『差別とのたたかい 部落解放運動20年の歩み』によれば、旧東筑摩郡本郷村浅間に古村がある。俗称は堀道、戸数は27軒。
この地名は、部落解放同盟長野県連合会が1967年に公刊した同書にも掲載されているもので、アウティングではない。別の記録では、昭和8年に13戸73人。
浅間温泉の背後、山の中腹にあたる一帯である。前回の松本市岡田のクエストで触れた通り、岡田の深井組から分かれたと伝わる。

菊池山哉は『長吏と特殊部落』で、こう記している。
五、本郷村、堀道、□□
-○淺間温泉背後の山の中腹で、街道筋とも見えず、他と少しく異る。
○白山神。
○一ヶ所密集、十餘戸。
○天正の頃、岡田の深井から出たと云。そこで此曲輪の人は全部其姓深井である。墓に天正十五辛亥年二月祐三日と自然石に彫り付け、祖先の墓として祭って居る。
頭目深井家に
信州松本深志御城側之長吏
代々川本之子孫深井愛右衛門川成也
天正二年 月 日
小笠原大膳大夫長時 子孫迄御役被下難有候
との文書があるとの事、随分頼むで見たが、見せて貰へなかった。何處まで眞か分らない。深志ノ城とは松本城の事である。
小笠原長時は天文二十二年に武田氏に滅ぼされて居る。長時の深志入城は天文三年であるから、天正二年は天文の誤りであらう。若し天正年間とすれば其子の貞慶であるが、貞慶の深志入城は天正十年である。
以下は風説を聞いて、曲輪中の老人や物識りが、頭目の家へ集っての物語りである。
一、こゝの墓場は、昔の大隆寺趾である。大隆寺は小笠原家の菩提寺で七堂伽藍完備して居ったが、天正年間小笠原貞慶深志の城を築くに當って、取毀して用材として仕舞った。
二、安曇郡烏川村下堀の長吏長幅須澤と(岩原ノ守の配下)北安曇郡會染村澁民の長吏伊藤多門次(澁民縫ノ守の配下)の二人は木曾義仲の郎黨として從軍した。
三、深井の部落民は凡て石山合戦に従軍した。其時石山寺に篭城したものは、顯如上人から六字の妙號を賜はった。こゝの人は不残有って居る。
四、長吏の祖先は、日本武尊の案内をしたものの子孫と云。それ故に枕を高くして寝られないのが鎌倉の頼朝で、考へた末に四十八職の統領などへ煽て上げて来たものと云。
五、此附近に芦ノ田ノ池、すまその池、栗澤ノ池の三つの池があり大蛇が住むで居った、時に岡田の長吏は深井又藏と言ふ者であったが、苦心して遂に大蛇を退治して仕舞った。爲めに小笠原城主から太刀と盃と感状を貰った。
六、其の又藏の子に小六、愛右衛門、孫平の三人兄弟があった。長男に盃を與へ、次男に太刀を、三男に感状を與へて、分置さした。孫平が淺間の長吏の祖先で、天正十五年に没した人である。
七、孫平は筑摩で出入の大喧嘩となり、切り合ひした儘行方不明となったが、妻女が後をよく守って、今日の淺間の曲輪たらしめた。
八、太刀を貰ったものは、其の奇異に悩まされ、遂に小縣郡別所の北向觀音に納めて仕舞った。松王三郎蛇切丸とて今でも其處の寶物となって居る。
九、松本の長吏大友彦右衛門は、安曇郡の入市村に元居った。大友大之進とて高橋の厄介人となり、義經千本櫻に其名の出てくる人である。大友家から淺間の彌左衛門へ嫁入があった。又小山氏は埴科郡雨ノ宮の出である。
十、白山神社には鳥居のないのが規則である。
以上の通りである。所謂感状なるものは、前記の古文書との事であるが、宛名が又藏でなく愛右衛門となって居る。また岡田の曲輪で聞いた事であるが、當時淺間の温泉が漸く榮え、村から岡田へ長吏の派遣方を願い出て来たが、行く者が無かった。そこで長男が岡田を次男に讓って出たものであると言って居る。
何れが眞か分らないが、天文の頃既に村方の願ひに依って、長吏の分置のあった貴重の傳承である。
この淺間の土地は新らしいものではない。
吾妻鑑文治二年三月の條に
淺間社(平野社領)
岡田郷(今八幡宮領)
とある。即ち平野領であったものが、移って石清水領となったもの、その淺間社が、岡田郷とあるので、この地である事に疑ひはないが、今淺間社は定かでない。地名丈に残る。

現地で聞いてみたが、白山神社のことを知る人には出会えなかった。あるとすれば、古村から水路を挟んだ山の上にある可能性があり、渡れるように松本市が橋をかけたのだが、今は草木が生い茂っていて入れないとういう。

柴田道子『被差別部落の伝承と生活 信州の部落・古老聞き書き』では「浅間温泉の人びと」として、東筑摩郡本郷村浅間堀道、浅間全体1200戸、堀道30戸、そのうち部落11戸、離れた新宅4戸と説明している。ここでも岡田から分かれたものとされる。
同書の聞き書きでは、はじめは2軒で、東の又左衛門川成家と、西の助三家であったという。岡田から分かれてくる時に古い墓石を2基運んできたとされ、元禄以前の年号が刻まれているという。川成の名、深井姓、小笠原家との関係をめぐる伝承は、菊池山哉が採録した話とも重なる。
昔の仕事については、長吏の仕事のほか、温泉の清掃、旅人や豪族の別荘がある温泉場の警護、行き倒れの病人の始末などが語られている。温泉地には人の出入りが多いので、その秩序維持に関わる役割があったということだろう。

深井の分布を見ると、山が迫ったあたり以外にも分布している。移転があったのだろうか。筆者が訪れた場所は特に深井が集中しているが、最近は家が売られてかなり人が入れ替わっているという。もう少し先入観を排除して探索すれば白山神社の跡地が見つかるかも知れない。

浅間温泉で特に重要なのが、仙気(疝気)の湯である。柴田道子の聞き書きによれば、部落の人々は古くからこの土地に住んでいたにもかかわらず、浅間の共同風呂に入れず、別に与えられた湯が疝気の湯であった。
探訪した後に仙気の湯は「居住地より200メートル東上」という記述があるのに気づいた。すると古村はもっと西側にあった可能性がある。

疝気は神経痛や腰痛のことで、文字通り疝気よく効く熱い湯として知られた。今でも湯温は高く、入浴料は400円と安いが長くは入れない。
「乞食の湯」「エタの湯」と馬鹿にされたので、「一般民」も入るなら変なことをは言われないだろうということで、明治以降、部落の側から権利を放棄して一般にも開放した。その結果、疝気の湯は区の管理になった。他の共同湯は昔からの住民が株主となって営業しているのに、疝気の湯だけは部落が持っていた権利が区に移ったという構図である。

『本郷村誌』でも、疝気の湯源泉地は荒湯源泉地・大湯源泉地と並ぶ浅間温泉の主要な源泉地として扱われている。明治10年3月には入湯代を取り立て、学校元資、湯税、普請費などに充てる取り決めがあったとされるので、単なる小さな共同湯ではなく、浅間温泉の歴史の中で位置づけられる湯である。
『本郷村誌』には、浅間部落の城館跡に関する地名として「堀道」が挙げられている。また、明治29年の上浅間大水害では、横谷沢・山田沢からの土砂流出により湯坂・堀道一帯の家屋が流失し、死者2名を出したという。堀道は温泉街の華やかな表側というより、山際の地形や災害史とも結びついた場所である。
民俗の記録でも堀道は現れる。道祖神・三九郎の単位として堀道集団が見え、昭和52年の青山様の巡行例にも堀道の旅館が含まれている。部落という枠だけでなく、浅間温泉の地域社会の中の一単位として堀道が機能していたことが分かる。
柴田道子の聞き書きでは、春の彼岸に東と西の2ブロックが日をずらして先祖の法事をし、松本裏町の長称寺から真宗の僧が来るとされる。人数は少ないが信仰心は厚い、とも語られている。

堀道という地名について地元の人に聞いてみると「そんなのは昔の地名で今は使われていない」ということだ。「ほりみち」と読むらしい。
『差別とのたたかい』には、昭和42年以前に没した地区協議長・支部長として、本郷村浅間の深井栄市の名が記録されている。
柴田道子の記録では、温泉町のすぐ背後にありながら、旅館経営には加わらず、日雇いや旅館の雑用、畑仕事、庭仕事、建て替えの手伝いなどで暮らしてきたという。別の記録でも主業は農業とされる。


古村の奥には広大な空き地があるが、これは、2006年に廃業したウエストンホテルが解体された跡地である。



