On the Invention of Identity Politics: The Buraku Outcastes in Japanの日本語訳の続きを掲載する。前回はこちらを参照のこと。
1900年前後の部落についての文献を見ると、当時の部落が犯罪の温床であったことが生々しく記述されている。これらの記録の存在は部落研究者の間では知られていることであるが、それらの記録はそれ自体が差別であると隠蔽されることが多い。まして、公の場で議論されることもない。それらの記録の信憑性はどうなのか。論文では数値から部落における貧困と犯罪と堕落の実態を検証している。
VI 1900年前後の部落
A 序論
1900年前後の部落をより身近に感じるために、一人称の証言(B節)と都道府県レベルのデータ(C節)を組み合わせて考えてみよう。観察者の話は驚くほど似通っている。中には、警察官やジャーナリストなど、偏向がかかっていると思われる人もいる。しかし、ある観察者は明らかに同情的な、コミュニティの世話役であった。また、自身が部落民である者もいる。
さらに、これらの観察者が語る話は、様々な都道府県レベルの回帰分析から得られる証拠と一致している。nが小さく、粗い断片となっている場合、経験による結果は必然的に示唆に富むものとなる。そのため、様々な明確になった問題点に配慮することができるし、そうするべきである。しかし、重要なことは、実証的な結果が、一人称の証言の内容と正確に一致していることである。
B 一人称の証言
1 賀川
19世紀末から20世紀初頭にかけて、何人かの作家が部落に関する注意深い一次証言を残しているが、最も鋭いのは賀川豊彦であろう。1888年に生まれた賀川は、幼くして孤児となり、彼が成人する前に破産する里親に育てられた。子どもの頃には結核を患っていた。1909年には神戸の部落に移り住み、キリスト教の牧師として、また地域のまとめ役として活躍した。その後、結婚して8畳一間のアパートに住むことになる。<一般に鳥飼(1988:21-22, 48-51)参照。>
賀川は、貧乏人の味方としての評判を徐々に高めていった。過激派の部落民が後に水平社となる解放運動を組織する際には、賀川の家に集まった。彼らは賀川を尊敬していたし、他の部落民も賀川を尊敬していた。賀川は、新しい組織の創設指導者として、人々の強い支持を得ていた(鳥飼、2002)。
しかし、賀川は水平社の創設メンバーには加わらず、すぐに袂を分かった。新団体は、当初から「糾弾」を基礎にした恐喝戦略をとっていた。賀川は愕然とした。「私は愛の福音を説いているのに、あなた方は憎しみの福音を説いている」と訴えた(鳥飼、1998:126)。水平社は同種のものでそれに応えた。高橋貞樹は、水平社の初期の組織者の一人で、コミンテルンの秘密代表を務めていた。賀川と彼が1927年に宣言したことは「労働者に勤勉して資本家になれと云ふ」ようなものだ(高橋1924:236)。賀川は「支配階級の走狗」でしかなかったのだ、と。
半世紀後、賀川が創業した出版社が、彼のライフワークを復刻することになった。解放同盟は激しく非難した。どんなことがあっても、1915年に書かれた神戸の部落の記録を修正なしで出版してはならないとした。これは明らかに「差別的」である。出版社はこれに屈し、Kawada(訳注、賀川の誤記)の著作を検閲し、「差別的文章」を掲載したことを反省したという。今後は、社員全員で「部落差別問題に取り組む」と懺悔した。<キリスト(1991:1; pp.2, 25-26 も参照)、鳥飼(1988:6, 2002:160-61)。>
1915年のこの研究の無修正版で、賀川はこれに関連する3つの観察を行っていた。第一に、部落民は「すぐに怒る」。彼らは日常的に「不当な扱いを受けた」と主張する。そして「よく嘘をつく」。そして、自分がよく嘘をつくので、「人を信じない」(賀川, 1915:100, 300-02, 361)。
第二に、部落には犯罪が蔓延していた。窃盗はどこにでもあり、賭博が日常的でそれぞれの地域を支配する暴力団によって運営されていた。強姦は日常茶飯事で、近親相姦も横行していた。和歌山県では部落民の間の犯罪率が他の日本人の間の3倍であると彼は特記した。兵庫県は、部落民比率が全ての県の中で3番目であった。都市部の犯罪が最も注目されていたが、農村部の部落の犯罪率も同程度の農村に比べて高かった。<賀川(1915:101, 223, 323, 359, 364-65, 563-68);賀川(1919, 467-68)参照(兵庫県の率は1917年のもの)。>
第三に、部落の家族構造はほとんど崩壊していた。夫と妻の間では、お互いを欺くことが日常的に行われていた。賀川は「妻は売春婦として働き、夫には嘘をつく」と指摘した。売春は当たり前であった。ある時、路地の向こうのアパートに住んでいた女性が「ねえ、誰か買ってくれない?」と叫んで外に飛び出してきたことがあったという。売春婦として働かない女性でも、一生の間に10~13人の性的パートナーがいるかもしれない。<賀川(1915:301, 312; pp.101, 294参照)。>
犯罪の蔓延と家族の崩壊を反映して、親が赤ん坊を殺すこともあった(賀川はよくあると示した)。それは赤ん坊(もらいご)を業者に譲渡することであった。業者は、子どもを何度か互いの間で売買することがあるが、たいていの場合、赤ん坊は死んでしまう(賀川、1915:637-43)。賀川(1915:639)はこう書いている。
[業者は]米の粉を水に溶かして、死ぬのを待つだけだ。言うまでもなく、ミルクは与えない。しかし、赤ん坊は死なないこともある。ただ病気になるだけだ。赤ん坊は泣く。大人たちは医者を呼ぶこともできず、かと言ってただ待つだけなのは恥ずかしい。100日後、赤ん坊はスモモのようにしぼんでしまう。あまりの悲惨さに、見ていることもできない。
賀川はいつも見ているだけだったわけではない。お金をもらって赤ん坊を殺していた老婆が警察に逮捕されたと聞いて、急いで警察署に行き、まだ生きている乳児を見つけて、自分で育てた(鳥飼、 1988:54-56)。
2 その他の観察者
a 序論
部落内での過敏な反応、暴力、犯罪、乱交などを記録した観察者は、賀川だけではなかった。19世紀後半には、すでに多くの学者やジャーナリストが同じような特徴を述べていた。部落民である水平社の高橋も、賀川をあれほど攻撃しておきながら、経験的には異論がなかったようだ。部落民は「猜疑心に富んで、所謂穢多根性」(後述のb参照)であると高橋は書いている(1924:223-24)。「貯蓄心がなくて何時までも貧乏である。犯罪者が多い。とかく団結して社会に反抗せんとする傾きがある。斯ような事実が改善出来ぬ限り、社会が部落を嫌ふのは当然と云ふべきである」。
b 文化
19世紀末から20世紀初頭にかけての部落民の行動様式を、(高橋自身も含めて)「穢多根性」と呼んでいた。これは、19世紀南部の貧しい白人の「クラッカー」文化によく似た「穢多の本質」である。仕事でも学校でも、長い時間をかけて努力することを好まず、明らかに攻撃的で、喧嘩を危険なレベルまでエスカレートさせる傾向がある。<一般に マクウィニー(1988);マクドナルドとマクウィニー (1980)を参照。>
部落文化の研究者の中で最も著名なのは、東京大学教授の柳田國男である。柳田は1913年に、徳川から近代への移行期にある日本の農村を最も鋭く観察した研究者として知られているが、その中で、部落民は地域生活に基本的に「反社会的なアプローチ」をもたらしていると指摘している(柳田, 1913:93)。柳田(2017:242[1906])は、友人の小説家、島崎藤村が部落の生活を、部落民はアメリカに移住することでしか逃れられない抑圧の蔓延した世界であると表現したとき、それは荒唐無稽であると断じた。
[島崎藤村の]一般平民と新平民(つまり部落民)との区別は誇張されている。私は信州(長野)の穢多を特に研究したことはない。しかし、私が観察した他の地域では、ここまで極端な争いはなかった。昔からの習慣で、平民は新平民に対して多少の嫌悪感を持っていたのだろう。しかし、そのような一般的な嫌悪感が[藤村の言うような]極端な論争を引き起こすことはなかっただろう。
19世紀後半の作家たちは、部落民がいかに頻繁に喧嘩をしているかについて、日常的に不満を抱いていた。「部落民が社会から排除される理由はたくさんある」と1889年に書いた人がいる(藤村, 1889:78-80; 島崎藤村ではない)。「その中で、最も基本的なものを挙げれば、…彼らは暴力的である」。さらに藤村は続ける、彼らは強姦をすると。ジャーナリストの横山源之助も、1898年に「部落民は気性が荒く、すぐに怒る」と報告している(横山, 1898)。1910年、小原信三は東京大学の法律雑誌で、部落民は怪我をすると、大げさに言って賠償を求め、暴力を振るうと説明している。疑心暗鬼、無反省、無節操と結論づけている(小原、1910:1440)。1912年、貴族院議員の遠藤隆吉は、部落民は非常に嫉妬深いことを報告している(遠藤, 1912:272)。「些細なことであっても」軽蔑の対象となる。「すぐに想像力を働かせて怒る」。また、京都府警は1924年に、部落民は伝統的に「短気で」「非協力的で」「暴力的」であると報告している(京都、1924:258)。
観察者も同様に、部落民は努力をしないと述べている。雇用されてもすぐに辞めてしまうと遠藤は述べている(遠藤、1912:277)。まれに辞めなかったとしても、働かないのである。何人かの部落民を雇ったある工場主は、彼らが一度に20分か30分以上働くことはほとんどないことを知った。2時間の労働は無理だと判断して、1ヶ月で全員を解雇した(小原、1910:1441)。
c 犯罪
1900年前後の部落民は、ほぼすべての同時代の証言によれば、犯罪に深く関わっていた。犯罪の内容は深刻であった。例えば、1918年の全国的な大規模な放火と恐喝(D節で後述)や、水平社の松本治一郎中央委員会議長に関連した殺人と殺人未遂(E節で後述)などである。あるいは、それは些細なことかもしれない。16歳の若者が部落民の子どもを侮辱したと京都府警本部長が報告したところ(中野1923:178-79)、部落民の群衆が彼を殴ったという。警察官が仲裁に入ると、警察官も殴られたという。
窃盗は、1888年にジャーナリスト・社会改革者・銀行家・政治家の鈴木梅四郎(1888年、第10節)が、大阪の部落民の「伝統的な職業の一つ」であると断言した。鈴木は、親分の指示のもと組織的に活動していたと説明している(鈴木、1888:29)。典型的には、大阪の名護町スラムに住む15歳以上の人口が5,100人しかいなかった時代、1886年(明治19年)の7ヶ月間で警察は603人の住民を窃盗で逮捕している(鈴木、1888、第10項)。(名古屋市のある)愛知県では、1928年に県下の部落民の14%(男性では25%)に前科があった(愛知、1928:79)。
d 家族
家族制度も崩壊していた。ジャーナリストの桜田文吾(筆名は大我居士)が1893年に書いているが(桜田1893:14)、大阪の部落の男たちは「定期的に子どもを捨て、妻を捨て、移動することを一生のうちに何度も繰り返している」。逆に(桜田1893:36)、夫が刑務所に入ると、妻はすぐに別の男と仲良くなって一緒に住む。「乱交が横行している」と鈴木(1888:35)は書いている。「10組の夫婦のうち、7~8組は自由に他の人と性交渉する」。小原(1910:1438)によれば、すべては早くから始まっていた。小原(1910:1438)は、「12歳までにすでに多くの少女が性的情熱を理解している。乱交と姦淫はどこにでもあることで、誰も道徳的に悪いことだとは思っていないようだ。」
C 回帰
1900年前後の観察者は、一貫した物語を語っている。水平社の創始者である高橋、コミュニティ世話役の賀川、ジャーナリストの桜田、地元の警察署長など、彼らは部落を衝動的な暴力や犯罪、家族の絆の崩壊の場と表現している。しかし、自称部落民の指導者たちは、20世紀の最後の80年間、部落外の日本人の激しい偏見を非難してきた。偏見の可能性は当然ある。
このような一人称の証言の信憑性を確認するために、いくつかの県レベルのデータを考えてみよう。このデータを単純に回帰してみると、20世紀初頭の部落民は確かに残虐な暴力の世界に生きていた。1907年には、これらの貧しい部落民と犯罪との関連は、統計的に顕著なレベルに達している。表7では、1907年の総犯罪発生率(パネルA)と殺人発生率(パネルB)を部落民密度(単位:%、部落民 PC)及び一般人口密度(密度)に回帰している。また、部落民と一般民衆との融合度を把握するために、部落民と一般民衆との間の婚姻率(外婚:残念ながら1921年のデータしかない)を入れた。また、一人当たりの所得水準の代用として、1923年に納税した人口の割合(納税者 PC)を加えた。
- 犯罪総数PC
- 内務大臣(該当年)に記載されている当該年の犯罪総数を総人口で割ったもの。
- 殺人数PC
- 内務大臣(該当年)に記載されているその年の総殺人数を総人口で割ったもの。1886年の場合、殺人には暴行を含む。
- 外婚
- 1921年の部落民と平民の婚姻件数を、内務省(1921)に記載されている部落民の婚姻件数で割ったもの。
- 納税者PC
- 1923年の納税者数を全世帯数で割ったもの、大蔵省(1923)
表7:部落と犯罪、第二次世界大戦前
A. 犯罪総数PC 従属変数: 犯罪総数PC
1886 | 1907 | 1907 | 1922 | 1922 | 1935 | 1935 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
OLS | OLS | 2SLS | OLS | 2SLS | OLS | 2SLS | |
(1) | (2) | (3) | (4) | (5) | (6) | (7) | |
部落民PC | |||||||
1858 | 3.126e-4 | ||||||
(6.91e-4) | |||||||
1907 | 0.00272*** | 0.00190** | |||||
(7.79e-4) | (8.95e-4) | ||||||
1921 | 0.00127** | 0.0099* | |||||
(5.35e-4) | (0.00059) | ||||||
1935 | 0.00271* | 0.00390** | |||||
(0.0015) | (0.0017) | ||||||
密度 | |||||||
1884 | 5.60e-8 | ||||||
(5.93e-8) | |||||||
1907 | 4.78e-7*** | 4.69e-7*** | |||||
(7.72e-8) | (7.26e-8) | ||||||
1921 | 1.02e-7** | 1.00e-7** | |||||
(4.08-e8) | (3.77e-8) | ||||||
1935 | 1.18e-7 | 1.13e-7 | |||||
(8.48e-8) | (7.89e-8) | ||||||
外婚 | 0.0132* | 0.0424*** | 0.0389*** | 0.0180** | 0.0162** | 0.0185 | 0.0251 |
(0.0071) | (0.0130) | (0.012) | (0.0084) | (0.0079) | (0.026) | (0.0248) | |
納税者PC | 0.3632*** | -0.0217 | 0.0311 | 0.1564 | 0.1645 | 0.7026* | 0.6880* |
(0.105) | (0.213) | (0.202) | (0.138) | (0.128) | (0.411) | (0.382) | |
人口増加 | |||||||
1884-1908 | -7.78e-4 | -0.0021 | |||||
(0.0070) | (0.005) | ||||||
1884-1921 | 1.87e-5 | -8.27e-5 | |||||
(0.0032) | (0.0030) | ||||||
1884-1935 | 0.00306 | 0.00380 | |||||
(0.0064) | (0.0060) | ||||||
n | 40 | 40 | 40 | 38 | 38 | 40 | 40 |
調整後R2 | 0.36 | 0.70 | 0.69 | 0.28 | 0.27 | 0.43 | 0.42 |
F統計量 | 21.13 | 22.76 | 27.2 |
B. 殺人: 従属変数: 殺人PC
1886 | 1907 | 1907 | 1922 | 1922 | 1935 | 1935 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
OLS | OLS | 2SLS | OLS | 2SLS | OLS | 2SLS | |
(1) | (2) | (3) | (4) | (5) | (6) | (7) | |
部落民PC | |||||||
1868 | 5.27e-6 | ||||||
(126e-5) | |||||||
1907 | 3.54e-6** | 3.21e-6* | |||||
(1.60e-6) | (1.81e-6) | ||||||
1921 | 4.15e-6** | 4.06e-6* | |||||
(1.86e-6) | (2.08e-6) | ||||||
1935 | 1.23e-6** | 2.10e-6*** | |||||
(5.04e-7) | (5.88e-7) | ||||||
密度 | |||||||
1884 | 1.72e-10 | ||||||
(1.08e-9) | |||||||
1907 | -2.05e-11 | -2.42e-11 | |||||
(1.58e-10) | (1.46e-10) | ||||||
1921 | 1.94e-10 | 1.94e-10 | |||||
(142e-10) | (1.30e-10) | ||||||
1935 | 8.72e-12 | 5.25e-12 | |||||
(2.80e-11) | (2.70e-11) | ||||||
外婚 | 2.62e-5 | 1.95e-5 | 1.81e-5 | -3.55e-6 | -4.04e-6 | -9.58e-6 | -4.72e-6 |
(1.29e-4) | (2.66e-5) | (2.5e-5) | (2.94e-5) | (2.77e-4) | (8.61e-6) | (8.48e-6) | |
納税者 PC | -3.98e-5 | 6.278e-4 | 6.49e-4 | 3.145e-4 | 3.177e-4 | -9.38e-5 | -1.047e-4 |
(0.0019) | (4.37e-4) | (4.08e-4) | (4.81e-4) | (4.44e-4) | (1.14e-4) | (1.31e-4) | |
人口増加 | |||||||
1884-1908 | 2.07e-5 | 2.01e-5 | |||||
(1.43e-5) | (1.31e-5) | ||||||
1884-1921 | 1.6e-5 | 1.6e-5 | |||||
(1.13e-5) | (1.04e-5) | ||||||
1884-1935 | 6.89e-7 | 1.23e-6 | |||||
(2.12e-6) | (2.05e-6) | ||||||
n | 40 | 40 | 40 | 38 | 38 | 40 | 40 |
調整後R2 | -0.11 | 0.23 | 0.22 | 0.21 | 0.21 | 0.14 | 0.06 |
CDW F統計量 | 21.13 | 20.85 | 22.67 |
注記: *, **, ***:それぞれ10%、5%、1%の水準で統計的に有意。相関係数、または回帰係数に標準誤差を加えたもの。すべての回帰には定数項を含む。 2SLS推定では、部落民PC変数は、部落民PC 1868、白山神社、非人率で。測定されている。1884年は最も古い実態調査であり、1886年は犯罪データが入手可能な最も古い年である。1886年の殺人事件には暴行罪が含まれている。
出典: 本文及び表1参照。
1868年には部落民の集中度と記録された犯罪との間に相関関係はなかったが、1907年にはこの2つの変数には強い相関関係が見られるようになった。もちろん、都道府県レベルのデータでは生態学的誤謬があること、観察されない変数があること、データには部落と非部落の殺人事件が混在していることなど、幅広い修飾が必要である。また、2010年と同様に(上述の表5.B.参照)、犯罪率は都市化に連動している。すなわち、人口密度が高いほど犯罪率は高くなる。しかし、重要なことは、1907年には、犯罪率は地域社会における相対的な部落民の数に追随していた。表7パネルAとBの最初の列では、1886年(入手可能な最初の年)の犯罪率を、部落民密度、人口密度、外婚率、一人当たりの納税者数に(OLSで)回帰している。<データの都合上、1921年の外婚率と1923年の納税者の割合を使用した。>部落民密度の係数は、犯罪総数と殺人率のいずれにおいても統計的に有意ではない。2列目には、1884年以降の人口増加率を加え、1907年についても同様の分析を行った。注:
- 人口増加率
- 1884年以降の都道府県別総人口の増加の割合。
1907年には、部落民 PCの係数は有意に正であり、都道府県内の部落民の割合が高いほど、犯罪総数、殺人件数ともに増加している。部落民の割合が0.5%から1%に増加すると、都道府県レベルの犯罪発生率は0.00925の中央値に対して0.00136増加するが、効果の大きさは控えめである。なお、犯罪総数は都市部に特有の減少であり、人口密度の係数は正で有意である。部落民PC変数の有意性は、納税者PC、外婚、人口増加率を連続的に落としても頑健である。
部落民がコミュニティを離れるか、あるいは部落民のままでいるかは、犯罪分野での機会に左右される可能性が高い。そうであれば、部落民PCは、犯罪総数PCと殺人件数PCに内因的である。この現象に対処するために、パネルAとBの第3列では、1907年の部落民PCの値を1868年の値で、徳川時代の部落の位置の代理(白山神社)で、そして1868年の部落民のうちヒニン出身者の割合(ヒニン率)で測定している。付記:
- 白山神社
- 白山神社の数(部落民コミュニティの伝統的な場所の目印だったと言われている)、菊池(1961:691)。
- 非人率
- 1868年の部落民の中での非人の割合、『部落問題』(1980)より。なお、非人は19世紀後半に部落から流出したとされている。
1907年の部落民PCの係数は、犯罪総数PC、殺人数PCともに有意に正である。
D 米騒動
1 価格
1918年、部落民が幅広い都道府県をまたいで、凶悪犯罪として世間の注目を集める事件を起こした。米価が1年で3倍になり、都市住民が一斉に暴動を起こしたのである。そして最も暴力的な群衆の先頭にいたのが部落民だったのである。それまで部落民と犯罪を結びつけていなかった人も、1918年には新聞によって結びつけられるようになった。
契機となったのは貧困ではない。農家にとっては、米価の上昇がそのまま利益の増加につながることは明らかであった(社会 1938:54)。その収入に加え、収益性のある繊維関係の副業も日常的に行われていた。都市住民もまた、それによって同様に高い収入を得ていた。都市部の収入は急増していた。この世紀の最初の数十年は、若い男女が都市に移り住み、そこで高い賃金を得るという好景気だったのである。
しかし、1918年に一時的に成長が止まった。東京の物価指数は、1914年の100から1918年には174.3に上昇したが、賃金は160までしか上昇しなかった。しかし、生活水準は19世紀後半から上昇を続けており、すぐにまた上昇を再開した。賃金と生活費の比率を見てみると、1914年には同じく100で指数化されていた。1918年の時点で、この比率はわずかに低下して95となった。しかし、1921年には135に、1924年には150に上昇している。生活費を差し引いた実質賃金は、1914年から1924年までの10年間で50%も上昇していたのである(社会問題資料研究会、1938:54,57)。
貧しい日本人にとって、米が主食になったのはごく最近のことである。従来、貧しい人々は大麦や雑穀を食べていたので、米は贅沢品として売られていた。しかし、新たな繁栄を手に入れた農民や都市労働者は、食生活の中で大麦から米へと移行していったのである(原田、1989:87)。
このような新しい需要(軍隊の調達によってさらに増加)に対応して、高級品から普及品に変わった日用品の価格は上昇した。しかし、少なくとも短期的には、供給は固定されていた。子どもたちが都会で高い給料を得ているため、農家には生産を拡大するための労働力が不足していたのである。需要を増やし、供給を制限すれば、価格は上昇する。そして、その通りになったのである。
2 騒動
7月に富山の漁村で始まった抗議活動は、8月10日に京都と名古屋でも始まった。京都では23日、兵庫では12日、奈良では14日、福岡では34日にわたって続いた。全国的には9月中旬に終了した。その間、検察は8,200人を捜査し、裁判官は4,200人を有罪としたようだ。強盗や放火(木造住宅が密集している都市では死刑になる)が横行し、死者も出たが、裁判官は死刑を宣告せず、無期懲役は3人だけという比較的寛大な処分を下した。<一般に社会(1938:2-4, 91-95, 102-04, 439)を参照。>
店舗や倉庫、富裕層の家などを略奪し、放火する暴徒たちの先頭に立っていたのが部落民だった。現代のジャーナリストや警察は、彼らを暴徒の先頭と位置づけたし、近代の学者もその役割を確認している(高山, 2005:66-69)。警察の発表によると、大阪だけで9,300人もの部落民が参加していたという。京都、大阪、兵庫、奈良では、平均して暴徒の30~40%が部落民であった(三谷、1985:82)。また、ジャーナリストや警察は、暴徒の中でも「部落民」を最も凶暴な存在と位置づけている。<社会(1938:94, 132, 197, 216, 259, 260, 379, 391)参照。>
この暴動の本質は、抗議行動ではなく、略奪と強奪であった。暴徒の標的は、米屋や商家、裕福な家などが多かった。放火という脅しをかけて、現金や値下げを引き出したのだ。躊躇したり拒否したりすると、建物を略奪し、「油」(おそらく灯油)をかけて焼き払った。ある観察者が「窃盗団」と呼んでいたように、女性や子どもたちは暴徒の後に続いて貴重品を運び出していた。夜のうちに暴徒が家を燃やしてしまうと、翌朝早くに女子どもが現れて、残っている貴重品を奪っていった。<社会(1938:97, 178, 216, 230, 260)を参照。>
このような暴力、放火、恐喝を、暴徒たちは全国に広げていった。消防士が到着すると、時に彼らは消防士を襲った。福井では、市長と警察署長の自宅を破壊し、警察署を焼き払った。神戸では、鈴木商店の建物27棟に放火した。福岡県の町では、ダイナマイトを投げたり、銃で軍隊を撃退したりした。最も大規模な暴動を起こしたのは大阪府であった。大阪府では、2万人規模の暴徒が金を強奪し、商人の金庫を奪い、建物に放火したのである。<社会(1938:98, 101,128, 180, 184)を参照。>
E 1920年の部落
1 収入
1920年(及び1930年)の平均的な部落民は、一般の人々よりもまだ貧しかった。徳川時代のように、全員が貧しかったわけではなく、部落民と一般人の所得はかなり重なっていた。しかし、1920年の国会議員選挙を例にとると選挙権は納税義務に基づいており、日本全体では人口の5.42%(307万人)が投票した。部落の有権者率は、石川県の0.17%から千葉県の3.32%までの幅があった。部落の有権者率の都道府県平均は1.55%である。
あるいは、農家の規模を考えてみよう。歴史学者の原口(2014:393)は、1930年代半ばの日本全国の農家の規模の分布を次のように報告している。
1/2町未満 | 1/2以上1町未満 | 1町以上 | |
---|---|---|---|
部落 | 51% | 32% | 9% |
日本全体 | 34 | 34 | 32 |
なお、1町は9,917平方メートルである。選挙権のデータからもわかるように、部落民は比較的貧しい農家に属する傾向があった。
歴史学者の青木(1998:21)は、1931年の長野県における部落民と全農家の耕作面積を比較している。
長野県全世帯 | % | 部落民世帯 | % | |
---|---|---|---|---|
1/2町未満 | 74,880 | 36.3 | 1,761 | 72.9 |
1/以上1町未満 | 79,162 | 38.4 | 460 | 19.0 |
1町以上3町未満 | 49,532 | 24.1 | 183 | 7.6 |
3町以上 | 2,443 | 1.2 | 13 | 0.5 |
合計 | 206,017 | 100 | 2,417 | 100 |
長野県民の耕作面積は、原口の全国集計の数字と同じであるが、長野県の部落民の耕作面積は、他の地域の部落民よりも小さい。他の研究者(例えば吉田、1997:82-85)は、さらに多くの場所を調査しているが、同様の一般的な結論に達している。すなわち、部落民の農民は一般の人々よりも貧しい傾向にあるが、一様ではない。多くの部落民は近隣の最も貧しい人々よりも裕福であり、実際にかなり裕福な人もいた。
2 その他の指標
しかし、1920年代から1930年代にかけての部落民は、調査可能な他の多くの指標において、一般民と比べて明らかに悪い状況に置かれていたわけではないようだ。表8では、社会福祉に関するさまざまな県レベルの指標を、一人当たりの部落民の数、人口密度、部落民と一般民の交流の指標である外婚率、所得の指標である人口当たりの納税者数に回帰している。都道府県レベルのデータであるため、当然先の前提条件が適用される。従属変数は以下の通りである。
- 自殺率
- 1934年の自殺者数を総人口で割ったもの、内閣(1935)より。
- 赤痢率
- 1933年の赤痢による死亡者数を総人口で割ったもの、内務省(1933)より。
- 結核率
- 1933年に結核で死亡した人の数を総人口で割ったもの、内務省(1933)より。
- 身長
- 1933年、7歳時の男子女子の身長、文部省(1937)より。
- 体重
- 1933年、7歳時の男子女子の体重、文部省(1937)より。
- 胸囲
- 1933年、7歳時の男子女子の胸囲、文部省(1937)より。
表8:部落と社会福祉、第二次世界大戦前
A. 1920年から1935年の変数
非嫡出子 | 非嫡出子 | 離婚 | 離婚 | 乳児死亡率 | 乳児死亡率 | |
---|---|---|---|---|---|---|
従属変数: | 1920 | 1935 | 1920 | 1935 | 1920 | 1935 |
部落民PC | ||||||
1921 | 4.70e-7** | -8.98e-8 | 2.38e-7 | |||
(2.07e-7) | (1.39e-7) | (2.08e-7) | ||||
1935 | 3.11e-7** | 1.88e-8 | -7.68e-8 | |||
(1.15e-7) | (9.46e-8) | (1.04e-7) | ||||
密度 | ||||||
1920 | 2.99e-5 | -1.58e-5 | 4.23e-5** | |||
(1.7e-5) | (1.14e-5) | (1.71e-5) | ||||
1935 | -4.32e-7 | -3.74e-6 | -4.32e-7 | |||
(6.73e-6) | (5.52e-6) | (6.09e-6) | ||||
外婚 | 0.00137 | 0.0866** | 0.02974 | 0.01613 | 0.01595 | -0.05278 |
(0.0409) | (0.0425) | (0.0273) | (0.0390) | (0.0411) | (0.0385) | |
納税者PC | -0.6708 | -0.6008 | 0.3659 | 0.3587 | -1.375* | -0.4641 |
(0.7335) | (0.5080) | (0.4914) | (0.4170) | (0.736) | (0.460) | |
n | 41 | 41 | 41 | 41 | 41 | 41 |
調整後R2 | 0.11 | 0.11 | -0.00 | -0.08 | 0.07 | 0.05 |
B. 1933年から1934年の変数
従属変数 | 自殺(34) | 赤痢(33) | 結核(33) |
---|---|---|---|
部落民PC 35 | -4.09e-10 | 2.33e-10 | 1.15e-9 |
(2.61e-10) | (6.72e-10) | (2.43e-9) | |
密度35 | 1.28e-8 | 1.29e-7*** | 1.13e-7 |
(1.52e-8) | (3.92e-8) | (1.42e-7) | |
外婚 | -0.000415*** | -0.000158 | -0.000541 |
(9.63e-5) | (0.000248) | (0.000896) | |
納税者PC | 0.000357 | 0.004037 | 0.009489 |
(0.00116) | (0.00296) | (0.0107) | |
n | 41 | 41 | 41 |
調整後R2 | 0.27 | 0.45 | 0.04 |
C. 7歳の身体測定、1933
従属変数 | 身長 | 身長 | 体重 | 体重 | 胸囲 | 胸囲 |
---|---|---|---|---|---|---|
従属変数: | 男性 | 女性 | 男性 | 女性 | 男性 | 女性 |
部落民PC 35 | 3.95e-6 | -3.24e-6 | 1.37e-6 | 1.45e-6 | 0.001873*** | 1.07e-6 |
(3.36e-6) | (5.20e-6) | (1.51e-6) | (1.22e-6) | (0.000405) | (2.03e-6) | |
密度35 | 0.0004652** | 0.0004582 | 3.22e-6 | -0.3804 | -0.0423* | -0.000166 |
(0.000196) | (0.000304) | (8.83e-5) | (0.4516) | (0.0234) | (0.000119) | |
外婚 | -2.320* | -3.402* | -0.3549 | -0.3804 | 195.60 | 1.2402 |
(1.239) | (1.919) | (0.5577) | (0.4516) | (149.31) | (0.7505) | |
納税者PC | 16.803 | 43.488* | 4.485 | 9.500* | 1764.6 | 4.2487 |
(14.809) | (22.927) | (6.663) | (5.396) | (1783.9) | (8.967) | |
41 | 41 | 41 | 41 | 41 | 41 | |
調整後R2: | 0.38 | 0.25 | -0.15 | 0.15 | 0.43 | 0.00 |
注記: *, **, ***:それぞれ、10、5、1%の水準で統計的に有意。回帰係数の後に標準誤差を付した。OLS 回帰。すべての回帰には定数項を含む。
出典: 本文および表1参照。
表8の回帰結果を見てみよう。ここでも、所得、人口密度、外婚を検証している。都道府県レベルでは、乳児死亡率は人口密度と相関しているが(これは都市の現象である)、1921年、1935年ともに部落民の割合とは相関していない(パネルA)。自殺率は部落民の密度とは相関しない(パネルB)。赤痢による死亡率は人口密度と相関しているが(これも都市部の現象)、部落民率とは相関していない(パネルB)。結核の死亡率は、部落民の割合とは関係がない(パネルB)。
一般的に、子どもの平均的な大きさは、その子どもの栄養状態を反映している。しかし、部落民の密度は、7歳の男子女子の身長、体重、胸囲とは負の関係にない。むしろ、男子の胸囲と有意に正の相関がある(パネルC)。
3 非婚出産
部落民は、非部落民に比べて公衆衛生が劣っているという兆候は見られなかったが、1922年には、地域社会の機能不全の最も基本的な特徴である非婚出生率の上昇と関係していることが明らかになった。確かに、新婚夫婦がどれだけ早く結婚届を出すかは地域によって異なる。しかし、所得、人口密度、外婚を検証すると、1921年、1935年ともに、部落民の割合は非婚率と正の相関があった(表8パネルA)。
同様に、部落民と一般民の非婚出生率(内務省、1921)を見てみよう。1920年の一般人の非婚率は、都道府県別では宮城県0.54%から大阪府15.9%で、平均8.1%であった。1921年の部落では、県別では静岡県の2.01%(部落民14,000人)から岡山県の60.7%(同43,000人)という驚異的な数字で、全都道府県平均では19.6%であった。いくつかの主要な都道府県の非嫡出子率を比較すると(一般は1920年、部落民は1921年)、その数値は次のようになる。
一般大衆 | 一般大衆 | 部落民 |
---|---|---|
福岡県 | 7.2% | 14.8%(69,000 部落民) |
兵庫県 | 10.0 | 19.3(108,000) |
大阪府 | 15.9 | 22.5(48,000) |
広島県 | 7.3 | 13.0(40,000) |
岡山県 | 10.6 | 60.7(43,000) |
京都府 | 13.4 | 21.7(42,000) |
4 犯罪率
1920年代から1930年代にかけて、部落民密度と犯罪率は再び顕著な相関関係を示した。1921年には、一般人口に占める部落民の割合は1.46%に過ぎなかった。大都市である京都、大阪、兵庫、福岡でも人口の3%に満たなかった。しかし、都道府県レベルでも、部落民の割合が高いほど、犯罪発生率が有意に高くなることがわかった。
表7パネルAとBの4回目と6回目の回帰では、OLSを用いている。部落民の密度(単位:%: 部落民PC)の係数は、1922年と1935年の両方において、犯罪総数と殺人発生率の両方で正であり、有意である。先に述べたように、部落民密度は犯罪率に対して内因的であると考えられるので、5回目回帰と7回目回帰では、部落民密度の計測値を用いた。1922年と1935年の両年において、計測された部落のPCの係数は正であり、有意であった。殺人率については、1922年と1935年の両方において、計測された部落民PCの係数は有意に正である。この効果の実際の大きさは、やはり控えめなものである。部落民の割合が0.5%から1%に増加すると、都道府県レベルの総犯罪率は、都道府県レベルの中央値0.0286に対して0.0014程度増加する。
これらの都道府県レベルの犯罪率から、次に部落民特有の犯罪率を見てみよう(内務省、1921)。1922年の一般人の場合、暴行・殺人の合計率(部落のデータは両者の合計のみ)は、人口10万人あたり沖縄の15.8から福岡の95.8までで、県平均は41.7であった。また、1921年の部落民の暴行殺人事件の発生率は、静岡(部落民14,000人)の10万人当たり6.9人から宮崎(部落民2,600人)の231.7人で、県平均は74.7人であった。
一般大衆 | 一般大衆 | 部落民 |
---|---|---|
福岡県 | 95.8 | 103.8(69,000 部落民) |
兵庫県 | 76.7 | 36.2(108,000) |
大阪府 | 73.4 | 225.4(48,000) |
広島県 | 36.5 | 49.8(40,000) |
岡山県 | 40.3 | 42.0(43,000) |
京都府 | 48.9 | 52.2(42,000) |
主要6県(一般民は1922年、部落民は1921年)を比較すると、人口10万人当たりの暴行殺人率の合計は部落の主要6県では、兵庫県だけが部落の暴行殺人率が一般の人よりも低かった。
非婚出産ですが、岡山県では第一子または男児が生まれるまで入籍しないという風習があったと、岡山県備中南部地域の80代以上の方から聞いたことがあります。
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