野党、マスコミ、大学教員、社会活動家…左派知識人、知的階層と思しき人々に共通するTwitter依存。本シリーズではその現象を「Twitter真理教」と命名した。2020年1月に死去した三宅雪子元衆議院議員もTwitterに執着し、そのフォロワー(後の雪組)たちと死の直前まで行動を共にする。Twitterを発端にした三宅のトラブルは前、中編でレポートしたが、果たして彼女だけの問題、特有の現象といえるのだろうか。 Twitter真理教徒たちはまだ潜んでいる。
「政治家」というよりも「お人形さん」
政治家・三宅雪子の存在価値を測る上で肯定的な材料が見つからない。「福祉」といってもその本気度は疑わしい。“運動家肌 ”議員の如く「人権・反戦・環境」こういった分野で存在感を放ったわけではない。
「電気料金値下げ副隊長」というポジション。旧民主党政権以前のガソリン値下げ隊(2008年)に通じるネーミングセンスと軽佻浮薄さ。
三宅の存在価値を最も端的に表す肩書きだと思った。落選した後もデモ、集会などで彼女の姿はよく見かけたもので、一定量の支持者が存在したことに驚いたものだ。彼女の素養の何に期待しているのかよく分からない。
YOUTUBE上では彼女が23歳の頃、フジテレビ社員として同局番組に出演していた映像が残っている。バブル期の雰囲気があって華やかだ。三宅はタモリ氏と絡んでいた。所属をみると「営業局」とある。後に「ルポライター」を名乗る三宅だが、報道出身ではない。最後まで“お嬢 ”や“お人形 ”扱いされたのも彼女が持つ享楽的な雰囲気を嗅ぎ取ってのことか。
落選したらただの人。それでも三宅には並の議員より集客能力があった。離党したとはいえ小沢一郎とも面談できる関係でなおかつ著名人、メディア関係者らとの交流もある。
それを目当てに人が集まる→発信力が高まる→虚勢を張る。こうした負の連鎖が確認できた。
ストーカー犯と告発したのはかつての仲間の親族
前編でも紹介した「ダイブ三宅」の一件。2010年5月、衆議院内閣委員の採決の時だ。甘利明氏に押されケガをしたという三宅は同じく群馬県選出の柿沼正明元衆議院議員(群馬3区)に支えられ採決に登壇した。本当にケガをしていたのか。「自殺のフリをする」といった証言を聞くと、あのケガも疑わしい。
2019年6月5日、三宅を脅迫した疑いで予備自衛官の男性Kが逮捕された。「予備自衛官が逮捕」というニュースは特に赤旗、週刊金曜日が大々的に報じる。もちろん「自衛隊批判」という意図があるのはいうまでもない。しかし元支援者A氏はこの事件も「作為的」と断言した。
「逮捕されたのは柿沼元衆議院議員の甥なんです。かつての仲間、それも自分がケガをした時に守ってくれた同僚議員の親族ですよ。しかもこの逮捕自体、彼女の“ ワナ”でした」(A氏)
そのやり口は巧妙だ。
「Twitter上などで相手を煽り挑発して自分に電話をするように“ 仕向けた”のです。そしてその会話を録音して警察に持ち込みます。もちろんK君も迂闊だったかもしれませんが、それだけ煽りが上手いんですよ。私が知る限り同様の行為をされたのは3人いますね。ツイキャス中に電話の会話を公開して自分が攻撃されているとフォロワーたちの同情を買います。そしてフォロワーたちも同調して攻撃を仕掛けるのです」(前同)
こうした扇動の裏には来夢の存在があったという。実際に身をもって経験してみたが、来夢を中心とした雪組のメンバーはとにかく集団的で煽りが上手い。一般ユーザーが受けた場合は恐怖であり感情的になるのも無理からぬことだ。なにしろ三宅と係争した元後援会関係者は勤務先までフォロワーから攻撃を受けた。
これまで指摘したがこうした攻撃の対象になるのはいわゆるネトウヨではなく、むしろ元支持者らであった。もはや左右イデオロギー対立ではなくネット上の“ マウント(優位性をアピールすること)の取り合い”に堕していた。攻撃しやすい者、揚げ足をとりやすい者、あるいは煽り耐性がない者、こうしたタイプへ一斉攻撃する…学校のいじめにも似た状況だった。
しかも次は誰がターゲットになるのか全く予期できない状況――。
三宅の裁判の弁護人を務めた落合洋司弁護士もその一人。落合弁護士はネットのトラブルに精通し、「PC遠隔操作事件」で犯行予告を受け取ったことでも有名だ。
ところが三宅は落合弁護士とも袂を分かち弁護人から外れた。
落合弁護士は2019年に立憲民主党公認で参院比例区へ出馬予定だったが、韓国に対するTwitterの投稿が「差別的」だとして公認取り消しとなった。
いうまでもなくTwitterユーザーたちの一斉攻撃が始まったが無論、来夢の存在もあった。
「もともと来夢は落合弁護士を逆恨みしており、問題投稿の時は通報を繰り返していました。そういえば三宅の死後、来夢が落合弁護士の落選運動を呼びかけたDM(ダイレクトメール)が出回りました」(ウォッチャー)
「三宅が刑事告訴され二度も起訴猶予で済んだのは落合弁護士のおかげ、裁判を繰り返したのは落合弁護士の責任だ、という2つの見方があります。来夢といっても三宅の裁判で傍聴席からヤジを飛ばしては裁判官に注意されていました。それでも三宅は落合弁護士よりも来夢を頼りにしたのは不思議でしたね」(前同)
三宅が5人の元支援者に刑事告訴をチラつかせ恫喝する、後援会元会長に訴訟を仕掛ける、挙句に担当弁護士を切りTwitterで攻撃を始めるのは一体…。不条理な世界であり、サイコホラーの趣きすら漂う。
三宅を煽った東京新聞・佐藤圭記者
来夢にとって三宅は重要な存在だ。なぜなら三宅と同行すれば政界関係者と接触できる。彼は決して学歴エリート、職業エリートでもない。そんな来夢にとって「政治」「永田町」といった存在は承認欲求を満たせたことだろう。三宅を取り巻くTwitter上のマウント合戦に執着していた。
それにマスコミ関係者も加担していたとすればさらに闇は深い。
三宅と元支援者との民事訴訟で提出された書面の中に東京新聞・佐藤圭記者の名があった。同記者はTwitterでも曰くつきの人物。元支援者に対してネット攻撃を繰り返す三宅に呼応した佐藤記者が2015年8月22日、こんな投稿をしていた。
ブログを読ませていただきました。お察しします。匿名の影に隠れた卑怯者には、断固たる処置も必要かと思います
佐藤記者の記事が証拠資料として引用されたならば、むしろ記者冥利に尽きるというものだろう。ところが彼の投稿は三宅に追随したTwitterユーザーの一人として元支援者側から提出されていた。新聞記者として実に恥ずかしい話だ。なぜなら東京新聞に限らず左派の新聞は匿名、中傷、デマといった「ネットの弊害」を報じてきた。それはキャンペーンといってもいい。ところがそんな新聞記者が三宅のTwitter暴走に便乗したのはどうしたことか。
あるいはもし佐藤記者が問題意識を感じたならば、紙面で表現すべきである。この当時の三宅は手当たり次第にTwitterで元支援者らを攻撃した時期。そうした実情を調べもせず三宅の主張だけを鵜呑みにした佐藤記者の投稿はジャーナリズムでも報道でもない。
こと左派メディア関係者、野党、活動家、こういった人々のTwitter依存は異常だ。「アベ政権(または自民党)はネトウヨ内閣」といった批判はよく聞かれた。確かに保守派政治家のネット依存は顕著であるが、ならば野党やマスコミのTwitter依存はどう説明する気か?
Twitter上で野党に対して批判的な言説を投稿してきた「Dappi」に対して立憲民主党・小西洋之参議院議員が提訴し、各メディアも Dappi報道にご執心だ。やはりTwitter上で保守派に人気があった「黒瀬深」に対し立憲民主党・米山隆一衆議院議員が提訴した。
左派は「匿名による批判」を問題視している。実名ならば容認するというのか。それ以前に、政府・自民批判をする匿名の左派ユーザーも存在する。「Dr.ナイフ」は最たるものだ。この一件、野党、マスコミ関係者が抱くTwitter執着の裏返しではないか? つまり
Twitter真理教の花園を荒らすのは許さない
こういう意識ではないか。そして 左派メディア関係者、野党、活動家がなぜTwitterに執着する理由。これも簡単に説明ができる。
疑似集会、疑似デモ、コミュニティ化するTwitter
11月19日、ABEMA Primeに出演した社民党・福島瑞穂党首に対してノンフィクション作家・石戸諭氏が
立憲民主党も含め、最近の日本のリベラル政党はTwitterの見過ぎだ。
と苦言した。石戸氏に限らず野党のTwitter依存を指摘する論評は少なくない。同様の批評を紹介しておく。
「ツイッターをやめる」それが立憲・共産が自民党に勝てる唯一の道だ(現代ビジネス)
なぜ若者は自民党に投票するのか?(NHK政治マガジン)
かくいうマスコミもまたTwitter真理教の熱心な信者。左派がTwitter真理教に入信した理由はその活動様式と関係する。野党系の各種市民団体、左派団体、セクトらにとって「集会」「デモ」「機関誌」は三大活動といってもいい。そして野党議員にとっても「集会」は重要な活動場所、アピールの舞台だ。
2017年4月12日、国立市で弊社に対する抗議集会が開催された。実際に現地で聞いてみようと会場に向かったところ約20人ほどの活動家に包囲され進入を阻まれた。
罵声を浴びせ、実力行使で道を阻む、なぜ活動家は「集会」に対して異物混入を強烈に拒むのだろうか。こと「人権・反戦・環境」といった活動は批判や論評を受けにくく、長らく無批判の状態であったから外部の目にアレルギーがある。またそれに耐えうる説明能力や対話能力は皆無に等しい。
しかしそれ以上に重要なのは集会自体が彼らの「コミュニティ」になっていることだ。つまり単に「運動」の場ではなく「人間関係」「交遊関係」といったふれあいの場でもある。活動家諸氏に聞きたい。仲間に囲まれている間は強い安心感が得られる一方で、いざ全く異なる価値観に遭遇した際、強い不安感に襲われないか?
一つこんな例を挙げよう。
2008年の洞爺湖サミット。当時、各地から活動家が集まりキャンプ村を作った。会期中は集会、デモ、集団生活、活動家が望む非日常の世界が広がる。共通の敵を前に価値観を共有できる快適空間だ。
ある妙齢の夫婦風の男女が参加しており、交流を持った。聞けばお互い配偶者がいるが公認の上で行動を共にしているという。女性はいった。
「運動は全国の仲間をつなげてくれんねん」
主義主張やイデオロギーは時に地縁、血縁より強固な結びつき、絆を生む。単に自身が信奉するイデオロギーを超えて人間関係、コミュニティに発展するものだ。集会やデモの役割とは単なる政治意志の表明だけではない。生活空間であり、人的交流の場。その究極形態が生活を共にする過激派のアジトだ。
集会で得られる安心感と交流を乱す者は許さない。だから集会やデモへの異物と異論は排除しなければならない。
対してTwitterでは「ブロック機能」「ミュート機能」がその役割を果たす。Twitterは自分にとって都合が良く快適なコミュニティにできる。不特定多数、全世界に発信できるTwitterだがその実、集会のような密室化したスペースにもなりえるわけだ。
そして世はコロナ禍に――。それは「集会」や「デモ」に影響をもたらした。コロナウイルス蔓延初期は、感染症対策から集会、デモの延期、見送りが多発。その後、リモート集会を採用する団体も増えてきた。
そんな活動家らの避難場所がTwitterでもある。SNSといっても実名を前提とするFacebookでは具合が悪い。不特定多数に向け発信でき、素性を知られずに済むTwitterの方が使い勝手がいい。何しろ声だけは大きい上に“盛り上がっている ”ムードを巧みに醸成する。しかもこうした動きに芸能人らが参加したことも大きかった。野党やマスコミが錯覚するのも無理はない。
盛り上がりという点ではこんな現象も挙げておきたい。
2020年の都知事選。れいわ新選組の山本太郎代表のTwitterは活況で、Twitterでボランティアが呼びかけられると多数の支持者が駆け付けた。この様子だけ見れば明日にでも山本都知事誕生の勢いだ。逆に日本維新の会・小野泰輔候補(現衆議員議員)のTwitter、街頭演説にはあの熱気はない。ところが結果は山本65万票、小野61万票(端数は省略)。わずか4万票の差でしかなかった。このことはTwitterが醸し出すムードと現実世界のギャップを意味してはいないか。先の衆院選においてマスコミ各社が大きく予想を外した要因は、Twitter上にある“ハリボテ ”の熱狂を真に受けたがゆえだろう。
しかし野党陣営はもうTwitterから逃れられない。「集会」の疑似空間であるTwitterは野党議員にとってもライフワークの場。あるいは活動家がツイデモとやれば野党議員も賛同する。
そこには心地良きコミュニティの住民たちが待つ。「アベ、スガ、キシダ」との勇ましい投稿で住民たちは熱狂する。立憲民主党、共産党、れいわ新選組、社民党、あるいはマスコミ諸氏、もはやTwitterは架空世界の公然アジトであり、逃げ道なのだ。そしてTwitterから逃れられないのはマスコミも同様に。
マスコミのTwitter依存は「寄り添い」の変化形
左翼にとって重要な「集会」「デモ」がTwitterに変質したのは、お分かりだろうか。次いでマスコミはなぜTwitterに執着するのか検証してみよう。こと左翼集会における朝日、毎日、東京新聞といった記者たちの振る舞い方は面白い。主催者、活動家の“ 側”であるかのよう。まるで自分たちも共に「闘っている」という意思が溢れていた。そのことが「弱者」への寄り添いだと考えているのだろう。
件の記者らがTwitterに常駐するのも“寄り添い ”の変化形かもしれない。
わずか数人程度の抗議集会をさも大人数であるかのように喧伝する従来の手法は、一部の大きな声やインフルエンサーの意見を「世論」と報じることに酷似する。また悲しいかな記者らも活動家と同様に等しい価値観を持つユーザーを見つけては安心感を得ているようだ。
ジャーナリズムと叫ぶ割に独自報道は皆無に等しく、Twitterの情報や騒動を聞きつけては当事者ユーザーに殺到する。昨年、検察庁法改正が国会で論議された際、「#検察庁法改正案に抗議します」 のハッシュタグが増殖したが、これを朝日新聞など各紙が大々的に報じた。新聞の購読層がハッシュタグを理解できたとは思えないが、ネットの情報を転載したに過ぎない記事。これもTwitter依存の一端だ。
Twitterに「安堵」と「取材源」を求めているかもしれないが、著者の目からは一つのツイートの都度、部数が一部減っていくとしか思えない。
Twitter真理教は続き、三宅予備軍は控えている!
活動家やマスコミのTwitterの使用状況について論考した上で、三宅にとってTwitterとはどんな空間だったのかを考えてみた。いまだにネット上では三宅の暗殺説といった言説が残っている。この表現が行き過ぎなのは承知の上で断言しよう。少なくとも政治的理由で彼女が殺害される理由と価値は全くない。政治家としての力量? 福祉がライフワークといったところで、障害を持つ弟の危機であってもツイキャスを続ける程度なのだ。
もちろん三宅にとってもTwitterは安心の場であり人間関係のコミュニティであった。
それに加えて彼女にとってTwitterは「保健室」のような存在だったかもしれない。小中高まで学校の保健室は単にケガや体調不良のためではなく、心に闇を抱えた児童・生徒の隠れ場でもあった。衆議院議員失職後の三宅の言動は明らかに異常。彼女も心に闇を抱えていた。
だから本気で三宅を思うならばTwitter=保健室ではなく、別の場所を勧めるべきだった。結果的にみればTwitterというお手軽な避難所に逃げてしまったのが三宅の不幸、そして騒動好きなフォロワーを味方と錯覚し虚勢を張り続けた愚行。この2つがやがて悲劇に繋がった。そして死しても三宅は「雪組」というコミュニティに利用され、Twitterを彷徨っている。現在、Twitterには4500万人のユーザーがいるとされるが、わずか140文字の投稿が時にトラブルを起こし、人を狂気に駆り立てる。悲しいかな現状をみるにTwitter真理教は続き、三宅雪子予備軍はどこかに潜む。
前中後編で故・三宅雪子とTwitterの関係を追跡調査してきたが、正直なところ故人に対して時に辛辣な表現をしてきたことは悩ましい作業でもあった。しかしどうか三宅が死に至るプロセスを直視して、社会に蔓延するTwitter依存を再考してもらいたい。
素晴らしい冷静な分析でした。