『佐久町誌 歴史編2 近世』によれば、佐久穂町の高野町には承応3年(1654年)に牢屋が設置された。その牢番をしていたのが穢多の人々である。当時牢番の家は5軒あり、牢番の対価として、周辺の村の負担で入牢者の数に応じて籾や給金が支払われていたという。
また商人や百姓が米穀を売買する「六斎市」と呼ばれた市場の警備、死牛馬を処理して皮革にするのも牢番の役目であった。市場では店賃に加えて穢多の牢番と番太に給付する警備費が徴収されていたという。
『佐久町誌 歴史編2 近世』には牢屋があった時代の高野町の家並みが図示されている。生徃院は現存しているし、陣屋跡も史跡として残されている。
問題は、牢屋があった場所だが、この「バラ公園」の付近である。
この旧街道に面する高野町公会場の向かいの辺りだ。
柴田道子『被差別部落の伝承と生活』にも、この部落のことが出てくる。高野町相生、俗称は下庭と言い、明治初年は7軒、後に26軒に増えた。狭い場所に家がひしめき合った貧しい村だったという。昭和初期には23戸という記録もある。部落解放同盟長野県連合会『差別とのたたかい 部落解放運動20年の歩み』でも地区名は相生町とされ、戸数は33。
『被差別部落の伝承と生活』によれば、元は伊早坂という名字だったが、「伊早坂という名が当時いろいろと新聞沙汰になるので」改姓したとう。当然、伊早坂という名字を現地では見ることはできない。そこで役立つのは補集合を見ることである。この宿場町には「高見沢」という名字が多い。その分布が上の画像である。郵便局の西のブロックが牢屋跡である。空白地帯になっているのが分かるだろうか?
その空白地帯では、山田 山本 田中 星野 山崎 松田 高橋という、平凡な名字が目立った。それらの分布を配置するとこうなる。全国的には平凡な名字だが、高野町では比較的少ないので、このように浮かび上がってくるのだ。
宝永4年に籠守の太兵衛が五郎兵衛新田に、元文5年に添番の彦兵衛が沓沢村に移住した記録がある。山崎は沓沢の部落に多い名字で交流を伺わせる。また、五郎兵衛新田には高野姓があり、高野町との関連性が推察される。
奇しくも、高野町祇園祭寄進者の名前が張り出してあった。高見沢と、さきほどの平凡な名字が混じっているように見える。これは融和しているのではないだろうか?
『被差別部落の伝承と生活』によれば、伊早坂は群馬県に多い名字で、もともと牢番が今の群馬県の下仁田から派遣されたためだという。
昭和になるまでどこの寺の檀家にもなっていなかった。
また、ここでもかつて「おたんぽ」という言葉があった。死んだ牛馬は法律上は焼却すべきところを、巡査も黙認していて、大鍋で豪快に煮て食べていたという。
そして、信州の部落と言えば白山神社。ここでは「権現さま」と言い、付近にはけやきの大木があったが、大正の末に村が貧乏したために切って売ってしまったのだという。
しかし、それによって罰が当たることはなかった。御神木が村を貧乏から助けてくれたのである。
しかし、戦時中の祭りの際に神主を招かなかったところ、腸チフスが流行して村人が5人死んでしまった。村人は権現さまがわざわいをしたと恐れたという。
現地にあるこの小さな祠。これは単なる屋敷神だろうと思っていたのだが…
中に、はっきりと白山大権現の文字を読み取れた。
大変な魔力のある白山神社のようなので、えせ同和撲滅を祈願しておいた。
ここは菊池山哉も訪れている。
○高野の町は、其名の如く、千曲川より一段高い広野にある。町の為め其北口を扼して居るが、原村のそれの如く、要害の地ではない。卑地である。
○白山神、祭日四月十二日
○日傭が多く、三十戸ばかり密集。
○甲州往還の発達につれて、高野に町、つまり市を生じ、其取締りに頼まれた。それが曲輪の発祥である。それが何時頃の事か分らない。
ただ、同和地区と言われているのは、むしろここから少し離れた場所らしい。火事で焼けた家を尻目に、そちらの方に行ってみた。
なお、火事では1人が焼死してしまったとのことだ。
旧牢屋からすこし西に行ったこの場所、変わった形の建物がある。
看板も何もなく、閉鎖されているようだが、見たところ集会所である。実はこれが「佐久穂町同和教育集会所」である。同和施設だ。
付近に神社がある。
これが諏訪神社だ。ただ、氏子の名字の傾向から、これは部落の神社ではないと判断した。
境内にはなぜか、呪われた人形みたいなものが置かれていた。
神社は小高い場所にある。
その諏訪神社の隣の丘にあるのが八幡社だ。
これが部落の神社であろうと推定した。
高見沢と平凡な名字が混じっている。これは融和しているのだろう。後で聞いたのだが、ここは高野町と隣の久保田地区が一緒に氏子になっているのだそうだ。
牢番や警備の従事者が被差別身分なのは強引な捜査や自白強要、拷問等で庶民から恐れられていたからですかね。
#4941d4f3c32d56198e7d91888d1fb58f
百姓の足抜けなんかも取り締まっていましたよ。
仕方ないですよ
御上の指示ですからね。
維新後、大名や高級武士は逃げきってますね。悪いのは部落民と言う筋書きどおり。自分たちはのうのうと華族なんてね?
これは維新後の部落差別の一因にもなってますね。
#a30f1e33e118f0e8f3f4e2beafe9dc78
仕事の内容としては武士の方がエグいですよね。
人を沢山殺して領土を拡大するのが仕事ですから。
穢多非人が住んでいた地域に戦後になってからたまたま住んでいる、それとは無関係な人たちが差別を受けて武士の子孫が差別を受けないというのは何故でしょう。
#4941d4f3c32d56198e7d91888d1fb58f
そのへん、宮部氏は知らんのだよね!
間違いが多々ある部落の紀行文を書く程度じゃあね!
侍帳なんか読むと、下級武士的に記述されていることもあるし、
#891d31fb4f6f117e5c79898f6c3ac630
百姓の足抜けの取り締まりもすべてに当てはまるわけではありませんのでご留意ください。
江戸期の部落の一例(地域ごとに歴史が違うので)として死牛馬の取得特権なども、興味深いものがあります。
皮は太鼓、武具、衣、履物などに加工。骨はソロバン、内臓などはニカワなどなど、、、、部落民の収入源でした。今も同和系産業で多く見られるように受け継がれています。しかし、すべての部落に当てはまるものではありません。部落の歴史は千差万別です。また、死牛馬取得特権による収益で潤ったのは弾左衛門に代表される一部の者だけで、他の人は貧しかったようです。
宮部氏は以前、古文書は苦手だと言ってましたが部落問題を生業とするならば、是非古文書に精通して下さい。訳本なんて部分的だしごくわずかです。私も私の部落に関する古文書を暇なときかじった程度で偉そうなことは言えませんし、文書探しも大変です。宮部氏の限られた資料、単発的な部落訪問で得られる知識・情報は宮部氏が訪問しなくとも、ほとんどオーソライズされていますし、宮部氏の私見から間違いもあります。ぜひ、訪問の折には役所・郷土史家・教委・図書館・神社仏閣などを訪問し、確かな歴史感・部落差別の深堀をしてください。
このことは同和団体にもお願いしたい。宮部さんにはぜひ下味野からお始めいただきたいですがね。
宮部さんに訪問を辞めてくださいと言っても辞めないのでしょうから、間違った情報や、思い込みによる誇張した情報を流すことは止めて、以前の冠のように学術・研究に徹していただければ幸いです。
部落問題を正業とする宮部さんだから敢えて。構成員が部落民総数の数%しかいないであろう解同や他同和団体VS示現舎は、団体等とは関係ない90%以上のごく普通の部落民を巻き込まない、迷惑をかけない事を念頭にご自由に。
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白山のび太 2023年11月3日 12:44 PM >宮部さん、 故郷の下味野の訪問はいつですか。 大きなお世話だよ!(怒)
だって!
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白山氏には 笑わせてもらいましたね((笑))
下味野に宮部氏は行くでしょうね。彼の主張から彼が避ける理由が無いからね。
宮部氏は下味野に行くには準備が大変と言ってたから準備が出来次第行くでしょうね。彼の1丁目1番地の下味野に訪問してないのがおかしいくらい。
しかし準備って何するんだろう?、他の部落は準備不足で訪問?だから間違いもある?他の部落に失礼でしょうね。
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