部落と言えば肉屋というのは偏見だが、羽曳野市向野と言えば肉屋というのは事実である。特に、食肉事業に絡んで、贈賄、詐欺を行ったハンナンの浅田満の出身地として知られる。良きにつけ悪しきにつけ様々な伝説を残す向野を探訪してみた。
1935年の『全国部落調査』には全国の部落の主業、副業が記載されているが、食肉に関する職業が記載された部落は意外に少ない。しかし、向野については主業が「肉行商」であるとはっきり書かれており、向野の食肉業が昔から顕著なものであったことを示している。当時の世帯数は307,人口は1386とされる。
1958年の『大阪の同和事業と解放運動』によれば世帯数は599,人口は2,628と、部落の規模はほぼ倍増した。これにも、主な産業は「食肉(トサツ業)」とはっきりと書かれている。
向野全体が部落というわけではなく、概ね2,3丁目が部落にあたる。1丁目は一般地区である。元部落解放同盟大阪府連合会副委員長の塩谷幸子さんによれば、2,3丁目は近隣では「悪い方の向野」と言われていたという。
大阪の同和地区と言えば、路駐し放題のところが多いが、向野はその中でも例外で、全般的に道路が狭くて路駐に適した場所が少ない。近隣住民の迷惑にならないように、コインパーキングに駐車して探訪を始めた。
噂通り、そこらじゅうに食肉業者がある。まさに食肉こそがこの部落の基幹産業である。
地図を見ても、そのことが分かる。
食肉業者の経営者によるものと思われる豪邸もあれば、古い家もあり、公営住宅もある。貧富の差が大きいように感じる。
ただ、同和だ部落だと主張するようなものはあまり目立たない。大事なのはイデオロギーよりも商売ということか。
しかし、人権文化センター(隣保館)を見ると、やはりここは同和地区だと感じてしまう。
広大な空き地を見つけた。これはもったいない。有効活用できないものか?
大阪の同和地区には必ずある保育所。
そして、部落の共同浴場である「ひかり湯」。名前の由来は水平社宣言の熱と光であることは想像に難くない。
共同浴場に駐車場はなく、前の道路も路駐禁止だが、風呂目当てで来た方は、この診療所の駐車場を使ってよいそうだ。
夕方に来たので、「ひかり湯」に入ってきた。元スラムの部落の浴場ではいかにもくたびれた老人が多いが、向野の場合はそれとは違って肉体労働者系のガタイのいいおっちゃんが多いように感じだ。筆者はよく分からないが、食肉業はそんなに筋力がいるものなのだろうか? それとも、毎日上質の肉を食べているためか?
肉屋が多い以外は、大阪の普通の住宅地とそんなに変わりがない。
…と思ったら、住宅密集地が現れた。
細い路地に空き地と廃墟が見受けられる。
かつての部落解放同盟委員長、衆議院議員であった上田卓三の後援会の札が掲げられた家もある。
この保育園は閉鎖されていた。少子化により、どの同和地区でも余剰の同和保育所は閉鎖されていることが多い。
向野の住宅密集地は意外に大きい。大阪府内でもかなり規模が大きな部類に入るのではないだろうか。
住宅密集地を抜けると川が現れた。これが東除川で、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで1975年1月24日のカラー写真を見ると川の水が赤く染まっているように見えることが5ちゃんねる等で話題となった。説明するまでもないだろうが、これは屠場の排水に含まれる血液によるものだった。もちろん、有機物を多量に含む排水を川に流すことは違法であるし、今は昔ほどいい加減ではないので、もうそのようなことはない。
川沿いを歩くと、何やら孤立感のある家が。
やはり共産党だった。
これは「わじま文化会館」。羽曳野における共産党の拠点である。事実上解放同盟を窓口とした、同和行政に異を唱えるこのような存在は貴重だ。
診療所と老人憩の家。
お寺を見つけた。関西の部落に多い浄土真宗本願寺派というだけでなく、「差別の世 問うていきたい 聖人に」という一句から部落の寺だということがすぐに分かる。
さらに住宅地をぶらぶらしていると…
向野に数ある豪邸の中でも際立った豪邸。もしやと思って調べてみると、この家こそあの浅田満の御殿だそうだ。かつては浅田満の別名である「浅田満利」の表札が掲げられていたそうだが、今はなぜか表札が外されていた。
とても大きな建物、これは羽曳野市立青少年児童センター。向野のは大きな部落ではあるが、それにしてもこの施設は大きすぎる気がする。向野以外からの利用はどれだけあるのだろうか。
ドクターヘリの離着陸場もあるという。
この山上九郎左衛門宗近は、地元の水利に貢献した人らしい。
どこからどこまでも、肉屋づくしの向野。
そんな向野でもやはり大阪、維新の会が存在感を示していた。
姓の分布からして、伊賀や恵我之荘などは向野からの「滲み出し」で形成された部落と見るべきでしょうか?
過去の航空写真と比べると、ほとんどの同和施設は周囲の田畑をつぶすか池を埋め立てて作られています。
向野部落は非常に狭い範囲に住宅が密集していたので、改善するにあたって周囲に広がることは不可避だったでしょう。
南恵我ノ荘(旧今在家村)に先祖が江戸時代中期から住んでいる者ですが、私のおじいさんから聞いた話では、大正時代あたりまでは向野地区と恵我ノ荘地区は村がポツン・ポツンと離れており、間は田んぼであった。
大正時代から昭和にかけて向野地区の人が恵我ノ荘地区に流入するようになってきたので、おじいさんが村代表で向野地区代表に抗議に行った、と聞いたことがあります。
また、私の先祖は庄屋の吉村氏の子分であり、私の親世代まで吉村氏とお付き合いがあった(吉村氏からいただいたものが実家に何点か残っている)ことを考えれば、今在家村は吉村氏が庄屋をされていた時代には既にあった、と思われます。
よって、滲み出しで形成されたものではなく、元々少し離れてあった村同士の間に家が立ち並びほとんど家で埋まってしまった、ということになると思います。
山上九郎左衛門宗近は、向野村本村(向野1丁目)の庄屋さんですね。
向野はウィキペディアの記事にもありますね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E9%87%8E_(%E7%BE%BD%E6%9B%B3%E9%87%8E%E5%B8%82)
向野村と更池村は関西の食肉生産の発祥の地であり、日本の食肉産業の源流でもある。
1858年(安政5年)には、向野村枝郷皮多村と更池村枝郷皮多村は、「屠者村」と称され、
畿内の皮革産業の中心地である摂津役人村の皮多仲間からも
“河内国向野村・更池村は屠畜を専らとする「屠者村」で、皮多村のなかでも希な下々の格下村である”
などの侮辱を受けている。同年の別の史料でも、「向野殺生方」と呼ばれていた。
今では食肉産業の方が儲かりますが、江戸時代は皮革>>>>>>>>>>食肉だったようです。
殺生を生業とする食肉業者は、皮革業者から見下されていたとのことです。
珍しくウィキペディアが直球ですね。向野と更池は皮革加工をしていたのではなくて、屠殺専門で、加工前の皮を皮革加工業者に売っていたということなのでしょうか。
ついに向野が紹介されてうれしいです。
ほかの同和地区に比べて住宅の密集具合がすごいですよね。
あと北方と南方で貧富の差がありますね。
基本北のほうが豪邸が多い。南は廃墟とか古い家が多い。
あと1丁目はほかの地区からの移住者も多いですし、ムラから越してきた人も多いです。
羽曳が丘の浅田御殿にはいかれましたか?万代の向かい側にあります。
老人憩いの家の近くのあばら家においてある牛の置物もインパクトがあるので紹介してほしかった。
赤い川は河川改修する前の東除川ですね。
お墓の近くとかは今でも旧河川の名残が残ってます。
同じ食肉系でも皿池に比べるとにおいは全然ないですね。
向こうは膠を扱う工場があるんでかなりくさいです。
昔よりましになったみたいですけど、未だに改善はされてないですね。
松原市があまり動いてくれないみたいです。
また中・南河内のほうに来られることがあればかすうどん食べて帰ってください。
羽曳が丘の浅田御殿の方には行きませんでした。牛の置物は見落としていました。見たかったです。
できましたら、探訪にあたってこれが見どころというスポットをご存知であれば、情報提供して頂けると次回探訪時に目標に加えます。
かすうどんは食べませんでしたが、向野についてはもう1つの名物についての特集を近々やる予定です。
何が羽曳が丘やねん。アホか!!
羽曳が丘はその豪邸からもっと南じゃ!!あそこは羽曳野市はびきの。
もっと情報は正確にな!!
解放同盟向野支部副支部長も務めた、鯨御殿の海原壱一は存命でしょうか。
とりあえず住所でポンには出てきません。
また和歌山を探訪する機会があれば、鯨御殿に行ってみます。
祖母が記事にご紹介ありました水利をされた庄屋さんと同じ名字のうまれで、その実家は1丁目と2丁目の境目あたりの古い大きな家でした。
祖母の親戚縁者とも仲が良いのでいろいろ話すこともあるのですが、古くからの土地柄の割には、祖母の一統だけでなくこの地域での有名なご一族やそのほか代々の住民というのが、お互いに疎遠というか大阪の普通の住宅地程度の希薄な関係になっている印象を持っております。そのあたりは都市近郊ということなのでしょうか。
ちなみに、掲載されている東除川の写真2枚目真ん中左側に写ってる放水口、例の赤い色が流れ出してたところだと思います。
地元をよくご存知の方、コメントありがとうございます。まさか、あの排水の放出源が写っているとは思いもしませんでした。
…ただ、あの放水口は地区外にありますし、放水口の上の建物はプラスチック製品の工場のようです。
あらためて1975年の写真を見ると、わじま文化会館前の橋の近くの、向野側の放出口から出ているように見えます。
鯨御殿の主を検索中たどり着き、コメントさせていただきます。
長きに渡り鯨御殿の主の私服を肥やす為に迷惑を被り、辛い日々を過ごしておりましたが、どうもこの世から居なくなっているようです。身内の口から聞きました。
ただネットでは全く出てこないので、残された遺族が未だ鯨御殿の主の名前で得られる利益があるため公にしていないのかも知れません。
鯨御殿は憶測ですが、ドルフィンリゾートと言うものに変わったのでは?
さらに経営も別のところに変わってるようです。
ドルフィンリゾートって太地町森浦703−15のことですか?
そうです。
間違ってるかもしれませんが…。
会社登記書類で確認したところ、今年の8月12日に海原壱一氏は死去してました。
ありがとうございます。ぜひWikipediaを更新して頂ければ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%8E%9F%E5%A3%B1%E4%B8%80
いつも興味深く拝見させて頂いてます。
鳥取ループさんは只のネコ好きですよね?別の意味は無い…
と言うのも「西成とかには野良ネコが居らん、食べられるから」みたいな噂が昔から良く聞くので(笑)
やっぱり猫がいると撮ってしまいます。
あと、言われてみれば確かに西成では野良猫を見なかったですね。
猫なんて食べても美味くないと思うのですが。
ほれ、答えんか。同和地区名のネット公開について、向野の住民が納得しておると判断した根拠、理由、を述べよ。
↓のように取り上げられて、ホンマ、男冥利に尽きるなあ。
同和地区所在地の暴露マニア
鳥取ループとはインターネットのブログのネームで、05年からこの名前を使っている。運営しているのは、鳥取県出身の宮部龍彦(37才)だ。彼は、ITのソフトの開発などを生業にしている、いわばパソコンのプロだ。もう一人は三品純(43才)で、岐阜県出身でフリーライターとして「正論」等に記事を出している。宮部と三品は、共同で示現社なる出版社を設立して「同和と在日」などの本を出版しているが、出版社とは名ばかりで実質二人だけの個人商店だ。
鳥取ループが何を目的にしているのはよく分からないが、少なくともこれまでの行動を見れば、同和地区の所在地を暴露することを自己目的にしている暴露マニア、裁判マニアと呼ぶことが出来るだろう。実際、鳥取ループはこれまでに5回にわたって行政を相手にした裁判を起こしている。大阪市内の同和地区の位置の開示を請求しているがいずれも鳥取ループ側が敗訴している。この間、09年には 大津地方法務局から「部落地名総鑑」圧縮ファイルの削除要請が出され、10年には大阪法務局から「大阪市内の同和地区一覧」の削除要請が出されている。これらの訴訟の内容は割愛するが、ひつだけ滋賀県裁判における最高裁判決(15年)を紹介する。最高裁は、滋賀県内の同和地区の所在地一覧に直結する隣保館や教育集会所の開示を求めた鳥取ループに対して、「地区の居住者や出身者等に対する差別意識を増幅して種々の社会的な場面や事柄における差別行為を助長する恐れがある」とはっきり判決を言い渡している。当然の判決だ。それにもかかわらず鳥取ループ・宮部は執拗に同和地区の暴露にこだわり、ついに今年「復刻版」の出版を計画するに及んだ。彼自身の語るところによれば、昨年東京の社会事業大学の図書館にあった「全国部落調査」を発見したというのだが、昭和11年に作成されたこのマル秘の報告書を手に入れた彼は、欣喜雀躍して「復刻版」の出版を企んだのである
近隣住民です。
近くに住みながら足を踏みいれたことがなかった土地、車で迷い込んだらパニックになってしまっていた土地を、今回初めて拝見しました。
意外に普通で拍子抜け。
このように事実を知ることでタブーのベールがはがされ、差別感情が薄まる一助になるのではと思いました。
タケダハムの竹田家は向野の中では旧家の家柄で、浅田家はくず肉の行商から成り上って成功したと聞きます。
昔の話ですがちょっとした仕事で向野の墓地に某氏が立塔された時にお会いしました。
丁度ハンナンの工場が出来た日でもあり「ちょっと寄ってお昼食べていき」と案内頂きました。
非常に大きなテントにこれでもかと言わんばかりの肉料理、そして某北海道の歌手がゲスト出演されてました。
某氏も非常に上機嫌で「北海道から兄弟が来てくれた!」とステージに上がってました。
規模も凄かったですがお別れの時挨拶させて頂いたら「この一帯で何かトラブルがあったらこれを見せなさい」と頂いた名刺が今も名刺帳の中にあるかと思います。
もう25年位前の話ですが大きな家があると思えば鶏を飼っている掘っ立て小屋のような家もあり、その中を牛骨剥き出しのまま積んだ大型ダンプが走り抜ける。
部落と言うより一つの世界が成り立っているのだなと思いました。
たまたまこの記事見て思い出したまでです(汗)
京都・養正部落では、人権連 田中支部 が大阪羽曳野特産「さいぼし」の注文販売をしていました。交流がうかがわれます。双方とも人権連や日本共産党の縄張りなのでしょうか。京都・養正部落は朝田善之助の出身地なので部落解放同盟の縄張りかと思っていました。田中馬場町の一画にある地蔵堂には「朝田幾之助」と石に刻んでありました。善之助の父の名前のようです。
鳥取ループさんは日本共産党についてはどうお考えなのですか。
アンチ同和については熱烈支持です。人権連の方々を自由にさせてあげて欲しいです。
向野と、松原は、
今でも食肉の町なんですね。
向野に行くと、
良質の あぶらかす、さいぼし
が 入手出来そうです。
寺門ジモンも、向野の肉屋、焼肉店に
よく行くそうですよ。
かすうどん 食べてみたい。
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かすうどんはメジャーになったので、大阪ならわりとどこでもあります。