大阪市の生江同和地区は、かつては荒生という名前であった。正確には 荒生が部落というわけではなく、荒生の中にかつての穢多村があったのである。
1918年には250戸、1935年には574戸、履物修繕や土方をやっていたとされる。
かつての解放会館から探訪を始める。ここも既に閉鎖されており、荒れるがままになっていた。
古い掲示物がそのままになっている。
民生委員の住所氏名が掲示されている。
こちらは保育所で、運営中である。
ここも公営住宅が立ち並んでいる。駐車場の料金はご覧の通り。
建設現場があったので、何を建てているのか見ると、公営住宅の新築中だった。ここは、青少年会館と古い市営住宅の跡地である。
この特徴的な形の建物は、青少年会館に付設されていたプールである。無論、この施設も閉鎖されており、いずれ取り壊されることになるだろう。
掲示物に人権だの同和だのといったものはない。
これは子安地蔵尊。
この建物は生江診療所。
ここは商業ビルが建設中である。
生江という地域は南北に長い。生江3丁目のうち、城北公園通りの北側が部落に該当すると考えられる。城北公園通りの南が荒生の本村であり、さらに2丁目は本村の住民が所有する田畑であったと考えられる。
旧本村地域にはマンションやアパートが建っている。
この廃墟はいかにも昔ながらの地主の家といった佇まいで、無論、ここは部落ではない本村に当たる。
町内会は「生江三東」。部落は北西にあったので、西に対する東ということで、生江三丁目でも部落でない場所は別の町内会に所属している。
この蓮生寺は浄土真宗本願寺派だが、部落ではない本村の寺だ。本村には豪邸が多く、表札はほとんど「寺西」だ。同じ名字のが多い場所は、むしろ部落ではないのである。そして、生江にしても荒生にしても、本来は部落の地名ではないのだが、いつしか部落ないしは同和地区を指す名前になり、部落ではない方を、この地域のように「東」を付けて区別して呼称するようになった。このような現象は西日本の同和地区においては、しばしば見られる現象である。
そして、こちらが部落の寺、常宣寺で、本村と同じく本願寺派である。1397年に開基された歴史ある寺だ。
寺の裏側に明治18年の地図が掲示されていた。葱生城があったということを紹介するもので部落ということは書かれていない。これを見ると、寺がある辺りは荒生村の北西にある別の集落として書かれている。
江戸時代はまさにそのまま「穢多村」と言われ、明治後期には「西荒生」と呼称されたようである。
この観音菩薩は、大阪空襲の犠牲者を供養するものである。生江も大阪空襲の被害を受けた。
犠牲者や寄付者の名字は様々であり、本村とは違って、部落には各地から様々な人が移住してきていたことが推定される。
生江は北口末広前解放同盟大阪府連委員長の出身地とされるが、北口という名字は見当たらなかった。
自然浴さんぽ路というアトラクション。凸凹になっており、靴を脱いで踏めということだが、野ざらしで、木の葉や土で汚れていた。
隣接する赤川は未指定地区らしいですね。
穢多村に隣接する非人村でしょうか。
赤川が未指定部落という根拠はどこから?
赤川は未指定地区ということについて、何か文献はありますか?
大阪の未指定部落の噂はウソもマコトも真相不明も色々聞きます。いったいどこがどうなんだか?調べてもなかなか分かりません…
>犠牲者や寄付者の名字は様々であり、本村とは違って、部落には各地から様々な人が移住してきていたことが推定される。
生江は北口末広前解放同盟大阪府連委員長の出身地とされるが、北口という名字は見当たらなかった。
→これは本籍地を移して後付けで部落民になることを許さないという某解放同盟の見解に対しての反論ですね?
はい、たぶんあの方は近世から由緒ある被差別民の子孫ということはないのではと思います。
北口姓が最も集中している高石市取石2丁目は夙村だとか非人宿だとかいう説がありますね。北口末広は、他の部落から移住した者の子孫という可能性もあります。
東口、南口、西口の各姓はいずれも大東市北条に多いのが興味深いと思います。何か由来があるのでしょう。
「和泉の国取石の非人で徴した取石宿非人の起請文を」云々という記述が石尾芳久『民衆運動からみた中世の非人』92ページにあります。
「取石池の西側堤を熊野街道(小栗街道)が通り、それに沿って「非人」が集住した取石宿が存在したと推定される」と『歴史民俗学 25号: 特集=陰陽師の末裔たち』67 ページにあります。
高石市取石に非人系の未指定地区があった可能性は高いのでは?
個人的にな沼守姓の方が気になります。あれは明らかに取石特有の名字で、しかも取石以外には全くといっていいほど見られません。
一度現地で調査してみたいと思っています。
日本姓氏語源辞典にある通り、やはり方角と出入り口という意味なのではないでしょうか。
生江は某開放同盟の象徴的文化人であった野間宏の長編小説『青年の環』の舞台になったところです。
作者の野間宏と重なる主人公は大阪市役所の融和事業を担当しています。部落には「日本の如何なるところにも見いだすことことのできない“人間”に対する愛があった」とか「部落には日本の労働者さえももっていないような“人間尊重の心”があることを知って力を得ることができた」とか主人公は述懐します。人間の世界にはどこの世界でも、愛があれば無情がある、という常識がこの人にはないのか、この人は本当に文学者なのかと大いに疑問を抱きましたよ。ちなみに、主人公は「特殊部落の人々」という言葉を使っています。戦時下の大阪市の融和事業の担当者がそんな言葉を使いませんよ。岩波文庫『青年の環』(書店には並んでいないと思います)第1巻にちゃんと書いてあります。お暇なら探してみてください。
野間宏は少年時代に千日前の盛り場で悪質な靴磨きの集団に引っかかり、身ぐるみ剥がれそうになった体験から「部落に対する恐怖心があった」と「大阪の思い出」で書いています。その靴磨きが部落民だとなぜ判断できたのか不明ですが、要するにそういう不自然な「部落すばらしい論」の裏側にあるのは、たいてい部落に対する恐怖心です。
野間宏自身が部落を怖いと思っており、内心では差別していたからこそ、それを隠そうとして無理やり部落を賛美するわけです。部落外から解放同盟に協力している人によくあるパターンです。
大坂での穢多と非人の関係は、江戸とは違います。荒生に一番近いのは天満の非人村。
現在の毛馬町の由来は、大坂の馬を洗う場所だった事。
再度、古い地図を調べて見ますが、赤川町は江戸期には大きな集落が無かったはず。