曲輪クエスト(347)長野県 上田市 前山

カテゴリー: 曲輪クエスト | タグ: , | 投稿日: | 投稿者:
By 宮部 龍彦

ここの呼称は、東前山、前山第一、藤ノ木、竹之内と複数ある。

戦前は30戸。『差別とのたたかい 部落解放運動20年の歩み』には小県郡塩田町 前山 前山第一 54戸と記録される。柴田道子『被差別部落の伝承と生活』によれば、江戸の末は15か16戸、大正には30戸、戦後には50戸になっていたという。一般の世帯も135戸ある。

菊池山哉は次のとおり記している。

○村の一隅で、特異の点はない。
○白山神、今は塩野神社へ合祀された。
○家造りはしっかりして居る。密集態ではあるが、貧民ではない。二十五戸ばかり。
○西前山に式内塩野神社があり、此辺古村である。曲輪を特に竹ノ内と称してる。館ノ内の義か、意義不明である。

部落を訪れる前に、龍光院を訪れた。坂道を上がったところにある。

開山は1282年、曹洞宗の禅寺となったのが1601年。『被差別部落の伝承と生活』によれば、当初は「部落」と「一般」が同じ過去帳で管理されていた。それが、1729年から「穢多過去帳」として分けられるようになったという。

なお、尾崎行也『信州 被差別部落の史的研究』に、上田藩の部落の寺がまとめられている。

近くに、古い墓石を集めた一角がある。

墓石を見ると、「連寂」という文字が見える。これは行商人を意味し、時に部落民を意味するのだという。また「㚑」という霊の異体字も見える。

苔むしているため、文字が読める墓石は限られる。『被差別部落の伝承と生活』によれば「生道男」のように、戒名と言えるかどうかも分からないものもあったという。

特に「差別戒名」とは明示されていないが、これを見つけた探訪者によれば、この「三界萬霊塔」は全ての生き物は平等という意味であり、差別戒名の供養という趣旨で建てられたのではないかということだ。

様々な戒名が見えるが、共通するのは連寂が付いていることだ。

その隣にも墓石が集められているが、こちらにはもっと古い三界萬霊塔らしきものと、大日如来がある。こちらの墓石はもっと古いようだ。

いずれにしても、本当に「差別戒名」と言えるかどうかは、研究の余地がある。上の画像は熊本で、浄土真宗の法名についての議論であるが、今回あった「㚑」については、単なる異体字で差別とは無関係という見解もある。

新しい墓地も訪れてみた。この墓地はご覧の通り、斜面になっている。

気づいたのは、下に行くほど「竹内」が多く、最下段の墓地は半分以上が竹内である。墓地にはそれぞれの区画の名前を記したものもあったが、それは動画でご覧いただきたい。

そこで、マッポン!の出番である。一番南にあるのが龍光院。部落は寺からふもとの方にやや離れたところにあることが分かる。

その、「竹内」が多い場所に行ってみた。この「ふれあい広場」から探訪を開始する。

ここはキノコが名産らしく、ここにはキノコ料理のレストランもある。観光バスが停められるようになっており、文字通り観光地だ。

菊池山哉は密集態と記しているが、今では道路が整備され、広々とした住宅地である。

『被差別部落の伝承と生活』によれば、部落は「藤ノ木」と呼ばれていたことがあり、碑の前に大きな藤の木があったからだというが、これはまさに藤の木では?特段大きくないので、後で植えられたものだろうか。

そこのは案内図がある。日焼けのため文字が消えかかっているが、「白山社跡」と書かれているのが分かるだろうか。

そして、確かに碑がある。

ここに「竹之内」という小字についての説明がある。菊池山哉と同じく、「舘の内」が転じた説を採用している。お察しの通り、竹内という名字の由来も同じだ。『被差別部落の伝承と生活』によれば、江戸時代の龍光院の過去帳には「竹之内」という名字で人名が記されており、明治になった時に「竹之内はよすぎる」という理由で竹内で届けたということなのである。

そして、気になるのは合祀された白山神社の跡地である。現地には道祖神とプレハブ小屋がある。

小屋は粗末ながら集会ができるようになっている。

『被差別部落の伝承と生活』によれば、前山の白山神社は子供好きの神様と言われ、ある時子供が悪戯しないようにお堂に鍵をかけたら、神の怒りに触れてお堂が火事で燃えてしまったという。

上田の辺りでは、白山神社を一般の神社と合祀した部落が多いという。これは明治期に同仁会という融和団体の活動が盛んだったことが影響しているという。白山神社の合祀も融和の一環というわけだ。

ずっと昔に白山神社はなくなってしまっているので、今はさきほどのプレハブと供養塔と廃屋があるだけだが、一段高くなっているのが境内だったことを偲ばせている。

のどかな村だが、水平社運動もあった。1928年に「西塩田差別入会権糾弾闘争」があり、一般の1/10程度しかなかった山林の入会権について平等にするように認めさせた。ただ、前山の場合は水平社会員はわずか3人で、暴力的な運動は控えたという。佐久では水平社が区長を竹槍で殴ったり、田んぼに干してある稲を燃やすようなことをしたので、そういうことを見聞きした前山の人々は水平社を恐れて距離を置くようになってしまったという。

最後に、県道を隔てた向かい側にあるという同和施設を見に行った。

これが東前山同和地区集会所である。

平成29年2月16日の上田市教育委員会の会議録にこう書かれている。今でも利用されているとのことである。

特に看板はないので一目では分からないが、このようなものが置かれていることから、市の施設であり、同和教育集会所であることが分かる。

『被差別部落の伝承と生活』に「一年前に新築した同和会館」という記述があるが、これがその同和会館であろう。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)