曲輪クエスト(232) 甲良町 呉竹

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By 宮部 龍彦

甲良町は近畿地方で最も同和関係者の比率が高く、42.94%というデータがある。ただ、行政関係者によれば、それは単純に長寺と呉竹という2つの同和地区の行政区内の人口がそれだけの比率になるということであって、いわゆる部落民の比率かと言うと疑義があるという。

呉竹について言えば、『同和対策地域総合センター要覧』によれば1996年の地区世帯数が452世帯、それがそのまま同和関係世帯数となっている。人口は1,493人、持ち家が286世帯、改良住宅が82世帯、その他公営住宅が64世帯である。

なお、1995年の国勢調査によれば甲良町の人口は8,569人。 同和対策地域総合センター要覧によれば1996年の長寺地区の世帯数が586世帯で人口が2,325人。ということは、2地区を合わせた3,818人が甲良町の同和地区人口。ここから導き出される甲良町の同和率は44.56%ということになる。

ここが呉竹墓地。やはり宗派は浄土真宗である。

それぞれの墓の所有者名が書かれた見取り図。このような見取り図を見るのは初めてではないが、ここは規模が大きくて圧巻である。ここで分かるのは、名字がばらばらだということだ。

ニコイチ群は隣の彦根市に比べれば道路などは綺麗にされているように見えるが、よく見ると空き家が多い。蔦が生い茂っている家もあった。

『滋賀の部落』によれば、部落のはじまりは享保11年(1726年)、彦根藩から皮田の役目を命ぜられたことによる。当初は高宮村の枝郷であったが、分離独立して竹の内村となった。そして、明治7年(1874年)に呉竹村と改名した。

昭和6年(1931年)の記録では221世帯、1156人とある。農業のほか、下駄等の履物を作っていた。

ここが地域総合センター、すなわち隣保館。

こちらは亀山神社。多賀町の胡宮神社の末社であるという。

境内にある様々な物件には奉納者の名前が刻まれている。トイレにまで奉納者の名前があるのは初めて見た。

この銅像、身なりからすると、かなり昔の村の英雄のようである。

地区の端には住宅案内図がある。前述の通り、呉竹はもと枝郷だったものが独立して出来た村なので、全域が部落であり、なおかつ同和地区である。この案内図で同和地区の範囲と住民が丸わかりであることに驚く方がいるかも知れないが、滋賀県では珍しいことではない。

昭和の末期に作られた水の流れる小さな公園だが、字が虫食いになってしまっていてよく分からない。

ここが光源寺。真宗大谷派部落檀徒一覧に出てくる寺だが、部落の規模からするととても小さい。浄土真宗の寺にありがちなことだが、もとは道場だった。貞享4年(1687)年に彦根にある願通寺の下寺として開かれたという。

改良住宅付属の集会所と思われる建物があった。

この先に呉竹運動公園の駐車場がある。観光に来たならここに車を停めるといいだろう。

ふるさと納税で送られてきた「こうら米」。滋賀県産米100%だ(甲良町産とは書かれていない)。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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曲輪クエスト(232) 甲良町 呉竹」への2件のフィードバック

  1. まっちゃん

    呉竹は長寺に比べてインキクサイとこです。三ツ池よりよりましですが…長寺呉竹は方言訛りがすごいですよ 会話ですぐにわかりますね

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      人に会わなかったので、それには気づきませんでした。今度はぜひ長寺も訪れてみます。

      返信