部落探訪(45)
大阪市北区中津3丁目“さんば”

By 鳥取ループ

大阪のスラムと言えば、西成のあいりん地区が有名だが、それに次ぐ規模のスラム―正確にはスラム跡とでも言えるものが、ひっそりと残っている。それが中津である。

ただし、結論から言ってしまえば、「部落」としての中津は名実共にほぼ消滅してしまっている。中津は、「解放」された部落である。

全国部落調査によれば、1935年の中津の世帯数は105、人口は495である。しかし、この数字が部落の規模を表したものかどうかは疑いがある。

なぜなら、大阪市同和事業促進協議会『10年の歩み』によれば、舟場地区について実際の部落民の戸数は全国部落調査に記録がある世帯数の半分にも満たない旨の記述があるからだ。後述するが、実は中津と舟場の起源は、現在は淀川の底にある村であり、2つの部落は兄弟のようなものである。

阪急中津駅のすぐ近くにある中津中央公園。『10年の歩み』によると、ここが中津部落の中心地だった。ここは戦時中に空襲で焼け、さらに戦後大阪市や阪急によって土地が買い上げられ、住民は立ち退いていった。

『10年の歩み』の「立退き後の中津」とキャプションのある写真と同じアングルで、現在の場所で写真を撮ると、上の通りとなる。もはや跡形もない。

中津というと、この中津商店街が知られている。

うなぎの寝床のような細い商店街。こんなにも細長い商店街は大阪では他にないだろう。ここが中津の部落だと地元住民さえ誤解していることがある。かくいう筆者も最初はそうだった。しかし、ここはスラムであって、もともと部落民の家は数軒しかなかったという。

商店街の周辺には細い路地がある。道路と民家の境目がいびつで、民家の土地が無秩序に道路にせり出して来たことが分かる。これはスラムだった地域によく見られる特徴だ。

空き家、空き地も多い。自動車が入ってこれない場所が多く、土地の広さも中途半端などで、マンション等を建てるのが難しいためだろう。本気で開発しようと思ったら、一帯を買い上げないといけない。

現在、ホテルやオフィス街になっている大阪駅の北側は、戦後間もないころまではこのような路地が入り組んだスラムだった。しかし、大規模に開発されて現在のような状態になっている。開発の波は徐々に北上していったが、ここまでは到達しなかったということだろう。

もとは「中津浜通2,3丁目」という名前だった。現在も町内会名にその名残がある。

現在の中津小学校は、もとは中津中央公園隣の大阪市立北スポーツセンターの場所にあったのが移転したものだ。

この豊島神社から、中津の歴史を垣間見ることができる。神社の敷地内には多数の鳥居、祠がある。これは、今は淀川の底にある多数の村の神社がここに合祀されたからだ。

明治18年(1885年)の淀川の大洪水を記念した石碑。これを期に、淀川の大規模な河川改修が行われた。

河川改修に伴って移転した村に光立寺村があり、その中に「皮多村」があった。「皮多村」の住民の一部は後の中津部落の近くにあった「下三番村(通称「さんば」)」に移転し、一部は後の舟場部落に移転した。これが、中津・舟場両部落のルーツである。

なお、中津と言えばイトマン事件で有名な許永中の出身地としても知られているが、許永中自身は単にスラムの住民であり「部落民」というわけではないと考えられる。

※『10年の歩み』に出てくる中津会館の建物は現存するのではという指摘がありました。こちらの建物です。確かに、『10年の歩み』に出てくる建物と外観が一致する部分が多いです。

部落探訪(45)
大阪市北区中津3丁目“さんば”
」への13件のフィードバック

  1. でんでん

    消滅したとはいえ地区のお寺が今も残っているから昔からの門徒さんが支えているのでは?

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      永照寺のことでしょうか? ここが穢寺かどうかは、残念ながら分かりません。

      返信
      1. でんでん

        舟場にも称名寺というお寺がありましたが今は残ってないみたいです。
        因みに中津の光徳寺は洋画家の佐伯祐三の実家で祐三の兄が戦前の融和事業に携わったとか。

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        1. 鳥取ループ 投稿作成者

          有難うございます。光徳寺をグーグルマップで見ると、善隣館とありますね。
          古くから福祉事業を行っていたことを伺わせる名前です。

          返信
          1. でんでん

            ここに書いてありました。
            http://oswhs.web.fc2.com/newsletter/vol4.pdf

            淀川改良工事で移転しなかった下三番部落については1918年に編綴された『部落台帳』(大阪府救済課、1915~1917年悉皆調査)に記載されている。
            1912年4月には財団法人下三番青年会、1922年12月10日には下三番水平社という主体的組織が誕生している。
            また、下三番部落内には光徳寺第15代住職である佐伯祐正が光徳寺善隣館を1921年5月に設立している。

            それと真偽の程は不明ですが、永井隆雄なる人物のウィキペディア(削除済み)に寺のことが書いてありました。
            http://archive.fo/ddQOs

            浄土真宗西本願寺、光徳寺には、寺の墓地で最大の永井家の墓がある。光徳寺は、佐伯祐三の生家である。
            中津には、非同和地区の住民は光徳寺に墓を持ち、同和地区は永照寺の門徒である。

  2. 金 正恩

    『10年の歩み』の「立退き後の中津」はこのアングルだったのですね。
    中津会館は立派な歯科医院の北側角の現コインパークの所にあったようなのですが、何回か通り過ぎているのに、存在を十分に確認する前に取り壊されてしまいました。
    平成元年の住宅地図では「共励会中津会館」との表示があります。共励会は大阪市の母子福祉の外郭団体のことで、大淀警察の側にある愛光会館の運営事業者に今はなっているようなのですが、中津会館が当初建築された目的では不要な存在になったことで、福祉の用途で施設が転用されたのかなとの推測の域を出ないのですが、事実関係をご存知でしょうか?
    昭和50年代に、阪急電車から見えるやや異質な景色に吸い込まれるように、地域を歩いて回ったのですが、中津商店街に至るまで小規模な住宅ばかりで何とも不思議な印象だったのを覚えています。
    この地区の経緯は後になってから知りました。(笑)

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    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      非常に詳しいお話ありがとうございます。
      中津会館の場所は知りませんでした。
      平成の頃まであったのですね。
      残念ながら、事実関係については私よりも金正恩さんの方が詳しいと思います。

      返信
      1. でんでん

        中津の大阪食肉会館(大阪府食肉事業協同組合会館ビル)という施設は同和関連の施設ですか?

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        1. 鳥取ループ 投稿作成者

          http://www.jcp-osakahugikai.com/katudou/2004/20040621.htm
          大阪府同和食肉事業協同組合連合会と大阪府食肉事業協同組合連合会は別団体ですが、どちらも浅田満がからんでいたようですね。
          同和と冠する団体がわざわざ別にあるということは、たぶん同和関連の施設というわけではないだろうと思います。

          返信
  3. 現在進行形で細い路地が形成されている現場ですね。
    息をするように他人の土地を掠め取って行く、スラムがスラムと言われる所以ですね。

    現在の中津小学校の新築工事は、当時、許永中が社長を務めた同和企業の大淀建設が、
    受注したらしいですね(丸投げでしょうが)。

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