IMADRに「被差別集団」が結束
1997年に人権フォーラム21が設立され、当時の笹村二朗ウタリ協会理事長が副代表となった。人権フォーラム21とは、反差別国際運動(IMADR)日本委員会委員長である武者小路公秀氏が設立した団体である。IMADRとは、解放同盟が1988年に設立した国際NGOである。
なぜ、アイヌ協会が解放同盟との関係を深めたのか? これは、1969年の秋田議員の話からもうかがえるように、アイヌの側から同和に寄ってきたのではなく、同和の側がアイヌに寄ってきたと見るべきだ。
特に顕著になったのは、1974年で、この年、部落解放同盟大阪府連合会に「政治共闘局」が作られ、様々な団体との共闘が試みられた。その課程で「被差別統一戦線」なるものが提唱された。これは、解放同盟が彼らの基準で「被差別者」とされる集団が結集し、「被差別共闘」を行おうというものである。
そのターゲットとなったのは、在日朝鮮人、障害者、沖縄県民、アイヌ、女性、原爆被爆者である。
月刊部落解放(1974年12月)で、後に部落解放同盟中央本部書記長となる小森龍邦氏が、アイヌとの共闘について報告している。小森氏が訪問したのは平取町で、そこで当時ウタリ協会副理事長だった貝澤正氏と面談した。報告にはこうある。
「ウタリ協会の「ウタリ」という言葉は、どんな意味かと私が尋ねた。アイヌ語で、仲間、同志、親戚という意味をもっていると説明を加えながら、アイヌ協会といってもよいのだが、刺激が強いというので、少し柔く表現しているのだと答えた。そこには、アイヌ出身をかくして一日もはやく、大和民族に和合し、倭人化しようとするアイヌ人の今日の姿がある。大部分のアイヌ人が「寝た子を起こすな」意識に侵されている」
「寝た子を起こすな」という言葉は、同和問題に関わるキーワードの1つだ。解放同盟は「そっとしておけば差別はなくなる」という態度をこの言葉を用いて徹底的に批判し、自ら被差別部落であることを明らかにすることを要求した。これが「寝た子を起こせ」ということである。同和対策の優遇措置を受けるためには、当然、どこが被差別部落であるかを特定しなければいけないのだから、重要なことだった。
さらに、小森氏はアイヌ子弟への奨学金のあり方にも疑問を呈している。当時、アイヌの高校生に進学奨励金が支給されていたが、これは親と行政のみが知っており、本人と学校には秘密にするという方法を取っていた。一方、同和対策の奨学金は大っぴらに行われており、「解放奨学金」と呼ばれ受給者による大会まで行われていた。
そんな小森氏が1つだけウタリ協会を評価していたのは、誰がアイヌかという認定をウタリ協会が行っていたことである。これは解放同盟が言うところの「窓口一本化」の実現であり、「部落民」の認定を解放同盟だけが行う体制を目指していた解放同盟にとっては理想的な状態であった。
さて、その後、解放同盟広島県連がアイヌ青年を研究集会に招待するという形で、解放同盟とウタリ協会の交流が続けられた。
そうして広島に招待されたアイヌの中でも、最も強く感化されたと思われるのが、後にウタリ協会理事となる成田得平(1990年に秋辺に改姓)氏である。成田氏は1974年7月27日に解放同盟に招かれて「アイヌ解放と被差別人民との連帯」と題して、広島県立体育館で講演を行った。そこで、「今後、部落解放運動がほんとうに人間解放に向っていく時、我々は大いに道庁することにやぶさかではございません。いつでも手を取り合って連帯していくことを大いに希望いたします」と語っている。
それから10年以上後のことであるが、ウタリ協会は「寝た子を起こす」試みを実践し始める。1988年の定期総会で、「北海道アイヌ協会」と名称を変更することが提案されたのである。そこで、会員へのアンケートが実施されたのだが、これが惨憺たる結果であった。
500世帯にアンケート葉書を送付したところ、回答率がわずか18%であり、しかもアイヌ協会と名称変更すべきと答えたのは9世帯だけであった。結局、この問題についてほとんどの会員は無関心、関心があったとしても現状維持が圧倒的多数だったのである。当然、名称変更は断念された。
その後、何度が名称変更が提案されたのだが、その度に否決されるという有様だった。
この名称変更は非常に根の深い問題だった。戦後まもない1946年に「アイヌ協会」という名前でアイヌの団体が結成されているのだが、最初のアイヌ協会はやがて立ち消えになっていまった。そして、1960年に再建されたが、その時に名称を「ウタリ協会」とした。
これは貝澤正氏の話にもあった通り、多くのアイヌが、アイヌ語で人(特に男)を意味する「アイヌ」という言葉に強い抵抗を持っていたためである。それは最も直接的にアイヌを指す言葉であり、それゆえに侮蔑的な意味で使われることもあったし、何よりもアイヌがアイヌであるということに誇りを持っていなかった。
そこで、同胞を意味する「ウタリ」という言葉を使うことになった。これは当時徹底されていたようで、1965年には学校においてもアイヌという言葉を避けてウタリを使うように、協会が要請していたという。
結局名称変更が実現したのは、2008年6月6日に国会で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択された翌年の2009年4月1日のことである。
さて、話が前後してしまうが、ご承知のとおり1997年5月14日にアイヌ文化振興法が制定され、旧土人保護法は廃止された。しかし、実際に制定されたアイヌ文化振興法には、ウタリ協会が求めたものとは大きな差があった。
1984年にウタリ協会がアイヌ新法案を決議したのだが、それが大きく分けて6つのことを要求していた。1に差別の撤廃、2にアイヌ民族議席の確保、3にアイヌの教育・文化の振興、4に農地の確保・漁業権の付与など産業振興と労働対策、5に民族自立化基金の創設、6に審議機関の設立である。このうち、アイヌ文化振興法に明示的に盛り込まれたのは3,6の要求である。
1は自明のことであり、なおかつ旧土人保護法の廃止により名実ともに行政上の施策からは差別は撤廃された。しかし、2は後述する憲法上の問題があり、4,6も現実的ではなかった。
結局、同和対策のように、法律上の根拠を作って産業振興のために国から莫大な予算を得る試みは実現できなかったと言える。
はっきり言ってしまえば、大多数のアイヌは現在のアイヌ文化振興法に書かれていることに関心はないだろう。そういった意味では、1974年にウタリ福祉対策が始まって以降、多くのアイヌが新たに得た「利権」はなく、利権は年々縮小するのみである。一方、ウタリ協会からアイヌ協会への名称変更などアイヌ文化振興法制定後の動きは、多くのアイヌがほとんど関心を持たない中で、トップダウンで行われたもので、関心のある一部のアイヌだけが利権を得たと言える。
アイヌ利権は全国に広がるか?
2008年のアイヌ先住民族決議以降、国では「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が開かれ、2009年7月29日に同懇談会から報告書が発表された。しかし、個人給付的な事業について、新たな事業が具体的に提案されることはなかった。
その後、「アイヌ政策推進会議」が開かれ、2012年6月1日に「「北海道外アイヌの生活実態調査」を踏まえた全国的見地からの施策の展開について」と題する報告書が発表されている。そこで提言されているのは、前出のアイヌ子弟大学等修学資金等貸付制度を北海道外のアイヌにも適用することを検討するというものだ。
その結果、2014年から日本学生支援機構(JASSO)の無利子奨学金(第一種奨学金)の支給要件は、大学生の場合高校での成績が3.5以上必要なところ、アイヌの場合は3.0に緩和された。
JASSOによれば、制度開始後、アイヌ協会の推薦を受けて申請した学生はいたが、そのケースでは学力が一般の受給要件を超えていたため、制度の対象とする必要がなかった。そのため、2015年11月6日現在、アイヌ向けの支給条件緩和制度を適用した事例は1件もないという。
アイヌに対する個人給付的な優遇策に共通する一番の問題は、誰がアイヌかということを、どのような基準で誰が認定するのかということだ。
結論を言ってしまえば、「アイヌの血族(養子は一代限りとする)又は当該者(養子を除く)と婚姻により同一の生計を営んでいる者」という基準で、事実上「公益社団法人北海道アイヌ協会」が認定するのである。
このことは、2014年2月26日に「アイヌ政策関係省庁連絡会議申合せ」として公開された「北海道の区域外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の対象となる者を認定する業務についての実施方針」に書かれている。
なぜこのような基準になったかというと、例えば前出の運転免許取得費用の補助や進学奨励金のように、従来から北海道で行われている施策では、アイヌ協会がアイヌの認定を行っており、そのアイヌ協会による基準を追認したからであろう(ただし、北海道の施策では市町村長にもアイヌの認定を行う権限がある)。
それにしても、「血族」「養子を除く」といった言葉が入る認定基準には危険な響きがある。憲法14条1項には「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあり、アイヌであるかどうかという基準を「血」に求めるのであれば、人種による差別とされるおそれがあるだろう。
この憲法問題についてアイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会の報告書は「事柄の性質に即応した合理的な理由に基づくものであれば、国民の一部について、異なる取扱いをすることも、憲法上許されると一般に解されており、既述のようにアイヌの人々が先住民族であることから特別の政策を導き出すことが「事柄の性質に即応した合理的な理由」に当たることは多言を要しない」としている。
しかし、アイヌ優遇制度がなかなか拡大しない背景には、前述の憲法問題によるリスクを嫌って官僚が二の足を踏んでいることがあるのではないだろうか。いくら「多言を要しない」と言ってみたところで、アイヌかどうか非常に微妙な判断を迫られるケースが生じた場合や、憲法14条1項の問題が争点となれば、多くの言葉で説明することを試みざるを得ないだろう。
実際、同報告書は「国会等におけるアイヌ民族のための特別議席の付与については、国会議員を全国民の代表とする憲法の規定等に抵触すると考えられる」と、アイヌ議席については違憲であることを認めている。そうであれば、福祉政策についても憲法問題が生じる可能性があると考えるのが自然だ。
例えば、自動車の運転免許の取得は、どう考えてもアイヌの文化や先住民族とは全く関係がない。まさか自動車の運転がアイヌの文化ではないだろう。
高校・大学の進学についてはどうか。そもそも、同報告書は明治以降に行われた日本語を中心とした教育について「同化政策」と批判している。
仮に「「倭人」がアイヌの文化を奪ってきた、その理不尽な扱いに対する贖罪なんだ」としても、未来永劫子々孫々に至るまで続けることには合理性がないように思う。同和対策でさえ、少なくとも政府としては「過去の差別の贖罪」として事業を行ったわけではなく、「現存する低位な状態を解消する」という名目だった。だからこそ、同和対策は時限立法だったのである。
前出のように、過去には「民族存続の問題なので、同和対策のように時限立法にすることは間違いだ」という議論もあったが、末代まで「倭人」の援助で自動車の運転免許を取ったり、「倭人」の学校に通ったりすることがなぜ「民族存続」と関係があるのか、理解することは困難だ。
JASSOの第一種奨学金支給要件には「被爆者の子女」「中国帰国孤児の子女」に対する優遇策もあるが、これらでさえ2代限りであり、いずれ死文化することは確実だ。そういった意味でも、代々継承されるアイヌに対する優遇の特殊性は際立っている。
現状ではほとんどの優遇策は北海道内にとどまっており、ようやく北海道外に広げられた奨学金の優遇も、大した優遇ではない。しかし、優遇策がさらに拡大され、利用者が増えれば、問題が表面化する可能性もそれだけ高くなる。
今年から、北海道外のアイヌに対する就職支援事業が始まっているが、これが何ともお粗末なものである。
2015年3月6日に東京都中央区八重洲にあるアイヌ文化交流センターで、「道外にお住まいのアイヌの方々のための職業訓練相談会」が行われた。対象は「道外にお住まいのアイヌの方で、就職のために職業訓練の受講を検討されている又は関心をお持ちの方」とされる。しかし、それは全く名目だけのことである。
実際に会場に行くと、ぽつぽつと相談に訪れる人がいる状態であるが、実際のところ相談対象はアイヌに限定されていない。もちろん、相談者がアイヌかどうか確認されるわけでもない。その場で渡されるのは、アイヌとは全く関係ない、一般向けの職業訓練施設(ポリテクセンター)のパンフレットである。相談できる内容もアイヌとは全く関係ない、それこそ最寄りのハローワークでもできそうなものだ。
何かしら、アイヌに対する特別の「何か」がないのか? その場にいた相談員に聞いたところ、はっきり言ってそれはないと、きっぱりと言われてしまった。
「北海道で、アイヌの方が住んでいる「アイヌ地区」の住民を対象とした施策はありますが、今のところ北海道以外で特別な施策はありません」
ということなのである。
それでは、ハローワークでも出来るような相談会を、わざわざアイヌ文化交流センターで行うことに何の意味があるのか。その点を相談員に問うと、
「こういった場所でないと相談する機会がないアイヌの方もいらっしゃるので…」
といった具合である。しかし、もちろんアイヌだからハローワークに行けないということもないし、多くの人にとってはアイヌ文化交流センターに出向くことの方が敷居が高いように思える。
思うに、「アイヌ政策」を具現化することが非常に難しいので、とりあえずアイヌ文化交流センターという、アイヌに関わりのある施設で「何か」を行うことで実績を作りお茶を濁した、ということではないだろうか。
しかし、それでも「アイヌ利権」拡大の動きはしばらくは止まらないだろう。
「アイヌ利権」が何が問題なのかというと、たとえ些細な事であっても「アイヌと和人は平等だ」とは言えなくなってしまうことだ。同和行政においては、一応は「平等」という建前があったが、アイヌ施策においては、もはや平等ということは考慮されていないように思う。「アイヌは特別だ」「アイヌは違うんだ」そのような主張が前提となっているように思える。