直る。この愚者に影響を受けた人もかなりいて、前田朗でさえ悪い意味で「言葉狩り(刈り)」とか使っている。多分、あなたもそんな連中のひとりでしょう。
筒井康隆などは多分哀しむ能力が欠如していて、差別語を見て聞いて苦しむ被害者を想像できない。「黒塗りメイク」問題でも同じでしょう。バイエ・マクニール──被害者を無視できるあなただから記事には当然登場しない──は浜田雅功の番組を見て苦しんだ。同じ視聴者のなかでも問題が顕在化して差別と気づいた視聴者がいて、ある調査では8%もいた。実はこの数字の方が重要です。一方あなたは鈍感な多数派に属し、哀しむ能力も欠如していて、苦しむ被害者は無視できるから、簡単に表現規制に話をすり替えることができる。ヘイトスピーチ(差別煽動・憎悪煽動)問題でも、苦しむ被害者の存在は頭の片隅にもないようで、権力の規制問題にすり替える。
>ただ世相の流れにのって騒いでいるだけのようにしか思えません。
批判によって問題が顕在化し、差別問題に気づく人が増えるのいいことです。
>黒人はそれが免れるとすれ、 それはなぜ?
おおざっぱに言えば、今は白人が特権を持っている世の中なのです。だから米国では黒人は警察にあっさり射殺されている。よって「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命も大切)」運動がある。
カダフィやフセインが何であっさり虐殺されちゃうのか?あなたは説明できますか?
>じゃあ黒塗りをなくせば黒人差別って無くなりますか?
今回の問題化で、黒人差別の歴史に無知な人が減ったことは確かですね。
>いわんや「腹黒い」も黒人差別とおっしゃる。
私は「腹黒い」などという非科学で意味不明な言葉は使わないだけ。ただこの言葉が、差別語「ブラック」の大氾濫に影響を受けて多く使われ出したと推理しているだけ。もちろん警察用語「クロ」は、差別語「ブラック」の大流行で、さらに確固たる地位を築いた。
色の価値の序列化は白人の美意識に多大に影響を受けている。インドでも英国の植民地になって、白人の美意識に従属し始めた。日本でも同様で、白人の植民地主義のために発明された非科学の人種分類が過去の遺物とはならずに、いまだに「黄色人種」とか「モンゴロイド」とかの表記も見られる。さらには中曽根康弘・渡辺美智雄・梶山静六・石原慎太郎・山本幸三などの黒人差別発言、今では労働運動などが、白→善、黒→悪という白人の美意識に洗脳されて、差別語「ブラック」を大氾濫させている。これって、名誉白人意識でだいたい説明がつく。「幸せな奴隷」(津田幸男:支配言語である英語に支配されていると気づかない人間)は、白人英語に支配されていることに無自覚で、かつ黒人より上位にいるという安心感からか錯覚からか、平気で黒にあらゆる悪を詰め込んで大合唱できる。惨めなものだ!
★竹沢泰子
ヨーロッパ人を白色人種と呼んだり、白い肌が美しいとする考えは、元来極めてユダヤ=キリスト教文化圏の伝統に支配された考え方だと思います。ユダヤ=キリスト教文化圏では旧約聖書にあるように白を 光、黒を闇として、善である白い色を自分たちの色に当てはめたわけです。
>じゃあいっそ檜原さん、ブラック解放同盟を結成してみてくださいよ。それでブラック、黒いにまつわる表現規制を求めてみてください。
あなたは、私のブログをちゃんと読みましたか?ずーっと「言葉狩り(刈り)」をやっている。日本版「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」運動の開始からから、もう5年目に突入しています。もちろん差別語は人間の進歩で日々発見されるから、「言葉狩り(刈り)」は永遠運動でもある。例えば以下も──
▼「主人」や「嫁」という言葉は賞味期限 川上未映子さん
http://blackisbeautiful2013.blog.fc2.com/blog-entry-8329.html
ずーっと「言葉狩り(刈り)」やっているけど、差別語「ブラック」使用者からのまともな反論などいまだにない。昔のCMLを覗けば、論争もありましたが、今では批判にはほぼ無視です。メディアでは『週刊金曜日』ぐらいだけが私の意見を1回だけ取り上げていますが、新聞社などへの投稿などまず不採用です(もちろん天皇ネタも。日ごろから「天皇よいしょ記事」しか書かない新聞社が載せるはずもないが・・・)。
多数派であるということは、気楽なことです。無視して沈黙していれば、差別語「ブラック」の大氾濫という事実だけが積み重なっていく。今野晴貴など初期には「ブラック」をちゃんと定義して使え、とか言ってましたが、じゃあ「ブラック校則をなくそう!プロジェクト」のブラックはどういう意味なのか聞くべきでしょう?
この話題でついでに述べれば、愚劣な校則の典型でもある「丸刈り校則」など、ビラを1回ぐらい配れば、学校はすぐやめるだろうと私は楽観視していた。ところが、なんと5年も時を要した。世の中、こんなものです。明かなトンデモでも伝統だといって擁護される。オランダの「黒塗りメイク」問題も一緒でしょう。
というわけで、私の運動、例えば差別語「ブラック」問題は終わる可能性は想像できるが、白人英語に従属して、日本に蔓延する「白→善、黒→悪」という白人の美意識を転覆させる運動の終わりなどまず予想できない。
・・・
あなたって、アラビア半島南部を辿るあなたの先祖の旅を想像できますか?その時の皮膚の色を想像できますか?メラニンの多寡だけにとらわれている非科学な愚者の側に立って、「白→善、黒→悪」という白人の美意識に支配されて、先祖殺しに加わる愚行を繰り返すなど、私には到底できないことだけなのです。
>カダフィやフセインが何であっさり虐殺されちゃうのか?
あなたは説明できますか?
核兵器を持ってなかったからじゃないっすか?
金正恩は白人じゃないけどピンピンしています。
黒人差別とはまた別の問題ですよね。
世界情勢がアメリカの戦略で左右されるという主張ならば分かりますが。
檜原さんは問答無用で「黒人」を弱者と位置付けていますが、
前にも指摘しましたが、
黒人の超独裁的、超軍国主義的リーダーが現れた時に
「弱者」だから許しますか。
じゃあ「黒人」って誰よって話になります。
オバマが大統領に就任した時に黒人社会から
「あいつは黒人じゃねえ」
という議論があったと思います。
黒人をアフリカ系とするのも、親子三代NY住まいの黒人からすれば
「勝手にアフリカ系にすな」という人もいるでしょう。
「黒人」を一括りにするのもどうなんでしょうか。
ごめんなさい定義論をするつもりはないのだけども。
話を戻して表現問題です。
黒い=ネガティブな表現とおっしゃいますが、
「白眼視する、白い目で見る、白痴」などはどうでしょう。
白を悪く言うなとトランプが怒ってくるとは思えない。
でもこういう表現ってありふれています。
川上未映子さんと檜原さんの意見を合わせると
とても息苦しい社会になると思います。
「表現狩り」さんたちって黒ビールが嫌いと言っても
「差別」って言いだしそうで。
フレスコ画の天使はなぜ白人ばっかりなんだとお怒りだから
今度は黒い肌でチリ毛の天使を出したら差別だって言い出しかねない。
檜原さんがそうだとは思わないけども。
>ヘイトスピーチ(差別煽動・憎悪煽動)問題でも、
苦しむ被害者の存在は頭の片隅にもないようで、権力の規制問題にすり替える。
いやいや権力の規制問題って・・
そこを一番、注視しなきゃいけないんじゃないですか?
護憲派という人ならば。
カウンター団体ってある意味、正しいと思っています。
警察や法に依存しないでヘイト団体を実力行使で阻止するというのは
本来の左翼活動として実に正しい!
ところが普段、反体制を訴えながら、ヘイトスピーチ問題になるとなぜか体制に
依存しておられる。情けないことです。そこまで問題意識をお持ちならば、
檜原さんもヘルメットと角材もって桜本か鶴橋あたりに行くことをオススメします。
ただね一点、檜原さんがえらいところがあります。
自分が行った黒人の差別体験を自身のシャネルズの真似にしたこと。
文化人、作家の類がよくやるのが人権講演会で話すときに
たいしたエピソードがないものだから
「私の親は在日を差別した」「父は部落を嫌っていた」
と身内に転嫁すること。
まあ真偽はわかりませんが、おそらく町内会とか地域の対立を
無理やり在日や部落を持ち出して味付けなさったとみています。
なんでわかるかって言えば話が薄っぺらいから。
あるいは既存の文献や機関誌を読んで我がことのようにお話になる方もおられる。
ハイ、それヒューマンライツで読んだよ、
朝鮮新報に書いてあったねって事態はよくあります。
なのに檜原さんは他者に転嫁しないで、
自身の身に置き換えて考えたのは人権紅衛兵の一員としてご立派です。
見上げたものです。
ところがここ結構大事なところだと思います。
なぜ人権SSや表現狩りさんたちは反発を受けるのか。
「当事者意識」がまるでないんですよ。
二言目には「日本人は云々」とおっしゃる。
じゃあアンタ何人なのさ、と。
自分だけは美しき「地球市民」かのように振る舞っている。
まあそんな人には「日本人差別主義者」とお返ししたいけども。
アナタも今後、この手の活動を続けるならば、当事者意識
を大切にされた方がいいと思いますよ。老婆心ながら。
差別語「ブラック」使用者を批判すれば、反発があるのは当たり前ですね。だけど、批判されても反論する人がほとんどいない現状をどう説明しますか?まああなたはこうやって反論しているので、稀少例の1つなのですが・・・。
ただあなたは差別扇動者でもあるので、たとえ差別語を使ったとしても気にしない可能性が高い。ましてや労働運動が率先して使う差別語「ブラック」なら、仲間は多いし、まったく気にする必要さえない、という気楽な立場でもある。だから反論ができる。
だけど河添誠や荻上チキなどは、矛盾を抱えているからさすがに反論しにくい。だって日本にも肌の濃い人は少数派ながらかなりいる。・・・
>「白眼視する、白い目で見る、白痴」などはどうでしょう。
「白痴」は差別語ですから、ここでは「白眼視」を取り上げてもいいですが、「白眼」の対義語が「青眼」で、これって故事成語。「白い目で見る」はそのままで、真正面から見なければ、白目が目立つから。また「目の黒いうち」とかもありますが、生きている間の意味。こういうのって、別にどうでもいいのです。使いたい人が使えばいい。
例えば黒の意義で、囲碁・連珠も黒が先手で白が後手とか言って、黒がプラスイメージだと言ってもいいし、素人・玄人とか持ち出してもいいが、逆の例だって持ち出すこともできる。要するに日本の昔は「白→善、黒→悪」などという明確に区別しての美意識などなく、色の価値づけにも混在があった。
★素人(スーパー大辞林3.0より)
〔「しろと」とも。「白人(しろひと)の転〕
①ある物事に経験の少ない人。また、そのことを職業・専門としない人。しらびと。対義語:玄人(くろうと)
②・・・
だがしかし、、明治以降の脱亜入欧、及び白人英語の流入で、美意識が大きく変動し始めた。警察用語の「クロ」とか、戦後の松本清張などが書名に多用した「黒」などは、多分白人英語のblackに影響を受けている可能性がある。
▼「ブラック企業」という言葉は「黒人」を差別する
「英語」の悪しき含意から身を解き放とう
杉田聡
2017年02月14日
http://webronza.asahi.com/authors/2016103100009.html
・・・
参考までに、前田勇編『江戸語の辞典』(講談社学術文庫)に記された、江戸期の「黒い」と「白い」の意味をあげておく。
黒い:
「(1)良い。すぐれている。うまい。」
「(2)玄人である。練達者である。」
「(3)玄人らしい。玄人めかす。『くろっぽい』に同じ。」
白い:
「(1)……黒いの第一位に対して、第二位。」
「(2)悪い。未熟。上手を黒いというの対。」
「(3)露骨である。」
・・・
なお以上は、伝統的な日本語において黒が悪い意味をこめて、また白が良い意味をこめて用いられる例はないと言っているのではない。もちろん逆の例はある。時に黒は闇・穢れ・不吉を、白は清浄・無垢・吉兆を表す。つまり黒も白も、多かれ少なかれ両義的な意味を含んで用いられてきた。私が言いたいのは、「英語」に見るような圧倒的に黒を邪悪視する視線は、日本語にはなかったということである。
>川上未映子さんと檜原さんの意見を合わせると とても息苦しい社会になると思います。
「表現狩り」さんたちって黒ビールが嫌いと言っても「差別」って言いだしそうで。
「黒ビールが嫌い」と言う人に、「差別表現だ!」と騒ぐ愚者などどこにもいません。
問題の本質は、差別語「ブラック」使用者が黒・ブラックにあらゆる悪を詰め込みながらも、自らは、ブラックコーヒーを飲み、ブラックラーメンを食べるかもしれないし、日常的に黒い衣装を身につけていることです。この矛盾とどう折り合いをつけているのか?まあ私には思考の曲芸師にはついてはいけないということですね。
「ことばは人間が作ったものだから人間が変えられる(田中克彦)」のだから、あなたの言っていることは的外れです。「白→善、黒→悪」という白人の美意識をアジア人が持っていること自体が愚劣の極みなのであり、今頃になって労働運動までもが、「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」運動を忘却して、白人の美意識に完全に従属して差別語「ブラック」を大合唱していることが恥なのです。
日本ではいまだに「黄色人種」とか「モンゴロイド」とかいう表記も散見されますが、人種分類というお粗末な非科学を早く卒業しないと世界から笑われますよ。あなたの先祖をたどっていけば、当然皮膚の色の濃い人にたどり着くわけだから、あなたが差別語「ブラック」を使うことは、ある意味「先祖殺し」でもありますね。まあ50年前の「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」運動をあっさり忘れる人たちに、人類の歴史を持ちだしても無駄でしょうけど・・・。
大変だ!ボクの大好きな黒ギャルがいなくなっちゃうwww
最も大切なのは、心じゃないのかなぁ?
白黒黄…いちいち言葉尻を捕らえる様な細かい事まで考える必要はあるのかなぁ?
私は、部落の人も、在日の人も、国籍の違う人にも友人がいる。
それで、何の違和感もなく平和にやっている。彼等もなにも隠さない。それに、差別されているなんても言わない。
私の好物のさいぼしを部落の方の手作りなのをもらったらその美味しさに感動したし、唐辛子の辛いのが苦手な私なのですが、友人に勧められて在日の方のキムチ店に行って購入したキムチの美味しさには海老の旨味がしっかりと感じられ感動したものです。イスラムの親友とも仲良くやっています。
日本人は、人種差別しているだとか…前提にそういう考え方があるのはは根本的におかしいと思うのです。
私と部落出身の方や外国人隣人は仲良くやっている。
それでいいじゃないかとすら思う。
色んな関係者さんと会話したことがありますか?と、思うのですが…
例えばイギリスに住んでいた昔の人類の皮膚の色が黒かったというのは知っていますが
モンゴロイドというだけで非科学?というのは少し違和感を感じました。
正しい真実は一つなのかは知りません…
私の言っていることが完全に正しいなんても思いませんが、少しは私の様な愚者の意見も参考にしていただけたら嬉しいです
烏野karakara加奈子様が様々な方と
交流されていることはわかりました。
ただ今回の問題は別次元にあります。
例えば烏野さんの御地元で仮に300年間続く行事が
あったとして、突然、外国人や人権団体から
「差別」と言われて、そこで納得できますでしょうか。
あるいは方言でもいいでしょう。
異なる文化、言語、習慣、価値観が
ぶつかる状況は起こりえると思います。
その時に私たちはどう向き合うべきなのか?
ただごめんなさい無知でした、やめます、で終わらせていいのか。
そういう視点でご意見を頂戴できればと思います。
すみません、檜原転石さんの2018年2月11日 10:57 AMを拝見して私は異なる意見だったのでそれに対する意見でした。
三品純様が、いろんな関係者様と交流し、きっちりと取材されていることは勿論十分理解しています。失礼しました。
なんか誤解を招いてしまったみたいで…
私がいつも思っているのは、郷に入れば郷に従え的な考え方です。
地元の祭りに差別と思う方がいても、それぞれの文化は異なるので口出しは良くないと思います。例えば土俵に女性を上げろというのもおかしいと思いますし、宝塚に男性も登場さすべきというのもおかしいと思います。私も、地元ではない、あるいは外国の祭りや風習、食文化等も違和感を感じることがあっても、それはその方々の文化だからと肯定的に思う様にしています。それをちゃんと知ったらその魅力を知ることができるからです。子供の頃岸和田に引っ越してきてだんじり祭りを知りました。子供心に、騒音への恐怖と自由に道を通れない不便さに腹を立てていたのですが、実際にその関係者様と知り合いになりその伝統や魅力、面白さを教えていただき今では乳母らしい文化だと思っています。
言いたかったのは、お互いに尊重したいということです。
例えば捕鯨でも、残虐な面ではなく昔から鯨を大切にして感謝しているという文化を紹介したところ、納得してくれたというお話も聞きます。
全てはお互いに理解はできないのかもしれませんが、正しく情報を発信して相互理解できるように努めるべきだと思っています。
度々申し訳ありません
訂正させてください
(誤)乳母らしい文化→(正)素晴らしい文化
ピンバック: カオス*ラウンジ 泥沼バトルの 根底に見た 現代美術界の憂鬱 - 示現舎