韓国大好き、片山善博総務相が鳥取県でやってきたこと(同和と在日2010/11)

By 鳥取ループ
鳥取ループ(取材・文) 月刊同和と在日2010年11月号

 菅内閣唯一の民間人として閣僚入りした片山(かたやま)善博(よしひろ)氏。東大法学部を卒業した後に自治省に入省したエリート官僚であり、また鳥取県知事として〝改革派知事〟のさきがけとして活躍したことは記憶に新しい。東京都に導入されたホテル税に対して「東京へ来るなというメッセージだ」として石原慎太郎都知事にかみついたことや、地方分権改革推進会議が、国から地方に対する税源移譲を先送りするよう意見を出したことについて、当時の西室(にしむろ)泰三(たいぞう)議長が東芝の会長であったことから、東芝製品の不買をほのめかしたことなど、歯に衣着せぬ発言は強く印象に残るところである。
 鳥取県では、一九九九年四月に片山氏が知事に就任する前は、官選知事の時代を除いて全て鳥取県出身者が知事を務めてきた。一方、片山氏は隣の岡山県出身である。彼の鳥取県における評判はどうなのか。手始めに地元の何人かへ電話で連絡をとってみたところ、次のような答えが返ってきた。
「片山と言えば、県庁ではごっつい評判が悪かったですね。人使いが荒いし、それから、人に対する好き嫌いが激しかったので、秘書課で気に入らない人はすぐに入れ替えてしまったそうですよ」(鳥取市役所職員)
「私は片山という男のことは、ものすごく嫌いでしてなあ」(県庁OB)
 いきなりこんな調子である。
 地元関係者の話を総合するとこういうことだ。片山氏が知事になってからというもの、県庁では能力のない職員は容赦なく切り捨てられるようになった。給料も減らされた。当然のことながら、職員から良く思われるはずがない。
「県庁の職員からは悪口ばっかりだ。だけども、県庁の職員でない人間にはどうでもいいことだ」「今までは仕事ができないような職員がいつまでも辞めさせられずに置かれていた。例えばずっとうつ病をわずらっているような職員がいたが、片山知事の時代になってから閑職に置かれて、最後はクビになった。だけど、クビになったらとたんにうつ病がよくなったみたいだな」(地元関係者)
 嫌な予感を感じながら、かつて片山氏が知事として活躍した鳥取県で取材した。

片山氏と朝鮮半島

 片山氏といえば、韓国通として知られる。知事になる前から何度か韓国に通っており、知事になってからは北朝鮮を訪問したこともある。韓国語も日常会話程度ならできるという。
 ネットでは「知事は公用車を韓国の自動車メーカー『ヒュンダイ』製のものに変えさせた」という噂まで流れた。しかし、念のため県庁に確認をとったところ、知事の公用車は二〇〇二年からずっとトヨタのクラウンで、今のところ県庁の車は全て日本車だそうだ。
 しかし、片山氏が韓国語ができるということは、本人も公言しているので間違いないことである。現職の県職員に「片山さんが韓国語が得意だったのはどうしてでしょう」という疑問をぶつけてみたところ、「それは私の口から言うわけには…」と、非常に思わせぶりな答えが返ってきた。これに限らず、片山氏のことに関しては現職の県職員は口をつぐむ。片山氏と韓国の関係について、前出の県庁OBに聞いたところ
「あんた、そんなことも知らんだが」
 と言われてしまった。OBは、片山氏が知事だった頃、事あるごとに県政に異議を申し立ててきたという。一方、現職の県職員はいくら知事を退任したからと言って、片山氏のことは言いたがらないそうで、「今の県職員は義侠心のある人間というのがそれこそあらせん」ということだ。
 OBは片山氏の韓国好きについて、このような話をしてくれた。
「彼が韓国に行ったときに、伊藤(いとう)博文(ひろぶみ)を暗殺した安(アン)重根(ジュングン)が書いた掛け軸を買ってきて、県立図書館に掛けとるです。それで、けしからんということで反対運動を起こして外させたんですよ」
 この掛け軸は「一(イル)日(イル)不(ブ)讀(ドク)書(ソ) 口(ク)中(ジュン)生(セン)荊(ヒョン)棘(クク)」という書で、読んで字のごとく「読書を一日しなければ、口の中にとげが生える」という意味である。韓国では学校でもよく教えられる有名な言葉で、それ自体は図書館にはぴったりのものではあるが、その由来が問題だった。掛け軸は、二〇〇二年に片山氏がソウルの「安重根義士記念館」で買ったもので、もちろん本物ではなくレプリカである。もとは額縁に入れられたものを掛け軸に作り直したものだ。OBが所属する鳥取市の政治団体「あすの日本を考える会」は「テロリストの書を図書館に掲げるとは何事か」ということで県立図書館に抗議し、その結果掛け軸は撤去された。これが二〇〇六年二月ごろのことである。
 さらにOBは話を続けた。
「赤崎(あかさき)の道の駅に朝鮮の使節の像があるんですよ。これは赤崎(あかさき)町(ちょう)(二〇〇四年九月に東伯(とうはく)町(ちょう)と合併し、琴浦(ことうら)町(ちょう)の一部となった)の町の年間予算が四一億円のときに、片山知事が三億九二〇〇万円の借金をさせて作ったんですよ。その碑文(ひぶん)の中の『日本海』という部分にカッコ書きで『東海』と書いてあった。これも、東海をカットさせて、直させたんです」
 この時も、「あすの日本を考える会」の抗議を受け、町は碑文の「東海」という部分を、二〇〇七年二月ごろに削りとった。しかし、それから約二ヵ月後、韓国民団から抗議があり、このことが日本でも韓国でも大きく報道された。共産党の青亀(あおがめ)壽宏(としひろ)町議などから碑文を元に戻すべきだとの声があがり、議会との板挟みになった当時の田中(たなか)満雄(みつお)町長は体調を崩し、入院してしまった。琴浦町役場の周辺では右翼団体の街宣車が抗議活動を行ない、騒然となった、一方海を隔てた韓国では、鳥取県と友好提携を結んでいる江原(カンウォン)道(ド)の道庁舎前で日の丸が燃やされた。
 碑文があるのは日韓友好交流公園のことで、赤碕町の中井(なかい)勲(いさお)町長により、二〇〇三年に建設されたものだ。「片山氏が町に借金をさせた」というのは正確ではないのだが、詳しくは後で述べることとしよう。
 皮肉なことに、片山氏が知事であった時期は、朝鮮半島と日本の両国民の関係が大きく転換し、双方の対立が表面化した時期と重なる。二〇〇二年のサッカー・ワールドカップが日本と韓国で共同開催されたことは、単に日韓のスポーツ交流であること以上に双方のナショナリズムが激突することでもあったし、以前からあった韓国の「反日」が日本でも広く知られるきっかけとなった。そして、同年の日朝首脳会談で北朝鮮の金正日総書記が日本人を拉致したことを認めたことから、北朝鮮に対する日本国民の感情は大きく悪化した。韓国による竹島の不法占拠、また世界的には「日本海」である海の呼称を、韓国式の「東海」に変えさせようという運動など、従来はタブー視されてきたような問題がおおっぴらに語られるようになった。ただ諸手を上げて友好を叫ぶだけでは済まない、国際関係の現実を片山氏も強く感じたのではないだろうか。
 それにしても、片山氏はなぜ韓国びいきなのか。OBは岡山県赤磐(あかいわ)郡瀬戸(せと)町(ちょう)鍛冶屋(かじや)(現在の岡山市東区瀬戸町鍛冶屋)にある、片山氏の実家の近くまで行ってみたという。そこで聞いた近隣の人の話によれば片山氏の祖父は安政時代に朝鮮から来て日本国民になったというのだ。
「近くに日蓮宗のお寺があって、その近くで掃除をしていたお爺さんが、子供の頃の片山氏を知っていたので、片山家の墓はどこにあるか聞いてみた。そしたら、『あの衆はこのお寺にまつってもらえるような人種じゃあらせん』と言うだが」
 しかし、それもその程度の話で、「片山氏は朝鮮人」ということについて確たる証拠はないという。そもそも安政時代と言えば片山氏からすれば祖父どころか曾祖父ないしは高祖父、つまり「ひいひいじいさん」くらいの代である。本当に朝鮮からの渡来人だったとしても、それほど前の代のことであれば、今さら朝鮮人とは言えないし、現在の片山氏に影響しているとは考えにくいだろう。
 OBによれば「奥さんも同族で、知事公舎で朝鮮語で会話していた」と、言いたい放題である。なお、配偶者の弘子(ひろこ)氏とは幼ななじみである。弘子氏は片山氏が知事に就任してまもない頃に悪性リンパ腫を患い、二〇〇九年七月一七日に死別している。新聞報道によれば、葬儀はキリスト教会の関係者と共に行ったということだ。しかし、別の地元住民によれば、弘子氏の実家は黒住(くろずみ)教だという。なぜなら、知事選挙の時に黒住教本部から鳥取県内の黒住教の家に、弘子氏を通じて黒住教と縁のある片山氏に投票するように要請が来たということである。黒住教と言えば岡山が発祥の地であるので、弘子氏の実家が黒住教だったとしても不思議ではない。それにしても「朝鮮人」が天照太神を祭る神道の黒住教に入るのか? OBに疑問をぶつけてみたが、
「黒住は朝鮮人だで」
 といった調子である。

環日本海国際交流ブーム(?)の火付け人

〝片山善博朝鮮人説〟は信ぴょう性が低いと言わざるをえないが、片山氏がなぜ韓国びいきなのかは、自身の著書「地域間交流が外交を変える」(光文社)の中で本人が語っていることが本当のところだろう。著書によればこういうことだ。
 一九八四年、片山氏は国土庁土地政策課で地価の高騰対策の仕事をしていた。海外の土地対策の政策調査のために当初はニューヨーク行きを予定していたが、予算の都合で上司から韓国行きを命じられる。当時の片山氏の仕事は「一日一冊本が読めるくらいに暇だった」ため、それを期に独学で韓国語を勉強した。
 一九九三年にはさらに彼の韓国趣味に拍車がかかる。その年、中国五県の総務部長会議が仁風閣(じんぷうかく)宝隆院(ほうりゅういん)で行われることになったため、当時鳥取県の総務部長だった片山氏は会場の床の間に飾るのに適当なものはないかと県立図書館館長に尋ねた。そこで館長が見つけてきたのが「漂流朝鮮人之図」という掛け軸である。これは一八一九(文政二)年に赤崎に漂着した朝鮮人を描いたものである。興味を持った片山氏は、わざわざ韓国・江原道に出向き、掛け軸に描かれた朝鮮人の子孫捜しをはじめた。片山氏の韓国人脈は、この時に築かれたものである。それが縁となり、一九九四年、鳥取県は韓国・江原道と友好提携を結んだ。鳥取県と韓国との密接な関係は、片山氏が知事になるずっと前から片山氏により築かれたと言って間違いないのである。
 実は筆者も当時の思い出がある。一九九五年に「鳥取県青少年洋上国際セミナー」というイベントがあった。高校で各学年に一人、タダ同然で一週間韓国旅行ができるということだったので、物好きだった私が志願した。その年は鳥取県で全国高等学校総合体育大会があり、韓国の高校生も招待された。どこに行ってもとにかく「環日本海交流」を呼びかける、そんな年だった。しかし、一学年に二五〇人くらいはいた私の高校で、名乗りをあげたのが、私たった一人だけだったのだから、一般の県民にとってどの程度の盛り上がりだったか、おおよそ察しがつくだろう。
 事前の研修では鳥取大学の留学生という韓国人女性が講師として出てきた。その年は終戦五〇周年でもあったのだが、当時上映していた神山(こうやま)征二郎(せいじろう)監督の「ひめゆりの塔」や、広島の平和記念式典のことを引き合いに「まるで日本が被害者のようでおかしい」と用意したプリントまで配って非難したかと思えば、「キムチ」の発音にやたらこだわって「〝kimuchi〟じゃない〝kimchi〟だ!」と怒るなど、なかなかエキセントリックな人であった。これから行く国にはこのような人ばかりなのかと不安になったが、今になって思えば、単なる人選ミスである。
 ともあれ、一週間の「韓国旅行」は私にとってはよい経験になった。当時はアジア通貨危機直前の韓国が最も輝いていた時代であったから、韓国側は産業や観光をアピールしていた。感じたのはそんな韓国側と我々の温度差である。韓国国民は日本国民と比べると国粋主義的と言えるくらいのナショナリズムの国であり、国民は自分の国のことを自慢することをはばからない。そして韓国は日本以上に競争社会であり、弱肉強食の国である。韓国側から出てくるのはエリート高校の生徒だ。かたや我々はほぼ無差別に集められた中高生、上司の頼みで送られてきた、あまりやる気の無さそうな町役場や村役場の職員という烏合の衆である。我々は何度も何度も時間も守れずだらだらと行動し、船上の朝礼で引導者に怒られるような有様であった。
 二年後にはアジア通貨危機があり、韓国は未曾有の経済危機に陥るのだが、それでも鳥取県と韓国との交流事業は続けられた。その頃既に片山氏は鳥取県を離れ、自治省に戻っていた。再び鳥取県に戻るのは知事になったときである。

学芸会県政

 鳥取県知事となった片山氏が最初に手をつけたのが、県議会改革である。片山氏は、就任早々県議会の現状を「学芸会だ」と言って批判した。当時の県政について、鉄永(てつなが)幸紀(ゆきのり)元県議会議長に話をうかがった。
「学芸会ということの意味は、議会の前に議員が質問通告書を出すのは当然のこととしても、質問に対する知事側の答弁、さらに議員の追求の内容までもが事前の根回しで決められていたということです」
 議会の前になると、議員から当局に対して議会での質問事項を書いた質問通告書を提出する。それをもとに県の職員が回答を準備し、知事が答弁する。それに対してさらに議員が追求するという形で議会での論戦が行われるわけだが、それが全て事前のシナリオ通りに行われていたというのである。
 それが、片山氏が知事になってからは、議員の質問に対して知事がどのように答弁するのかは、議会の本番まで分からなくなった。当然、知事の答弁に対する議員の追求の内容も分からない。論戦が成立するようにするには、双方ともに役人任せにするのではなく、議題について事前の幅広い調査が必要になる。
 しかし、意外にも鉄永氏自身はこの知事のやり方に違和感は感じなかったという。
「私は県議会議員になる前は青谷(あおや)町(ちょう)議会の議員をしていましたが、質問通告書を出してそのままというのは当然のことでしたよ。逆に今までの県議会のやり方に違和感を持っていました。まあ、他の議員で戸惑った方はいたようですね」
 しかし、それで議会が全て知事のペースになってしまうということはなかったのだろうか。鉄永氏によれば、むしろ逆だという。
「片山さんはスポンジみたいなものですよ。何でも吸収してしまうんですよ。議会が提案すれば、『え、こんなことが?』というようなことがあっさりと通ってしまうという面がありました。もっとも、『箱物を作れ』みたいな提案は通らないと分かっていたので、最初からしなかったですけどね」
 個性的な「改革派知事」にしては意外な一面である。片山氏の政治手法は、原理原則、総論については非常に強い主張を持つ反面、各論については民意、つまりは議会に委ねるということのようである。それは片山氏の優れた点でもあるが、後述する「人権救済条例」の一件では、そのことが原因で足元をすくわれることになった。

改革派知事のさきがけ

 片山氏は、二〇〇九年八月二九日岡山大学で開催された「第16回全国市民オンブズマン岡山大会」の講演で、自身の業績を次のように自画自賛した。
「鳥取県には六〇〇〇億円くらいの借金がありまして、私は八年間知事をやりましたが、毎年毎年、六〇〇億円+α(プラスアルファ)くらい借金を返していました」「何を一番手応えのある仕事をされましたかと聞かれましたから、借金を返したことと答えました」
 この話にはかなり誇張がある。県財政課に問い合わせたところ、「片山さんがそんなことを言われたんですか?」と驚かれてしまった。県財政課がインターネットで公開している資料によれば、片山氏が知事に就任した一九九九年の県の借金は四九五七億円である。片山氏が言う六〇〇億円というのは、借金を返すために、利子を含めて毎年それだけの支出があったということである。元金の返還額は二〇〇四年の五九一億円がピークとして、毎年五〇〇億円程度である。しかも、新たな借入もあるので、実際は一〇〇~二二一億円くらいが実質的な借金の減少額である。
 しかし、これにもからくりがある。平成一三年度からは、地方交付税が減額され、不足分を臨時財政対策債(臨財債)として借り入れるようになった。臨財債は償還費用を将来の地方交付税で国が補填するとされてはいるが、県の借金であることには変わりない。臨財債の借り入れは毎年三〇〇億円前後もあるため、実は純粋な意味で鳥取県の借金が減ったことは一度もないのである。
 片山氏が退任した二〇〇七年の鳥取県の借金は総額六一四九億円である。しかし、臨財債による借金は国の責任という面があるので、その分を引けば四六〇三億円。つまり、片山氏が就任中に返した借金の額は三五四億円だ。
 それでは、どのように借金を返したのか。鉄永氏はそのことについて開口一番こう言った。
「基金がだいぶ減っていますね」
 基金というのは、貯金である。片山氏の就任当時一〇一四億円あった基金が、退任時には四〇三億円に減っている。その差は六一一億円であるから、借金以上に貯金も減ってしまったのである。しかし、借金を返すための努力はそれだけではない。
「支出を減らしたんですよ。まず、公共事業を減らしました。そして平成一三年から平均で五%人件費をカットしました。」
 これら財政の健全化は全て片山氏が主導したことなのかというと、必ずしもそうではないようだ。
「公共事業を減らすのは片山さんの方針でしたが、最終的に議会の責任でやったことです。それから、企業でも何でも財政を立て直すなら人件費から手をつけるのが筋ですから、人件費のカットは議会から提案したものです。私としても以前から必要だと考えていたことを、片山さんの時代にやったということです」
 さらに「わたり」という不合理な給与制度をなくした。「わたり」とは勤続年数が長いという理由だけで、実際の職務よりも上級の給与を支給することである。また、現業職の給与が民間に比べて高すぎたので、これも是正した。鉄永氏は当時のことをこう語る。
「もちろん、県の職員はこころよく思わなかったでしょうね。自民党政調会長だった私は恨(うら)まれ役になりましたから、ずいぶん票を減らしましたよ」
 あまりにも能力に問題がある職員に退職を勧告することが行われたのも、片山氏が知事になってからである。片山氏が退任した後も人件費削減の努力は続けられ、最初は一〇〇〇億円以上あった人件費が二〇〇九年までには約九五〇億円に削減された。
 そして、片山氏と言えば情報公開である。審議会の議事録が公開され、予算書などあらゆる情報がインターネットで公開されて透明化された。議会も片山氏の改革に呼応して、インターネットライブ中継をはじめた。二〇〇四年には全国市民オンブズマン連絡会議が発表した「全国情報公開度ランキング」で、鳥取県が一位になっている。
 改革派知事のさきがけとしての片山氏の成果は全国的にも注目された。鉄永氏は当時の状況をこう語る。
「いろいろな県から、とにかくいっぱい視察が来てましたね」
 一方で、産業界に対する片山氏の姿勢は、非常にドライであった。
「片山さんは産業界からはあまり評価されてはいなかったですね。とにかく自立ということと、やる気のある人とやっていこうということですから」
「自立」ということは、片山氏の政策を表す一つのキーワードである。公共事業の削減は全国的な流れではあったが、鳥取県はそれを比較的先駆けて行った。結果として多くの建設業者がつぶれた。片山氏が退任した直後の二〇〇七年の夏ごろ、私は県内の土建業者を取材していたが、県の指名競争入札でAランクとされる業者に電話してみたところ、もう会社をたたんでしまっていたということがあった。他の土建業者が「最近は県の研修でも自立しろと言われる。要は転職しろということだ」とぼやいていたことが思い出される。
 このようなドライなスタンスは市町村に対しても同様であった。前述の日韓友好交流公園の建設のために、当時の赤碕町が三億九二〇〇万円という巨額をすんなりと借り入れることができたのは、このような片山氏のスタンスゆえだろう。市町村が借金をするためには都道府県の許可が必要であるが、片山県政のもとでは事実上フリーパスだったようだ。鉄永氏はこう語る。
「片山さんの考えは自己責任ということでしたからね。市町村が借金をするのを許可しないということは、私が知る限りなかったと思いますよ」

人権救済条例騒動

 片山氏と県議会と言えば「鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例(人権救済条例)」のことを外すわけにはいかないであろう。この条例は全国初の人権救済を目的とした条例として二〇〇五年九月一二日に鳴り物入りで成立した。しかし、条例の内容が非常にずさんなものであったことから全国から非難が殺到し、二〇〇六年三月二八日には施行停止、二〇〇九年三月二五日には廃止に追い込まれた。
 この条例は杉根(すぎね)修(おさむ)議員(当時)の提案により片山氏が推進したものだ。鉄永氏によれば、この条例の中身について、当時の多くの議員は無関心であったという。
「細かいことには頓着しなかったですね。人権を守るならいいことだ、その程度に考えていました。総論はよくても各論で問題が起こってしまった典型例でしょうね」
 条例を作るにあたって「人権尊重の社会づくり委員会」が条例の内容について審議した。その委員の人選についても議会は無関心であったようだ。鉄永氏に、例えば委員に朝鮮総連関係者が入っていたことについて、どのような経緯があったのか尋ねた。
「委員に朝鮮総連関係者が入っているということは、条例が成立して騒ぎになってから知ったことです。もちろん、片山さんは知っていたはずですよ。委員は知事が任命することになっているんですから」
 そもそも人権救済条例の中味についても議会ではほとんど議論されず、片山氏と、委員会任せの状態となっていたのである。私の手元に当時の人権尊重の社会づくり委員会名簿と、委員による定例の協議会と、人権救済条例の原案を作るための人権侵害救済検討会の議事録がある。そこから、多くの問題が浮かび上がってくる。
 条例の内容を検討した委員の中には、単に人権を守ろうというのではなく、条例を利用して県内の市町村の政策に干渉しようという意図を持つ人がいた。例えば、朝鮮総連鳥取県本部委員長の朴(パク)井愚(チョンオ)委員は、二〇〇四年一一月一八日の鳥取県人権尊重の社会づくり協議会でこう発言している。
「具体的事例となりますと、在日韓国朝鮮人の年金の不利益の問題があります。これは国がそういう具合に制度をつくりました。国籍条項とかです。県内で市町村をかけずり回っても一九二七年以前に生まれた高齢者には不払いというふうにほとんどの市町村がそうです。岩美町は一九三二年一月一日以前に生まれたものを高齢者とみなし、満七〇歳以上になると福祉手当を出すと、で中山町は三万円で四市が二万五千円です。こういった問題をこの人権相談の窓口で救済せよということは、これは救済の対象になるとみなしていいのでしょうか」
 つまり、在日韓国朝鮮人の年金未加入者に年金が支払われないことについて、人権救済の申し立てをしようと考えているわけである。それに対し、中島(なかじま)弘(ひろし)人権局長は「行政なり政治の施策の判断で行われているものについては対象には考えておりません」と答えている。
 さらに、条例自体にまで地方自治に反する内容が入れられてしまった。人権救済条例には、人権侵害の事実を通報できない場合として、次の規定がある(第17条第3項第5号)。

申立て又は通報の原因となる事実が本県以外で起こったものであること(人権侵害の被害を受け、又は受けるおそれのある者が県民である場合を除く。)。

 これは「鳥取県民に対する人権侵害は取り締まるが、鳥取県民による他都道府県民に対する人権侵害は取り締まらない」と取れるものであり、これ自体が差別的な規定だとして全国から非難が殺到する原因となった。しかし、この規定は単なるミスで入れられたものではなく、委員らの強硬な主張によって入れられたものである。
 二〇〇四年六月二二日の人権救済制度検討委員会議事録によれば、松田(まつだ)章義(あきよし)委員が、次のように条例の県外への適用を強く主張している。
「やっぱり、県民が県外で被害を受けた場合、人権委員会に申し出た場合は、それを受けて、県外の役所にこういう申し出があったか調べてくれないというような、県外の役所との調整とか斡旋とかいうことをすすめていかないと、被害者の救済などできないではないか。特に、調査が困難だから適用外などというのは冷たい。こんな文言が出てきたらふくろ叩きにあうのでは」
 これに國歳(くにとし)眞臣(まおみ)、椋田(むくだ)昇一(しょういち)、藤村(ふじむら)梨沙(りさ)の各委員が同調する発言をした。それに対し、中島人権局長が「そもそも条例はその自治体の中だけで有効なもので、県外への適用は不可能だ」と説明したことから、会議が紛糾した。藤村委員に至っては「委員を辞めたい」と何度も述べ、強硬に県外への適用を主張した。このとき、中島人権局長は県外への適用が不可能なことを知事は認識しており「県外のことは仕方ない」という姿勢であったことを説明している。
 しかし、結局は片山氏も不可能と考えていた県外適用の規定が入れられた条例が、委員会の案として出されてしまった。本来であれば、議会で問題とされるべきであるが、その議会は前述のような状態である。片山氏は当初から条例の制定を推進し、自らが任命した委員会にかけて条例案を作成した手前、自らそれに反対するわけにもいかず、多くの問題をかかえたまま条例案は可決してしまった。これは片山氏も想定していなかったことではなかっただろうか。皮肉にも、主に県外から「ふくろ叩き」にあってしまった。
 鳥取県で「人権」と言えば、それは「同和対策」のことであった。弱小県である鳥取県は国の同和対策の恩恵を最も大きく受けた県であるし、また二〇〇〇年ごろまで、部落解放同盟から行政や企業への糾弾が頻繁に行われた。そのため、人権に関わることについて、はっきりと批判的な意見を言えないだけでなく、原理原則が平気で曲げられてしまうような雰囲気が蔓延していた。また、議会に限らず多くの県民の態度は「無関心」であるから、結果として言った者勝ちのような状態になった。
 例えば二〇〇五年には県の公文書から性別の記載をなくすように各種規定が変更された。これは前出の人権救済制度検討委員会の藤村梨紗氏が呼びかけたものである。藤村氏自身が男性から女性への性同一性障害であり、「性別の記載を求められることが苦痛だ」というのがその理由である。しかし、そもそも「藤村梨紗」という名前自体が本名でなく、委員会でも女性風の名前を通している。本音は「性別欄に男でなく女と書きたい」ということは明らかなのに、なぜか「性別自体の記載をなくす」という奇妙な主張が通ってしまった。結局、医療機関や福祉施設のようなところでは、さすがにそれは不便ということで現場判断で性別の記載が戻されているのが実態である。
 同時期に「人権に配慮するため」として県の公文書から元号の記載がなくなった。誰の人権に配慮するという意味なのか聞いてみると「日本の元号になじみのない外国人に配慮した」というのである。しかし、考えて見れば県の公文書はほとんど全て日本語で書かれており、日本語を読める外国人が元号を知らないということはあり得ないし、元号と西暦の換算を不便と感じるのは外国人に限らないので、どう考えてもつじつまの合わない話だ。それなのに通ってしまったのである。背景にあるのは、鳥取県特有の「同和教育」である。子供が小学校に通っている地元関係者によれば「元号は天皇制を認めるから使わないと、子供が学校の同和教育で教えられた」ということだ。
 二〇〇六年からは男女共同参画を推進している企業を県の入札で優遇するという制度が導入された。しかし、伝統的に女性の就業率が高い鳥取県で必要なことなのか、育児休暇などの要件をクリアできるのはもともと余裕のある企業であるため、実質は単なる大企業優遇ではないかということなど、突っ込みどころは多い。そもそも、給料が低いから夫婦共働きでないと暮らせないというのが鳥取県の実情なのだ。
 そのような体質が人権救済条例騒動を期に変わったかと言えば、そうでもないようだ。例えば二〇一〇年八月にもこんなことがあった。同和対策に批判的な共産党系の団体である「鳥取県地域人権運動連合」(鳥取県人権連)が、県の「県民自ら行う人権学習支援補助事業補助金」の交付を申請したところ、県は「部落差別が現存するかぎり同和行政は続けるという県の基本方針に沿わないため」という理由で助成を断った。
 人権という概念のあり方については、様々な意見があるはずだが、税金を使って県の方針に肯定的な意見だけを増長させ、批判的な意見を相対的に排除する体質は残念ながら変わっていないように思う。いくら住民の意見を汲みとっても、情報公開を推進しても、行政が堂々と世論誘導をするようでは、それは見せかけだけの民主主義でしかない。

片山氏が去った後

 鉄永氏に片山県政について、点数をつけて頂いた。
「七〇~八〇点というところでしょう」
 意外に高得点である。では残りの二〇~三〇点は何が不足していたのか。
「ポピュリズム的な面があったと思います。それから、原理原則にこだわりすぎ、情に欠けていた。気に入らない人を排除して、最後の方には周囲がイエスマンばかりになっていたのではないか」
 最後に、総務大臣としての片山氏への要望をうかがった。
「鳥取県のような、弱い地域に配慮した基準を作るようにして欲しい。知事を経験し、現場を知っている片山氏には期待しています」
「学芸会」ではなくなった議会、人件費のカット、情報公開といった片山氏の政策は、片山氏と同様県外出身である平井(ひらい)伸治(しんじ)氏が知事になってからも引き継がれている。しかし、〝ドライ〟だった片山県政の反省もあり、平井知事になってからは産業に力を入れるようになり、市町村と協力するスタンスへと変わってきているという。
 片山氏が目指したのは「教科書通りの地方自治」であったように思う。議会での議論が尊重され、意見を言えば通る、議論の前提となる情報も公開される。一見すると民主主義の要件は満たしている。しかし、一方では声の大きな人の意見が通り、そうでない人は報われない面があった。人権、男女共同参画、国際交流といった、華々しいキーワードはメディア受けするのは確かだが、県民にとって重要なのは働く場所がない、収入が増えないといった日々の生活の問題であり、そのような県民の非常に冷めた見方とのギャップを感じた。
 政治家は、声の大きい人の「熱い理想」だけでなく、庶民の「冷たい本音」にも公平に耳を傾ける必要がある。片山氏の総務大臣としての能力が正しい方向へと生かされるかどうかは、今の国会が本音での議論をどこまでできるかにかかっているだろう。(鳥)

韓国大好き、片山善博総務相が鳥取県でやってきたこと(同和と在日2010/11)」への2件のフィードバック

  1. 匿名

    片山さん 夫婦別姓を主張するのなら 韓国で暮らせば?
    あなたが日本に居る必要はないよ

    返信

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