日本会議、森友学園… 元解放同盟員・菅野完に メディアが忖度!?(中編)

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By Jun mishina

奈良県天理市を取材している最中、まさかこれほど早く森友学園の追及サイドが散漫になるとは想像すらしなかった。誰かタオルを投げてあげたら? とすら思う。森友学園で安倍内閣打倒を掲げるも、物の見事に不発弾。そして迷走する野党と市民団体。4月16日に開催された「森友デモ・安倍退陣要求国会正門前大集会」で、安倍首相夫妻を刑事告発する「森友告発プロジェクト」(田中正道代表)が結成された。プロジェクトは、著名文化人も共同代表に加わり、一口1000円のカンパが呼びかけられた。

ところが告発状を東京地検に提出しようという直前、「担当の弁護士やプロジェクト関係者が提出をめぐり弁護士会館の前で言い争いを始めた」(市民団体活動家)という。告発状の提出をめぐり内部で対立が発生したらしい。何があったのか? 告発プロジェクト内部では、主戦派と慎重派で二分していたという。

慎重派は「告発した場合、国会で首相を追及しても“刑事事件になっているので答弁を控える”と言質を与えてしまいかねないから」(前活動家)だそうだ。プロジェクトには“新しい質問”を用意しているという議員も関わっており、追及できなくなるという意見もあった。このため刑事告発は延期されたというのだが、そもそも告発状が受理されるかどうかも疑問だが…。にしてもあまりに“どっちらけ”な顛末である。ここまでは、政治団体や市民団体にありがちな“内ゲバ落ち”というもので、珍しいことでもない。問題は、告発をめぐって菅野完氏も団体側に「見送り」を要請していたことだ。森友学園問題で理論的支柱である菅野氏はツイッターで、プロジェクトの代表の田中正道氏の素性をこう明かした。

エンコ(*指)飛ばしたこと自慢し、懲役24年行ったことを自慢する田中正道なる元ヤクザに、「殺すぞ」と言われたので、110番しました。あーこわいこわい 2017年4月19日

こうなると関係各所の梯子外しは速い。賛同していた政治家、ジャーナリストといった人々が続々とプロジェクトからの離脱を表明していく。もともと「左」「右」に関わらずこうした運動は一種の流行り風邪のようなものだ。瞬く間に熱をあげるが、引くのも早い。自身で情報の取捨、精査をすることなく話題のキーワードに反応してしまうことに原因があるだろう。その点“情報強者”の菅野氏は余裕が違う。

天理市石上の住民はこう話す。

「森友学園の話が盛り上がっていた頃、嫁が“ニュースに出とる人は菅野さんのところのお子さんなんやて”というから驚いた。3月やったかな、忙しいやろうにお婆さんの三回忌で石上に家族と来とったよ」

3月と言えば森友学園問題が最もヒートアップしている時期。後に菅野氏に確認しているとやはりこの時期に天理市を訪れていた。現在は東京に在住する菅野氏だが、天理の故郷を大事にしているのだろう。前置きが長くなってしまったが、天理からのレポートに話を戻そう。

 天理のケネディ家!? 県政、市政に菅野グループ

JR桜井線(万葉まほろば線)に揺られる。「京終きょうばて? 帯解おびとけ? 櫟本いちのもと?」難読駅名が面白く、旅情に包まれた。目的地の櫟本駅は無人の小さな駅だ。国道169号を目指し、しばらく歩くと天理市立櫟本公民館があった。「心から差別をなくし明るい社会」と書かれた横断幕が掲げられている。予備知識として部落があるのは、石上で、櫟本は地区外と聞いていた。まあ何しろここは奈良県。地区内外は別にこうした横断幕は普通の光景なのだろう。

石上の部落については、『天理市政』が詳しい。戦前の内務省時代、「細民部落調査」が実施された。天理市は、1915年に行われており、調査記録は石上と嘉幡かばたのものが残っているという。「この調査は差別と偏見の眼でとらえられたものであるが、そのころの生活実態の一端を明らかにしたものもあり、ここではその内容と問題点のみを紹介しておきたい」という前書きがなんともわざとらしい。

記録によれば、石上の戸数は、九二戸、人口四六七人、内男二四四人、女二二三人で、年間の人口増減は出産児一四~五人に対し死亡者五~六人、部落内の出入寄留者も数人程度で「差引大差ナシ」とあるから、およそ10人前後の増加である。また一戸平均は五人家族となっている。職業構成は、農業二二戸、商業一一戸、工業(履物関係)三〇戸、其他(日稼、雑業など)二九戸で、農村部落であっても農業は二四パーセントをしめるだけ、三二パーセントは生計をたてるのに定職がないという状態におかれていた。そのうち土地家屋の所有は四七戸の半分にもおよんでいるが、いわゆる土地所有だけで生活できない。ただ農村部落であるという点から、都市部落にくらべて、借家や間借者が少ないというだけである。

こういう歴史を歩んだ町だ。そして櫟本から菅野氏の親族が住むという石上へ。国道169号を歩くとラーメン特集などで紹介される「天理スタミナラーメン本店」がある。通称“天スタ”で知られる同店は、奈良県の間で彩華ラーメンと人気を二分する。ここを過ぎた地域が同氏の生誕地でゆかりの地である。

取材前の予備知識は、菅野氏のご尊父も議員で、親族にも議員がいるということだった。

そこで土地の選挙事情に詳しい人物に話を聞いてみた。

「親族に議員がいる? というよりも菅野グループと言ってもええんやないか。菅野さんの一族は、県議会、市議会に合計8名を出してるわ。完さんのお父さんの幸博さんは一期務めたよ」

幸博氏は、1995年4月当選。町内で水道店を経営していた。無所属議員で同氏によれば「保守系になるんかな」ということだが、解放運動歴について聞いてみると「そういうことはない。聞いたことないな。おじいさんもごく普通の天理市の職員だったしね。水道課だったかな」とあっさり否定した。それにしても華麗なる一族だ。

「天理のケネディ家じゃないですか」

大袈裟だが、こんな風に評してみた。

するとこの人物は「まあケネディかどうか知らんが」とした上で、「確かにここ最近、菅野一族の議員さんの顛末は気の毒だ。そういった意味ではケネディ一族と似てるなあ」と。

ケネディ家も、ジョン・F・ケネディ元大統領の暗殺など、一族に悲劇が起きた。菅野姓の議員たちも議員失職後はあまりいい人生ではなかった。

「幸博さんは政治家として何か主張があるというタイプじゃなかった。要するに菅野姓だから周囲に押されて議員になった感じ。ところが借金を負って、家まで売ってしまった。実家? 今行っても無駄や。他の人が住んでるよ」(同氏)

また幸博氏の遠縁に当たる菅野茂氏は、国道169号沿いにあった菅野建設の社長で、天理市議だった。2000年には1年間、天理市議会副議長の職にあった。ところが2007年、この年の統一地方選挙で支持者への供応容疑で逮捕されて失職。支持者の一人がこう証言する。

「言葉使いやら乱暴な人だったが、議員活動も熱心だった。高山のホテルに支持者を集めて旅行したんだけど、市内でハンバーガーをたくさん買って宿舎に入る姿を写真に撮られてしまった。これが“供応”の証拠写真の一つとして警察に提供されたそうだ。そんな姿を撮影できるということは茂さんの行動を知っている人。つまり支持者の中から裏切者が出た、ということや」

失職後は、家業に専念するが、4年前に作業中に事故死。そして菅野建設も倒産。元従業員によれば「辞めた社員は、市内の近所の設備会社に再就職したのもおるね。その会社の経営者の菅野茂さんの親族だよ」という。

また茂氏の従弟に当たる菅野豊盛氏も市議職にあったが、茂氏の逮捕を受けて、「菅野の名では票が取れなくなった」(親族の一人)で2015年の選挙で落選。経営していた建設会社「菅野組」も廃業した。

名阪国道近くに菅野氏の生家が。ここが部落かというと…

菅野氏と石上、そして天理の解放運動とは

菅野建設と菅野氏の生家の近くを走る名阪国道から南に走る市道北大路線にかけて、経営者と議員を兼職した菅野一族が集中していたことが分かった。ところが一様に議員失職と社業も廃業という結末だ。共通するのはいずれも解放運動の関与は確認できなかったこと。それに菅野氏は、前回紹介した通り「俺、七十四年生まれの部落やねんけどな、二十五の時に結婚し損ねたことがある」(2013年4月30日)「両方の祖父の代で金掴んだ家で親父が土建屋してて金は唸るほどあるし祖父の代からの資本蓄積もあるけど、勤め人の家の奴からエタ呼ばわりされ」(2012年5月21日)と生い立ちを語っていた。

議員を多数輩出し、会社を経営する一族がエタ呼ばわりされるという状況がどうもイメージできない。もちろん解放同盟やその他の解放運動団体に所属しながら、議員を務める議員は存在する。しかし菅野氏の父、幸博氏、茂氏、豊盛氏の政治歴から「解放運動」を読み解くことができない。しかも父親を始め、党派は無所属と言っても保守系。茂氏は、晩年こそ無所属議員だったが、当初は自民党が会派だ。

もちろん自民党であっても、解放運動に理解を示す人は少なくない。というよりも政治家である以上、「同和問題」は何らかの形で関係することになる。しかしそれは運動体の組織内候補でもない限り、「議員」としての一種の通過儀礼あるいは“お約束”に過ぎない。菅野一族の議員たちも市内に部落を抱える以上、多かれ少なかれ取り組んだことだろう。しかし血眼になり解放教育を訴える…そういう種類の政治家ではなかった。

しかも住民たちに石上、櫟本の解放運動についてもどこか冷めた反応だ。

「そりゃ昔はあったけど今はあまり聞かないな。むしろ激しかったのは、勾田町まがたちょうの方やないか。部落と地区外の人が祭りのことでケンカしたりね」(石上住民)。

菅野氏の実家の近くには、「天理市人権センターやわらぎ」(石上町)がある。周辺住民の反応もこのようなものだ。ちょうど菅野氏と同年齢ぐらいの男性は「解放運動が盛んだったか? うちら小学生の時でも何が部落やなんやってよう分からんやん。あの子(菅野氏)もおじいさんの家に遊びに来た時に俺も“ヨっ”と挨拶するぐらいだった。子供の頃、ヨソから来た子でも年が近かったら声ぐらいかけたでしょ。オタクもそうと違うの」と話す。

菅野氏は部落出身を公言しているが、それは「石上町」に実家があることを根拠としていた。しかし当の住民たちは、石上の住民とは見なしていないようだ。それに「私は被差別部落の出身者なんで、若い頃、地元で解放同盟に参加してましたよ」(2012年7月17日)という発言も残している。

ここで言う「若い頃」とは、おそらく高校時代にあるいは、成人してからの運動のことを指すのだろう。菅野氏は、この地を離れ大阪明星高等学校に進学することになるが、同校で解放運動に関わったのだろうか。フェイスブックのプロフィール欄には、出身大学がテキサス大学オースティン校となっている。しかしテキサスの地で「部落解放を叫ぶ」というのは、興味深いが、これも考えにくい。

東京千代田区・日比谷野外音楽堂(通称・野音)では狭山闘争の集会が開催され、親に引率されてきたと思しき中学生や高校生の姿を見かける。しかし彼らの参加は「自発的」というよりも「親の意思」が大きいだろう。それにかつての同和奨学金は、部落解放同盟の活動への参加と引き換えに支給されてきたという側面もある。より自発的というよりも「動員」という性質が強い。残念ながら運動歴の詳細について、本人から聞くことができなかったが、「同盟員で極左」という過去がどの程度のものだろう。少なくとも「地元で解放同盟に参加」の「地元」とは石上ではないはず。小学生で極左というのも考えにくい。おそらくは高校から成人した一時期に解放運動を“かじった”程度ではないだろうか。

確かに菅野氏の母校、櫟本小学校は、天理市同和教育推進協議会の一校だった。現在、同協議会は「天理市人権教育推進協議会」に組織変更している。櫟本小学校校区では1975年7月3日に協議会が結成されていることから、菅野氏も「部落民」というアイデンティティを持ったのもこうした背景があるかもしれない。

ただ繰り返すが、菅野氏と同年代の石上の住民が「部落やらよう分からんやん」と言ったのがどうも耳に残る。それほど激しい運動が行われてきた地域なのか、と。この地域では、かつて但馬たじま義雄よしお(故人)という人物が解放運動の中心人物だった。

「94歳まで支部長を務めていた」という名うての運動家だった。「ウチ、あの人、嫌い。お金のこととかね…」という住民の証言で大方の事情は察した。問題は、それほど高齢まで支部長を務めたということは、逆を言えば後継がいなかったことを意味する。つまり解放運動の担い手がいなかったことの証左だろう。

しかし行政関係者は語る。

「そりゃ今は運動も静まりましたよ。だけど昔は激しいものでした。もし今、それほど運動熱を感じないならば、但馬さんは「NPOなら人権情報センター」側、つまり“山下派”だったからとちゃいますか。天理はずっと山下派ですよ」

山下派。通称、山下県連。現在は、奈良県議で、NPOなら人権情報センター副理事長の山下力氏が率いる一派。同氏は自著『被差別部落のわが半生』の中で過去の運動歴について反省を述べている。部落差別については「差し迫った課題ではなくなった」という立場を取る人物だ。

解放の故郷、奈良と言っても運動団体は一枚岩ではなかった。1982年、部落解放同盟奈良県連合会委員長の職にあった川口かわぐち正志しょうしの土地転がし事件を契機に当時、連合会幹部だった山下と不和になる。1993年には、川口と山下はお互いを除名処分にし合う「山川戦争」が勃発。山下は、1989年、奈良県天理市立西中学校で暴力糾弾事件を起こしたほどの武闘派だったが、2000年、NPOなら人権情報センターを結成し、暴力糾弾を放棄した。

今でこそ暴力糾弾を否定する山下派ではあるが、川口派の運動家によれば「やってきたことは川口さんと大差ない」と話す。また共産党系の部落問題研究所からも同様の批判がある。

山下派、川口派、土地転がし、菅野氏が小学生時代にこうした事実を理解できたと思えない。そして菅野氏のツイッターに登場したもう一人のキーパーソンを紹介して、とりあえず次回に譲るとする。

はい。縁戚です。留次郎翁の妻は、僕の祖父の姉です。だから、僕からみて義理の大叔父です。(2016年6月27日)

この留次郎翁とは菅野留次郎(故人)。水平社の活動家で天理市議会議長を務めた人物である。そして菅野一族が政治に関わる祖と言ってもいい。一族きっての名士なのだが、留次郎氏との関係もずいぶん遠い。親類から見ても深い関係とは見なされていなかった。(次回に続く)

天理市議会議長を長く務めた菅野留次郎氏が前栽小学校創立百年記念誌に寄せた一文。

Jun mishina について

フリーライター。法政大学法学部法律学科卒。 月刊誌、週刊誌などで外国人参政権、人権擁護法案、公務員問題などをテーマに執筆。「平和・人権・環境」に潜む利権構造、暴力性、偽善性を取材する。

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日本会議、森友学園… 元解放同盟員・菅野完に メディアが忖度!?(中編)」への4件のフィードバック

  1. うんじゃらげ

    ノイホイは20歳でテキサス大学オースティン校に入ったようですが、それまで日本のどこかの大学にいたのでしょうか?

    返信
    1. 三品純 投稿作成者

      そのお話は次回の宿題にしたいと思います
      ご一読ありがとうございました

      返信