Outcaste Politics and Organized Crime in Japan: The Effect of Terminating Ethnic Subsidies の日本語訳の続きを掲載する。前回はこちらを参照のこと。
今回は、同和事業が組織犯罪を助長した根拠を様々な事例と共に論じている。そして、犯罪組織が同和事業から利益を得る具体的な方法を5つ挙げている。また、同和事業終了前後に警察による取り締まりが強化されたことが指摘されている。
Ⅲ. 取り締まり
A.法律
政府が同和事業の廃止に向けて動き始めたとき、政府はまた摘発を容易にするために法律を再構築し始めた。1991年、前科のある構成員の数などの要件に基づいて、暴力団を犯罪組織として指定することを都道府県に許可した<「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」、1991年法律第77号。概要はヒル(2003)を参照のこと。>。一度指定されると、警察はより少ない制約で暴力団に対抗することができる。2011年に、特に危険であると指定された組織に対して追加の措置を許可するように法律が改正された(工藤會2013、一ノ宮&グループK21 2016:2)。2000年と2007年の制定された他の法律は、金融詐欺と資金洗浄に対する警察の捜査を容易にした(ランキン2012)。
2010~2011年までに、都道府県は独自の暴力団対策条例を可決した<例えば、東京都暴力団排除条例、条例第54号、2011年3月18日。青森県暴力団排除条例、条例第9号、2011年3月25日。岩手県暴力団排除条例、条例第35号、2011年3月16日。概要は暴力団(2012)を参照のこと。>。大抵は曖昧な表現であったが、結果的に合法的な企業に、暴力団構成員とのさまざまな日常的な商取引を避けるよう圧力をかけた。原則として、地方自治体が暴力団と契約することを禁止した。取引相手が暴力団とのつながりを持っている場合は契約解除できる定形約款を使用することが企業に奨励され、企業が暴力団関連会社に投資したり、その他の方法で資本を提供したりすることは禁止された。
累積的に、法律と条例は暴力団にかなりの圧力をかけている。ランキン(2012)は、「ヤクザが公売に参加するのを防ぎ、福祉給付金を受け取らないようにし、公営住宅事業から追放するキャンペーン」を報告した。福岡県警は「ヤクザのボスのために名刺を作った印刷会社に警告した」(ランキン2012)。また、大阪の裁判所は、最近の法改正により、「投獄された部下の家族に金銭的援助を提供したとして、ヤクザの上司に懲役10か月の刑を言い渡した」(ランキン2012)。
2000年頃、暴力団に対する警察の活動が加速した。恐喝・脅迫に関する逮捕だけを見てみよう<一人当たりの「粗暴」犯罪の数:恐喝・脅迫、危険な武器を使った集会、暴行、暴力。法務省(さまざまな年)からのデータ、および政府統計データベースからダウンロードできる。>。警察は、2012年の逮捕者数のうち暴力団関係者が関与した割合は、恐喝が44%、脅迫が29%であると報告した(法務省、犯罪 2013:表4-2-2-2)。逮捕者数は市町村レベルまでは分からないが、表2は、全国および部落民の人口が多い都道府県での逮捕を示している。
以下に説明する理由により、脅迫のレベルは1970年代と1980年代に非常に高かった。これらの高数値から、1996年の全国の脅迫による起訴件数は37,110件と着実に減少した。部落民が多い3県でも同様に減少した。しかし、1999年から2000年にかけて、起訴件数は全国で33%急増した。大阪府では25%、兵庫県(山口組の本拠地)では39%、福岡県(特定危険指定暴力団工藤會の本拠地)では9%と急増した。
B.ターゲット
表2. 恐喝と脅迫による逮捕件数
1975 | 1980 | 1985 | 1990 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
日本 | 86,159 | 68,154 | 59,666 | 42,042 | 37,370 | 37,110 | 40,432 | 39,755 |
大阪 | 4,965 | 7,065 | 5,176 | 4,086 | 3,904 | 3,540 | 3,752 | 3,624 |
兵庫 | 4,523 | 3,350 | 2,869 | 2,065 | 1,517 | 1,768 | 1,862 | 1,809 |
福岡 | 5,167 | 3,673 | 3,626 | 3,013 | 2,861 | 2,774 | 2,808 | 2,713 |
1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2010 | |
日本 | 37,874 | 50,419 | 50,428 | 49,615 | 49,530 | 46,801 | 49,156 | 49,525 |
大阪 | 3,095 | 3,879 | 4,244 | 4,103 | 4,071 | 3,901 | 3,877 | 3,330 |
兵庫 | 1,652 | 2,291 | 2,298 | 2,886 | 2,696 | 2,604 | 2,922 | 3,225 |
福岡 | 2,402 | 2,609 | 2,698 | 2,327 | 2,458 | 2,121 | 2,453 | 2,710 |
2000年代に入ると、政府は警察力を使った。何十年もの間、警察と検察官は部落解放同盟の指導者に手を出さないできた。しかし、2004年には浅田満らハンナングループの上級管理職10人を50億円の補助金詐欺で逮捕した。浅田は地元の部落解放同盟支部で重要な役割を果たし、暴力団・山口組で目立った地位にある2人の実弟をハンナングループで雇っていた<[当事者名前なし]1918 判例時報 126 (大阪地裁2005年5月27日)。右記参照、角岡 (2012:187)、一ノ宮とグループK21 (2012:258–64)、伴 (2017)。>。第一審では浅田に懲役7年の判決が下った。高裁は刑期を減らしたが、有罪が確定した。
2005年、警察は大阪市の契約がからんだ入札で不正を行ったとして大阪府同和建設協会の造園業者を逮捕した。警察は不意打ちで大阪市職員も逮捕した。「しかし、私たちはこれを30年間行ってきたんです」と弁解する者もいた。それでも、裁判所は彼らを有罪とした(角岡2012:187;「しんぶん赤旗」2006年1月20日(金)「「解同」系協会加盟業者を逮捕」)。
2006年、芦原病院についてのニュースが流れた。病院は大阪の部落民に奉仕するもので、壁に誇らしげに部落解放同盟の記章(訳注:荊冠旗)を掲げていた。さらに、市から13億円を借りながら返済していなかった。自身も部落解放同盟員である看護師は、次のように不満を述べた<角岡 (2009:271; 2012:188–89)。概要は友常 (2012:3章)を参照のこと。>。
看護師と事務職員は主に近隣からの雇用者です。病院には通常の病院の1.5倍の職員がいます。仕事が楽になると思いますよね? そうではありません。多くの職員は、ただのんびりとしています。…事務職員は残業中にテレビを見ています。一部の看護師は、どれ位の時間で静脈注射ができるか計算することすらできません。このような状態は人生に影響を及ぼします。
2006年、変わって警察は大阪の中心部から外れた八尾市の部落解放同盟支部の元支部長(訳注:丸尾勇のこと)に目を向けた。その男は山口組の相談役を兼務していた。彼は市役所からの利益と、公共工事の受注に成功した企業からの見返りを要求していたようだ。警察は彼を恐喝で立件し、裁判所は彼を刑務所に送った。裁判所が決めた刑期は短く、2014年までに彼は再び新たな詐欺の罪で逮捕された<角岡 (2012:190)、丸尾 (2006)、一ノ宮とグループK21 (2012:150–51)。>。
メディアも京都市の職員について報道し始めた。1996年から2001年にかけて、警察は覚せい剤に関する罪で16人の市職員を逮捕した。これは有権者が公務員が清廉であると信頼している(または少なくとも期待している)国のことである。市職員らの逮捕に伴い、警察は暴力団への所属、コカインの使用、シンナーの乱用、暴力行為といった過去の経緯を明らかにした。これらの市職員のほとんどは、京都市が部落民の優先雇用事業を実施している部署で働いていた(寺園他2004:47)。2003年から2006年の間に、京都市は暴行や盗難から長期欠勤に至るまでの不正により70人の職員を処分した(角岡2012:191)。悪いニュースは続いた。2006年4月から2007年7月まで、警察はさらに15人の市職員を逮捕した。今回は、覚せい剤だけでなく、暴行、ひき逃げ、ゴルフクラブによるATMの破壊も理由となった(中村&寺園 2007:4、11–12)。
2006年末までに、奈良市職員の部落解放同盟支部長(訳注:吉田昌史こと中川昌史)が、過去5年半の間にわずか8日間しか勤務していなかったとメディアは報じた。残りの期間、職員は病気と報告し、給与を全額受給していた。メディアは職員の白いポルシェと、妻が所有する建設会社と市との契約について大きく報じた。市は職員を正式に解雇し、警察は建設工事に関連した恐喝の罪で彼を逮捕した(角岡 2012:191; 奈良市2006)。
C. 小西邦彦
<概要は右記参照。角岡 (2012)、森 (2009); 一ノ宮とグループK21 (2012:64–147)。>
最大のニュースは、部落解放同盟支部長の小西邦彦に関するものであった。2006年、警察は30代の愛人のマンションで72歳の小西を逮捕した。小西はとてつもない金持ちになっていた。小西を担当した銀行員は、小西は人生で100億円を稼いだと推定している(角岡2012:101)。小西はこのお金の多くをヤミ金融と同和対策特措法関連事業のキックバックから得たが、警察はさらに山口組のために資金洗浄をした疑いを持っていた。警察は、資金洗浄の事実を掴むために1年間小西を追跡した(森 2015:190–228)。やがて、これは横領の証拠につながり、2006年5月にそれらの容疑で小西を逮捕した。
小西は1933年に大阪と京都との間にある部落に生まれ、中学を卒業後は落ちこぼれた。小西は暴力と恐喝のために刑務所で複数の期間を過ごした。小西はヘロインを扱っていた。やがて山口組系暴力団に加わり<角岡 (2012:26, 29, 41)、一ノ宮とグループK21K21 (2012:80)、森 (2015:123)。>、1969年35歳で大阪市の飛鳥地区にある部落解放同盟支部長に就任した。
小西はその後、市を説得して近くの土地を駐車場に変えた。名目上、小西は地域の社会福祉法人を介して多くのことを実行した。実際のところ、小西は最初からそれらで不正を行っていた。小西は市に90台の車を管理していると言ったが、実際には200から400台であった。さまざまな口座があったが、少なくともそのうちの1つは、実際には2億円の収入があるにもかかわらず、市には7000万円と報告した。2004年、市は駐車場収入について最初の30年間で18億円と報告した。小西は実際には50億円を集め、少なくとも一部を彼の暴力団組織に送金していた<角岡 (2012:22, 60–63)、森 (2009:22)、一ノ宮とグループK21 (2012:71–76)。>。
小西は贅沢に暮らしていた。小西は奈良に邸宅を所有し、飛鳥にある小西の同和対策公営住宅をまた貸ししていた。小西はさまざまなマンションに愛人たちを住まわせていた。夜は豪華なナイトクラブで過ごし、月額1,000万円をバーにツケにしていた(角岡2012:124)。小西は運転手付きのリンカーンに乗り、娘のためにメルセデス・ベンツを購入した(一ノ宮とグループK21 2012:79、83、森2009:68)。小西はバーで警察官を接待した(森2009:128–30)。彼は山口組組長(訳注:竹中正久のこと)と十分に緊密な関係を維持し、敵対組織が組長を撃ち殺したとき、その現場は小西名義で所有されているマンションのロビーであった(角岡2012:108)。
おそらくそれは小西の堕落性のスケールの大きさであったか、あるいは部落解放同盟内での小西の卓越性であったかもしれないが、警察は小西を見せしめにした。検察は駐車場から1億3000万円を横領した罪で彼を起訴した(角岡2012:23)。三菱UFJ(旧三和)銀行の小西の元担当者は、警察が動く前に自殺した。現担当者は、詐欺を助長し、幇助したとして逮捕された。(森 2009:18–19;、一ノ宮とグループ K21 2012:68)。2007年に第一審裁判所は小西を有罪とし、6年の刑を言い渡した。小西はその年の後半に亡くなった。
Ⅳ. 堕落の類型
A.序
ここで、部落民という立場が、どのように収益を生むのかを詳しく見てみよう。同和対策事業の30年間、部落の堕落は通常、次の5つの形態のいずれかを取った。
- 施設建設に関する行政からの受注
- 主に施設建設のために行政へ土地を売却
- 脱税
- 「差別」の糾弾。企業が十分な金額を支払った場合、運動団体は糾弾を止める。
- 地方自治体の雇用等の、同和利権の分配の管理
これらの5つの先述はすべて、同和対策関連特措法から直接得られたものではなかった。しかし、単純な仕掛けによって間接的に得られた。すなわち、同和事業は犯罪組織に多数の部落民を参加させた。犯罪組織は一般の日本人の間でより恐れられるようになった。そしてその恐怖は、一部の部落民が民間企業や政府から引き出すことができる収益を増やすことになった。上記5つをそれぞれ順番に見ていこう。
B.建設事業の受注
同和対策関連特措法の過程で、日本政府は同和地区に15兆円を惜しみなく投入し、その多くは建設事業に費やされた。大阪府は1973年のたった1年で660億円、75.9%を建設事業に費やした(中原1988:132)。
部落解放同盟の「窓口一本化主義」により、すべてではないが、ほとんどの分野で、部落解放同盟は大阪府同和建設協会(同建協)に加入している企業に建設事業の受注を割り当てることができた。これらの企業は、同建協に契約金額の0.7%を支払った。解放同盟に厳しい批評家は、この慣行により、同建協は約30年間で70億円を獲得したと主張している<中原(1988:132)、森(2009:77、180)、一ノ宮とグループK21(2012:127; 2013:108–11,268)。森(2009)は解放同盟批評家ではないことに注意のこと。彼は著名な出版社で本を出している主流のジャーナリストである。>。
名目上、同和関係企業のみが同建協に加入できたが、実際には、それ以外の一般企業もしばしば加入した。特措法による資金が供給される建設事業の利益は十分に高かったので、一般企業が同和関係企業になろうとした。体裁を維持するために、企業は顕著な部落民指導者(訳注:おそらく解放同盟支部長)を社長に据える方法もあるが、賄賂だけで十分な場合もあると言われている(森2009:180–83)。
落札に成功した部落民指導者の中には、0.7%の同建協手数料を超える金額を要求する者がいたようだ。小西の例のように。部落ではない一般の建設会社の入札を担当した実業家の説明によると(森2009:78、180):
もし大阪市の事業に入札しようとすれば、通常は最初に小西さんを訪ねました。結局、小西さんが入札を仕切っていました。だから、市が事業を入札にかけようとしていたら、私たちは小西さんを訪ねるのです。私たちは(同建設協会員による)ジョイントベンチャーを立ち上げ、それを小西さんに提示し、小西さんの承認を得ました。
会社が落札すると、契約の3~5%を小西に個人的に支払った(角岡2012:96)。
能力のある部落民は、ダミー会社を通じて同和事業の収益を自分自身が得ることもできる。そのために、彼らはまず会社を設立する。その会社は同建協に加入し一般の建設会社(小西を訪れた会社など)と提携する。彼らは一緒に公共事業に入札し、入札に勝ったら、ダミー会社を切り離し、一般の会社が仕事をした<小西自身が野間工務店事務所を所有していた。設備はほとんどないのに、大量の入札に勝ち抜いた。5年間という期間で、21億円以上の市との事業契約を獲得した(一ノ宮とグループ K21 2012:83–84、125、238-39; 2013:271-72)。>。
批評家は、一部の部落民活動家は、同和対策事業は部落に限定しなかったと言う。この主張が誇張されているかどうかは分からないが、批評家たちは、部落民活動家が、今まで存在してもいなかった部落を見つけたと主張することがあると不満を漏らしている。活動家らは大勢の仲間を伴って無防備な市役所に押しかけ、市にその地域を同和地区指定するように迫った。そして活動家らは、市が同和住宅建設の入札を行うよう要求するのだ。対象地域の住民が不満を言った場合、活動家らはそれらの住民を偏見でもって非難した(中原1988:28–44、106–08; 一ノ宮&グループ K21 2013:267-68)。
建設事業にはこのような膨大なリソースが含まれているので、犯罪組織の間にも緊張が生じた。日本の組織犯罪の歴史の中で最も血なまぐさい時期は、山口組とその対立組織との間で戦争が勃発した1980年代半ばであった。それは単純な跡目争いではなかったと、部落民作家の宮崎学は説明している(宮崎&大谷2000:73)。それは、同和対策事業からの巨額の収益配分をめぐる戦いだった。
C.土地ころがし
コネのある部落民は、建設事業用地を高騰した後の価格で役所に売却することもできる。批評家は、さまざまな地域での例を報告している。自治体が飛鳥地区を再開発したとき、小西自身が莫大な利益を懐に入れた(角岡2012:86)。小西は土地を安く購入し、彼の伝記を書いた角岡(部落民でもある)の報告によれば、それを高値で役所に転売した。彼はまた他人の土地についても、有料で役所への高額な売却を仲介した。
ある大阪の不動産業者は次のように述べている(角岡2012:85–86):「小西が支部長になってから、どこに道路が通るのか、そして住宅がどこに建てられるのかを知る方法を学びました。」不動産業者は小西が何を買ったのかを見ていて、それを角岡に語った。「小西は以前1700万円で土地を取得しました」と彼は思い出した。「それから彼はそれを3000万円で役所に売りました。」
1970年代の北九州市と部落解放同盟指導者間のいくつかの売買のことを考えてみよう。朝日新聞(日本の知識階級の新聞)が最初にこの話を報じたが、そのことを解放同盟は否定していない。確かに、解放同盟は関係した個人を懲戒しさえした。角岡(2004:63–64)は、解放同盟自身が発行した本で、不正について率直に論じている(そして批判している)。表3は、新聞社が報告した土地売買の類型である。
表3. 北九州市における土地購入とその後の転売
購入日 | 市への売却日 | 間隔 | 価格の倍率 |
---|---|---|---|
1973/9/24 | 1973/10/26 | 1ヶ月 | 1.7 |
1978/9/28 | 1979/5/26 | 7ヶ月 | 1.8 |
1974/12/17 | 1974/12/17 | 0 | 2 |
1977/2/17 | 1977/5/12 | 3ヶ月 | 3.5 |
1977/12/ | 1978/6 | 6ヶ月 | 3 |
1980/7/2 | 1981/2/23 | 8ヶ月 | 2 |
1980/4/24 | 1981/3/3 | 10ヶ月 | 3.2 |
1978/11/14 | 1978/11/24 | 10日 | 3 |
1978/8/3 | 1978/12/13 | 4ヶ月 | 7.3 |
たとえば、表3の最初の行は、ある部落民が1973年9月24日に土地を購入し、10月26日に彼が支払った金額の1.7倍で市に転売したことを示している。9回の取引のうち2回目を行った部落解放同盟関係者は、2億9千万円の利益を上げ、他のいくつかの土地も同様に市に売却した。総合すると、市に土地を売却して13億円を稼いだ(角岡2004:63)。
D.脱税
<この記述は、さまざまな情報源から入手できる。比較的バランスの取れた著作については、角岡(2012:88-92)、森(2009:115-20)を参照のこと。部落解放同盟自身の記述については、部落(1978:章9-2)を参照のこと。部落解放同盟に非常に批判的な情報源については、右記参照のこと。ヒラ(1991:53-74)、寺園他(2004:122-200)、一ノ宮とグループK21(2013:33-44)、中原(1988:146-52)。>
同和対策特措法の30年間で、多くの部落企業は税制上の特権を要求し、引き出すことに成功した。その公式記録の1つで、解放同盟は、この偉業をどのように達成したか誇らしく語っている(部落 1978:106–26)。1967年12月、解放同盟大阪府連とその新しい下部組織である大阪府同和地区企業連合会(大企連 訳注:後に部落解放大阪府企業連合会と名称変更)の40人の会員が税務署に向かった。彼らは職員に対し「差別的な」課税があると非難し、(彼らの言葉で)「攻撃的な」戦術で戦うことを名言した(部落1978:109)。彼らによれば、ある部落民が土地の一部を売ったところ、税務署の担当者がそんなに安く売るはずはないと信じなかったという。解放同盟と大企連の40人は、税務職員を5時間「糾弾」した(部落1978:109)。
翌月、大企連の有力者が税務署に再び現れたが、今度は400人の部落民で行ったと、公式記録は誇らしく続けている。「国税局は部落の現実と差別について学ぶことを拒否していた」と説明した。そこで彼らはさらに5時間税務署の職員を追及し、(再び彼らの言葉によれば)「勝利」した<部落(1978:109)。協定は1978年に更新されたようである。一ノ宮他(2004:34)参照のこと。部落解放同盟自身(部落1978:111)とその批評家(一ノ宮とグループK21 2013:34、中原1988:147)の両方が、国税庁が全国的に同じ方式を採用することに同意したと主張している。とは言うものの、裁判所は、国がそのような条件に同意したであろうことを断固として(そして非常にもっともらしく)否定した。例えば、国(原告)対坂本(被告人)、226 Zeishi 3337(大阪高裁1995年6月15日)、他の理由で控訴棄却、226 Zeishi 3316(最高裁1997年11月14日)(下級裁判所を引用した審判請求趣意書)。>。税務署は、以下の事項を含む7つの原則に同意した。
3. 返却…大企連を通じて提出され、その監督下にあるものは、完全に受け入れるものとする。内容を監査する必要がある場合は、大阪府同和地区企業連合会の協力を得て監査を実施するものとする。
4. 同和対策事業には課税されないものとする。
事実上、各地の国税局は、大企連が望むような税の減免を許可することに同意した。「国税庁は、1000万円の収入が300万円か400万円に減ると説明した」とあるジャーナリストは書いた(角岡2012:92)。「2000万の収入は500万から600万に減少する。事実上、所得の3分の2は非課税として扱われる。」
3分の2の減税が見込まれるのを見て、様々な企業が争って部落に参加する特権を求めた。繰り返しになるが、解放同盟員の権力者たちがそれを可能にした。1997年のある調査によると、大企連飛鳥支部の52企業のうち15は、会社や会社所有者が飛鳥地区外にあった(角岡2012:92)。小西をよく知っている人は次のように説明した(角岡2012:92):
それは1970年代半ばの頃だったと思います。小西さんに600万円を渡すように頼まれました。それは大企連に加入させてくれたことへの御礼でした。…それなら部落民であるはずだと思うでしょう。しかし、部落民以外の会員でした。そのような場合、加入者はお金を払わなければなりませんでした。
大阪市と小西がやっていたことが一般化された、すなわち一般企業は大企連という部落民団体に加入するために賄賂を使った。全国的に見ても、大企連会員の約5分の1が部落企業ではないと批評家は推定している。そのような企業は大企連に紹介してもらうために誰かにお金を払い、参加した。会員になると、企業は免税資格要件を満たすために、大企連に対価を支払った。通常、税金の約20%が免除された<右記参照。一ノ宮とグループ K21 (2013:39, 43–44)、中原 (1988:152)、ヒラ (1991:64–66)、寺園他 (2004:122–36, 200)。>。
大企連会員であることにより完全な免税を提供されるわけではない。特に検察官が行動を起こす意思がある場合は、裁判所は協定を適用するつもりはなかった<検察は、手数料と引き換えに脱税を幇助した部落民らに対して特に厳しいと見られる。右記参照。国(原告)対坂本(被告人)、226 Zeishi 3337(大阪高裁1995年6月15日)、他の理由で控訴棄却、226 Zeishi 3316(最高裁1997年11月14日)。>。このことには限度があり、1989年に大阪地方裁判所は370億円は限度を超えていると宣言した。国会はまだ同和対策事業特措法による事業を終了しておらず、検察はまだ小西に手をかけていなかった。それにもかかわらず、1986年に検察は日本最大のスロットマシン製造会社である東京パブコ(および関連団体)とその納税申告書の提出を手伝った顧問を起訴した<事件は広く報道された。国(原告)対中谷(被告人)、197 Zeishi 2713、1989 WLJPCA 07066001(大阪地裁1989年7月6日)、改訂、197 Zeishi 2670、1992 WLJPCA 08266004(大阪高裁1992年8月26日)。例えば、ヒラ(1991:58–65)、一ノ宮とグループK21(2013:39–44)も参照のこと>。同社は大企連に加入し、収入を370億円過少申告しており、これは実質収入の98.5~99.9%に相当する。大企連に加入できるようにするために、大企連指導者が母親を会社の取締役会に入れていた。新たに部落民の地位が確保されたため、同社は安全に収入を過少申告できると考えた。特権の対価として、顧問に7億円を支払った。顧問はそのうち5億円を大企連に送金し、2億円を個人的な手数料として受け取った。
第一審判決は顧問に懲役2年8ヶ月と2億円の罰金を言い渡した<国(原告)対中谷(被告人)、197 Zeishi 2713, 1989 WLJPCA 07066001 (大阪地裁1989年7月6日)。>。大阪国税局による大企連の申告書の扱いについては、「同和団体が脱税に利用されており、税務署の対応に問題がなかったとは言えない」と不服があった。控訴において、顧問の弁護士は、国税局と大企連の特別な取り決めを強調した。7つの原則の3番目を引用し、その原則を受けて、税務署は大企連の他の9,000社の会員に申告書の修正を要求したことは一度もないと主張した。それにもかかわらず、高等裁判所は第一審判決を支持した。顧問の刑は2年に短縮され、確定した<国(原告)対中谷(被告人)、197 Zeishi 2670, 1992 WLJPCA 08266004 (大阪高裁1992年8月26日)。>。
E.恐喝
同和対策事業により、資金が部落民が関わる犯罪集団に移り始めた時、一部の集団は「差別」糾弾と恐喝とを結びつけた。企業は彼らを追い払うため、お金を支払った<これらの恐喝行為の「政治的に正しい」用語は「えせ同和行為」である。解放同盟は、同盟自身が認めていない恐喝行為、および事後に放棄することを決定した行為にこの用語を使用する(例えば小西の行為、角岡 2012:208を参照)。明らかにこの論理に従って、ランキン(2012)は、「ヤクザ自身が部落民の権利団体を装い、企業に補償金を支払うよう圧力をかけることによって状況を悪用している」と書いている。>。
この現象は1980年代に始まったと言われている。フリージャーナリストの宮崎学は、彼自身部落民であり暴力団組長の息子だった。彼は次の通り報告している(宮崎と大谷2000:73)。
この時期(1980年代半ば)は、被差別部落民による恐喝がピークに達した時期でした。…この時期に、暴力団にもたらされる収益の規模が変化しました。以前、暴力団は覚せい剤を売るようなことをしていました。しかし、これらの伝統的な活動と比較して、暴力団が被差別部落民による恐喝を通じて得ることができる稼ぎがはるかに多かったのです。
法務省が1989年にこの問題を調査したときまでに、恐喝は蔓延していた(表2の1980年代の恐喝による逮捕の多さを参照のこと)。同省は5,906社に連絡を取り、そのうち4,097社が回答した。回答者の17.5%は、1988年中に少なくとも1つの同和団体の恐喝の標的にされたと報告した。通常、同和団体の構成員は会社の従業員に電話口で叫び、部落民の問題を理解していないと非難した。時には彼らは政治家との関係を自慢し、時には規制当局に会社を調査させると脅迫した(法務省1989:33)。
同和団体は、たった1回の電話で会社を許すことはしなかった。対象となる企業に平均3.2回、大阪法務局管内では8.8回アプローチした。ほとんどの企業から、彼らは対価―現金、高額な出版物の購読、借り入れを要求した。建設会社に契約金の削減を要求したこともあった(法務省1989:11、33–37)。攻撃を受けた企業の3分の1は、少なくとも一部の要求に応じた。中小企業は屈服する可能性が最も高かった。1,000人以上の従業員を抱える企業では、25.0%が少なくとも1つの要求に応えた。従業員が50人未満の企業では、38.8%が要求に応じた(法務省1989:50)。
F.特権
1.経済的利益
特措法の下では、国や地方自治体は、集会施設を建設するために請負業者に対価を支払うだけでなく、部落民の家族に多くの利益を提供した<これらの利益の一覧は、例えば、寺園他(2004:292-93)、寺園(2005:37-40)、アップハム(1980:49)。>。地方自治体が解放同盟の窓口一本化主義を受け入れた地域では、解放同盟がこれらの利権を誰が受け取るか、受け取らないかを決定した。解放同盟が対抗勢力(例えば日本共産党と提携している部落民など)を除外した場合、除外された家族が訴訟を起こすことがあった。家族は多くの場合勝訴し、そして、地方自治体は結局ほとんどの地域で窓口一本化主義を廃止した<例えば、東(原告)対大阪市長(被告)、30 行集 1352 (大阪地裁1977年7月30日) (学費)、福岡市長(原告)対松岡(被告)、870 判例時報 61 (福岡高裁1977年9月13日) (住宅ローン)、前田(原告)対西脇市(被告)、887 判例時報 66 (神戸地裁1977年12月19日) (住宅ローン)、暴力に反対等(原告)対芦屋市(被告)、979 判例時報 107 (神戸地裁1980年4月25日) (会議室利用)、長井(ながい) (原告)対大阪市職員労働組合(被告)、987 判例時報112 (大阪地裁1980年6月25日)(組合員会合)、河野(こうの)(原告)対北九州市(被告)、1005 判例時報 150 (福岡高裁1980年6月8日)(保育園入園)。概要は右記参照。アップハム (1980)、寺園他 (2004:203-04, 287)、一ノ宮とグループK21 (2013:264-65);、朝日 (1982:52-55, 60-69)>。
2.住宅
行政は部落民のために特別な公営住宅を建てた。これらは家賃が多額に助成されるので、その地域に既に住んでいる人々にとって魅力的なものだった。窓口一本化主義により、地元の解放同盟幹部は、どの家族が同和住宅を取得するかを決定できた。1980年代、穏健な部落問題ジャーナリストの角岡の主張では、飛鳥地区では一部の解放同盟支部長はこれら住宅取得のために、一家族あたり70万円も受け取った(角岡2012:86–87;中原1988:78も参照)。
このように新たに手に入れた私財で、しばしば解放同盟支部長は部落を去り、他の場所に自分自身のためのよい家を建てた。助成を受けた公営住宅に自分の名義を残し、他の家族、時には部落民以外の家族にまた貸しする人もいた(角岡 2012:153–54)。建設事業や税制上の優遇措置と同じように、住宅関連でも一般の日本人が部落民の地位を手に入れることができ、実際にそうした。
3.仕事
特措法が発効した直後、解放同盟は地元の役所に優先的な雇用政策を求めた。特措法自体は、この優先雇用を義務付けておらず、それは、窓口一本化主義以上のことであった。しかし、特措法制定直後、部落民は役所を「糾弾」し始め、部落民をより多く雇うという約束を引き出した(中原1988:86)。いくつかの自治体は黙認した。2000年代初頭までに、覚せい剤等の刑事犯罪で逮捕された京都市職員の大部分は、これらの取り決めの下で雇用された者であろう(中村&寺園2007:22)[51]。
京都市は、いくつかの部署で採用を委任した。表向きは試験を行ったが、あくまで表向きのことだった。実質的に、部落民は「フリーパス」だった。解放同盟と共産党が決別したため、解放同盟系列と日本共産党系列の同和団体の両方に採用枠を割り当てた。これらの団体は雇用の候補者を指名し、市は彼らが指名したとおりに雇用した。当然のことながら、同和団体は「その人が運動にどれだけ貢献したか」に基づいて指名した(中村&寺園2007:18–19; 寺園他2004:56)<中村は、日本共産党候補として2度出馬した活動家弁護士である>。
G.社会的影響
1.恨み
同和対策事業は部落民に対する敵意を直接引き起こした。一般民は、同和特権に憤慨した。「(特措法を通じて)これらの特別な便宜がある限り、近隣住民は私たちが特別な恩恵を享受していると思うでしょう」とある部落民は不満を述べた(寺園2005:46)。「私たちに対する敵意は今後も続くのです。」
暴力団が関係した事件は、さらに強い恨みを引き起こした。部落民ジャーナリストの角岡(2004:48)は、「部落解放同盟が関わったこれらのスキャンダル」は、「部落住民自身のネガティブなイメージを再生産し、拡大した…こう思うのは私だけではないはずです。部落解放同盟は、自分たちがいったい何をしていると思っているのでしょうか?」と不満を述べている。
2.教育
同和政策の下で、才能のある若い部落民は暴力団で彼らの地位を作った。同和対策給付金は、暴力団員への転換を直接的に増やした。犯罪組織にとって、同和事業は容易な収益だった。必然的に、部落民が犯罪者へ転身することを増やした。その過程で、同和事業は教育への相対的な回帰を大幅に削減し、合法的職業での地位に必要な能力を持つ若い部落民の数を減らした(中村&寺園 2007:20; 角岡 2016:199)。暴力団内部での地位を上げるために大学の学位は必要ない。解放同盟の指名に基づいて雇用する自治体においても同様である。
中村和雄と寺園(2007:21)によれば、京都市長選に望むも2度失敗した日本共産党候補者が、ある部落住民の言葉を次のように引用している。「多くの子供や若者が高校や大学を卒業した後、さまざまな道を選ぶことができたでしょう。しかし、この(採用)事業が発効すると、彼らは勉強しているかどうかに関係なく、自治体で仕事を見つけることができることを知っていました。それは単に彼らの向上心を破壊しただけです。」ある元活動家(伴2017)は、「才能のある若者や自信のある若者は部落を離れる」と不満を述べた。その結果、「残っているのは、老人と(自治体の)役所で働く人々だけです。」