志太郡、豊田村、三ヶ名、□□
○広いゝ田畝の中に、一村をなして居る。十五戸ばかり。村の東端であるが、路線筋ではない
○鎮守は稲荷神社であるが、造りは堂造りである。鳥居はない。地神様が合祀されて居る。堂造りであるから、昔は白山堂であったらしいが、不明である。
○農家で、草履作りは副業である。
○我々は田中伯耆ノ守の配下として此地へ土着した。其時は此辺一面の竹藪であった。その竹藪を拓いて屋敷を構へた。
家の周りに一面に田螺を引いた。之れは夜中でも他が来れば分かるからである。草分けを大家と呼むで居る。先祖は源六萬六と言ふ名であったので、土地の人は源六米、萬六米と称へて初穂を出して居つた。 稲荷祠は大家の神様である。地神様を祀つたので、この村に嘗つて火災のあつた事はない。祭りは十月二十一日である。
焼津の漁師は此地神様に祈願すると、大漁があるとて、折々生魚が沢山供げられる。昔大家には古文書があった。夫れは江戸の弾左衛門から、今度長吏支配職になったとの挨拶状であった。
この曲輪の言葉と、伊豆の新島の言葉と似て居る。爺婆(オヂオバ)、若嫁(アンネ)、娘(アマニイ)などが夫れで、などか土地の人とは言葉が少しく違ふ。豈夫新島から附いて来たわけでは無いであらう。と仲々面白い伝承を有って居る。 弾左衛門からの書状は既に無いとの事であった。
鎮守の外に、四間四面の祖師堂が建立されて居る。廻り一丈程の黒松があるから,法華の信仰も新らしいものではない。墓石には元禄前のものはない。
菊池山哉『長吏と特殊部落』
三ケ名南交差点のこの地下通路を通って部落へ向かう。実のところ、この場所も一応部落内なのだが、開発されてほぼ昔からの家はなくなってしまっている。
やや空き地の多い一角だが、かつてはここが村の中心部だった。今はむしろ、かつて田畑だった周辺地域が新しい住宅地になっている。
戦前の戸数は23戸。菊池山哉が記録した15戸は戦中か終戦直後のことであろう。
墓地を見る限り20戸程度で、過去の記録と矛盾はない。宗派はやはり日蓮宗だ。
ここは未指定地区ではなく、間違いなく指定同和地区だ。あの特徴的な建物は同和施設である教育集会所。ストリートビューで時間を巻き戻すと、周辺の空き地にはニコイチ住宅があったことが分かる。小集落改良事業が行われていたのである。
ただ、住民に聞いてみると、もはや部落だとか同和地区といった認識はない。
教育集会所は、正確には元教育集会所で、今は自治会館になっている。周辺100世帯くらいの自治会が使っているもので、「元は焼津市のもので自治会に譲渡された」のだそうだ。
自治会館の駐車場の向うに鳥居が見える。
これが、菊池山哉が記録した稲荷神社だ。
菊池山哉は、この神社は表向きは稲荷神社であるが、実は白山神社であることを示唆している。住民によれば年に1回の祭りの時に5分程度だけ開帳され、御神体は着物を着た人形だという。
氏子の名字は増田、杉山など。確かに、過去の記録の水平同人の名字に杉山がある。
ただ、誤解のないように書いておくと、杉山・増田という名字は焼津市にはもともと多く、部落に限って多い苗字ではないということだ。
住民の入れ替わりが多く、現在では稲荷神社の氏子は自治会館のあるブロックと西側の2ブロックのみ。しかも、その中の4世帯だけだという。寺は藤枝にある日蓮宗宗傳寺だが、その檀家が稲荷神社の氏子と一致するので、それが現在の部落の世帯数と言えそうだ。
とすると、もはや部落は解体され、融和していると見るべきだろう。
なお「四間四面の祖師堂」は見つけることができず、知っている人もいなかった。
この公園は同和事業に伴って作られたと考えられるが、文字通り「みんなのもの」になっている。
ちなみに、公園の近くには太陽光発電パネルがある。
なお、近くにある杉山安商店は魚河岸シャツで有名な、地元のちょっとした名物店である。
この日も、子供用の魚河岸シャツを買いにきた親子連れで賑わっていた。
過去のストリートビューを見ると空地はニコイチ住宅がありますね
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改良住宅1号(小集落改良住宅) – 焼津市三ケ名412番地
改良住宅2号(小集落改良住宅) – 焼津市三ケ名305番地
こちらが存在していたようです
「我々は田中伯耆ノ守の配下として此地へ土着した。」
田中伯耆ノ守とは、駿河田中藩主である伯耆守を指しており、駿河田中藩主で伯耆守を受領名としたのは、本多正珍(まさよし:藩主期間1735年~1773年)と本多正温(まさはる:藩主期間1777年~1800年)の二人いるが、おそらく本多正珍と思われる。すると1735年(享保20)頃に、この三ケ名に土着したのでは。
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>鎮守の外に、四間四面の祖師堂が建立されて居る。
>なお「四間四面の祖師堂」は見つけることができず
宗傳寺HPの『宗傳寺の宝物』に「下記の仏像は焼津のお堂(宗傳寺別堂)にあった仏像である。お堂廃止により引き上げた仏像であり…」とある。山哉が見た祖師堂は宗傳寺別堂だったと思われ、その後に廃止となった様です。
http://web.thn.jp/soudenji/houmotu
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凄い、よく見つけましたね
質問です
栗須さんってツイッターにある1882年生まれだったら
141才になるけど孫かなんかが引きついでやってるんですかね?すいませんスレ違いで。文面読んでると全国の役所・警察・部落関係にも顔が効く謎の人物ですね。それなのにわざわざ部落紹介してる?わからない?後宮部氏は自ら鳥取の部落民だって言ってるのに、関係者がお前は違うと言ってるのは何故ですか?全国の部落の人が本家部落探訪やり出したら関係者はお前ら部落民じゃ無いって言うのかな?
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栗須さんの正体はどこかの役所の職員という噂はありますが、私も本当のところは分からないです。
宮部さん
後半の質問にしっかりお答えしたほうがよろしいかと。
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見解の相違でしょう。裁判所は、地名が部落と一致すれば差別対象だと言っております。
鳥居奉納者一覧に商店の方と、改良住宅のお隣さん同士の方が、昔のゼンリン地図にも載っていました。小さいですが手入れもされていて、大切にされているお社ですね。
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