曲輪クエスト(60) 三重県熊野市有馬町南有馬“南地”

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By 宮部 龍彦

前回に続き、『人間みな兄弟』を製作した亀井文夫監督の足跡を追って熊野市の有馬町までやってきた。

映画では「南地」と呼ばれる部落で1934年の記録では105世帯546人の部落があったとされる。

Yahoo知恵袋では、地元の出身者と思われる人から、次の質問がされている。

三重県熊野市出身です。
私の父母はこの地域で言われる「エタ」住居地区出身です。
ただし、この地区は同和地区にはなってません。あくまで熊野市周辺での認識です。

私自身は地元で差別を受けたと言う意識はありませんでしたが、
父母は差別はあったと言います。

特定されてしまうかも知れませんが、苗字は「鈴木」です。
鈴木孫市(孫市は頭領の名称で副数名いるのでどの方がそこでなくなられたのかははっきりとはわかりません)終焉の地と言う石碑も地区には存在します。
親戚等からは雑賀の末裔だと聞かされています。

質問はこのサイトhttp://blog.livedoor.jp/namepower/archives/1285045.html

で熊野市の在日の通名で鈴木が入ってることです。

私の戸籍は日本国です。そしてその地区に同じ鈴木はたくさんいますが、
貧困でいわゆる柄の悪い方達もいらっしゃいます。
その方々とは親戚ではありません。
このサイトのソースは官報だと記載されていますが、在日であれば官報に出るのでしょうか?

『人間みな兄弟』では、南有馬は漁業権を持たない貧しい部落であるが、学者により部落の始祖が武士であることが分かり、もう部落民ではないとして記念碑を建てる様子が紹介されている。その武士とは、戦国時代に大量の鉄砲を保有し、織田信長に対抗した傭兵集団として知られた雑賀衆を率いた、鈴木孫市のことである。

これが、その記念碑である。

昭和35年3月27日と記されており、まさに『人間みな兄弟』が製作された年だ。

鈴木孫市は1人の人物を指すのではなく、雑賀衆の頭目が代々孫市(「孫一」とも)の名を襲名したと言われる。その中でも「重行」という人物がこの部落の始祖とされる。

映画では、その証拠の品として、鏡、巻物が「某所」にあったとナレーションされている。しかし「確認はしておりませんけど」と言っており、その鏡、巻物がが実在するのかどうかはぼやかしている

地元には歴史資料館がある。そこで何か資料がないか聞いてみると、「鈴木孫市さんについては、あまり資料がない」という。地元では「孫市さん」と慕われてはいるものの、有馬部落との関係についてはあまりはっきりはしていないようだ。

これが当時の新聞記事の1つ。鈴木孫市の子孫ということは、あくまで口伝として遺されているようだ。

資料館で聞いてみると、「確かに有馬町に鈴木は多いけど、本当に孫市さんの子孫かどうかは分からないよ」とそっけない答えだった。地元ではそう言われているものの、はっきりとした証拠はないと認識されているようだ。

この孫市の墓の周辺が部落で、防砂林が途切れた部分に家が密集していたのだが、1960年代に部落の中を突っ切るように国道42号線が作られ、さらに墓地が整備され、部落の家々は分散したようである。『人間みな兄弟』が製作された当時とはかなり様子が変わってしまったと思われる。

何はともあれ、鈴木孫市こそが村の開祖とされ、墓石には「釈広徳」の名が刻まれている。この釈広徳が鈴木孫市であると寺の過去帳に記されているそうだ。

やはり墓地には「鈴木」と記された墓が多く、「孫」「市」という文字を含む墓石が見える。鈴木孫市の後裔であるということが、古くからこの部落の複数の家で伝承されてきたようである。

なぜ、武士の後裔の村が「エタ」の村と言われて来たのか? 考えてみれば、貧しくなければ傭兵などする必要はなかったはずだ。多くの田畑もなく、漁業権も持たないという厳しい境遇に置かれていたからこそ傭兵をせざるを得なかった。そして、その傭兵の仕事さえも戦国が終わって平和な時代になれば必要とされなくなった。差別ゆえに貧しくなったというより、貧しいからこそ差別されてきたのかも知れない。

ただ、映画では漁業権を持たないとされる一方で、『全国部落調査』には職業に「漁夫」との記述があるという矛盾もある。

墓地からすぐ海岸に出ることができる。ここは七里御浜。

映画によれば、部落の住人は七里御浜で「那智黒」という石を拾って生計を立てており、石はアメリカにも輸出されていたという。「大石が1升8円、小石が1升18円、慣れた女の人で1日200円前後の稼ぎ」ということである。1960年当時の公務員の大卒初任給が10,800円だったので、今の価値に換算すると一日4000円前後といったところか。

那智黒は綺麗な黒色の石で、碁石として使われる。また、庭石にもなるし、硯にもなるし、金をこすりつけて色で金の純度を判断する「試金石」としても使われる有用な石だ。

早速海岸で那智黒を探してみた。波に揉まれた綺麗な玉砂利が散らばっているが、素人目にはどれが那智黒なのか分からない。

とりあえず、これではないかと拾ってみた石。上の一部削られているのが土産物屋で買った那智黒石。海岸に落ちているものは、砂と塩で粉を吹いたようになっているが、水に濡らすと真っ黒になる。手で触っていても手の脂で次第に黒くなってくる。土産物屋のものは、表面を磨いてあるという。

地元の人によると、昔は那智黒を拾っている人がたくさんいたが、今はほとんどいなくなった。なぜなら、あまりにも拾いすぎて少なくなってしまったのと、川の上流にダムが出来たことで、石があまり流れてこなくなったという。

再び資料館に戻る。鉄砲が展示してあった。さすが雑賀衆ゆかりの地である。ただ、鉄砲は有馬町だけにあったわけではない。

これは捕り物道具。南有馬は刑吏の仕事もしていたのかと思いきや、「須野町浜田家伝来」とあり、有馬町のものではなかった。

聞いてみると、Yahoo知恵袋にあった通り、やはり有馬町は同和地区との指定を受けていない。共産党の議員を中心に、同和行政をしないように求めがあり、様々な紆余曲折はあったものの、昭和の終わり頃には「熊野市には同和地区は存在しない」ということで決着したそうである。

ただ、部落が全く手付かずだったという訳ではなく、それなりに整備されたように見える。…というよりも、先述の通り部落内を国道が突っ切ったので、その時に道路整備の邪魔になる住宅密集地はどかされており、もとの部落の面影はほとんど残っていないと考えられる。そのことに同和対策という観点があったのかどうかは不明だ。

ただ、所々に路地を思わせる風景は残っている。臭突があるので、トイレが汲み取り式であり、下水道が未整備であることが分かる。確かに、金持ちそうな地域には見えないが…

地元の「仮装盆踊り」の動画を見ると、「柄の悪い方達」が多いというわけではなさそうだ。

この有馬小学校の周囲は昔から住宅があったのだが、どこが部落の境界なのかはっきりしない。

空き家が目立ち、商店が活気がないように見える。しかし、これは有馬町に限ったことではなく、熊野市自体が過疎自治体だ。ピーク時は3万人を超えた人口が、今や16,777人となった。

熊野市駅前もあまり活気はなかった。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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曲輪クエスト(60) 三重県熊野市有馬町南有馬“南地”」への13件のフィードバック

  1. じっちゃん

    中上健次の実父(鈴木留造)の出身地区ですね。
    因みに和歌山の部落にも雑賀衆と鈴木孫市に纏わる伝承が語り継がれてますね。
    南朝、一向一揆、村上水軍、雑賀衆等の敗残兵の落ち延びた先が部落になった例もあるのでしょう。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      確かに、落ち武者伝説を持つ部落はありますが、あまり多くはない印象です。
      有馬町にしても、雑賀衆の落ち武者だから部落になったというより、単に貧乏だったからというような感じがします。
      雑賀衆ゆかりの和歌山の部落というと、どこがおすすめでしょうか?

      返信
  2. .

    片岡たちが推薦している『東日本の部落史 関東編』125-127頁に『全国部落調査』の図表がそのまま使われています(地区名はイニシャルにしてありますが)。『全国部落調査』に学術的価値なし、という解放同盟の主張はここでも破綻しています。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      しかもこれ、最近出版された本じゃないですか。
      こちらは、全国部落調査は「抽出するのも駄目」と仮処分かけられているのに。

      返信
      1. .

        章によっては部落の具体的な地名も部落姓もばっちり出ています。地名や人名をイニシャルにしたりしなかったり。「隠すか、隠さないか」を区別する基準がどこにあるのか全くわかりません。

        返信
  3. 日本中世史愛好家

    >> ただ、映画では漁業権を持たないとされる一方で、『全国部落調査』には職業に「漁夫」との
    記述があるという矛盾もある。

    農業に小作人(土地は持っていないが、地主に雇われて農業を営む)がある様に、漁業権のある
    一般地区の船主に雇われで漁業をしていれば矛盾は無いのではないでしょうか。場所は異なり
    ますが、高知の漁村部落は元々はそんな感じの所が多かった記憶が。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      確かに、そう考えると矛盾しませんね。女は石拾い、男は雇われ漁夫だったのかも知れません。

      返信
      1. 人間みな兄弟の実際の場面では
        「農村にあって農地を持たないのと同じように、漁村にあって漁業が出来ないため、いつまで経っても貧困から逃げ出せないでいるのが漁村にある未解放部落の姿だ。
        三重県有馬の南地部落の人々は、一般漁民の大漁船を見せ付けられながら那智黒という石を拾って生きている。」
        とナレーションが入り、漁船を映していたカメラがゆっくり浜の方に振られて、石を拾っている人を10秒間無声で映し出します(BGMは波の音だけ)。その中には子供を背負った男性の姿も一番手前に映し出されますね。
        このような演出の仕方のため、全国部落調査と矛盾していると判断するほうが妥当のように思いますね。
        人間みな兄弟を見ていない人は分からないでしょうが、実際に視聴すると、??な場面や演出が多々見受けられるドキュメント映画です。

        返信
        1. 鳥取ループ 投稿作成者

          そう言えばそうでした。探訪した後に検証するといろんな事に気が付きますね。
          これは、再度訪れて住民に聞くべきなのかも知れません。
          「部落再探訪」というシリーズもありなような気がしてきました。

          返信
  4. 近江兄弟

    また記事と関係ない話ですみません、コメント欄以外でどこで聞いたらよいかわからなくて……
    茨城県稲敷市上根本の板耕地部落についてなにかご存知でしょうか。

    先日近隣に住む6〜70代の住民数名に多少聞き取りを行ったのですが、板耕地が被差別部落だったことを知らないばかりか、全員「きたこうち(北耕地?)」と思っていたとのことで、被差別部落としては消滅してしまっているのでは……と思いました。(市の農業委員会の資料に板耕地の文字があったので名前は知っている人は知っているのだと思います。)

    なにかご存知でしたらご教示下さい。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      全国部落調査には板耕地は1世帯20人ということなので、「部落」があったわけではなさそうです。
      「非常廻」とは何なのか、20人もいる世帯とは何を意味するのか、それがキーになると思います。

      返信