「市民化」する東京新聞記者の果ては蹉跌

カテゴリー: 論説 | タグ: , , | 投稿日: | 投稿者:
By Jun mishina

「部数減」「新聞離れ」「押し紙」--花形職業から斜陽産業に陥った新聞社。言論機関としても影響力を失い、また新聞由来のスクープは皆無に等しい。『週刊文春』『週刊新潮』の後追い記事に終始している。だがこの通りの厳しい状況下で良くも悪くも「存在感」を放っているのが「東京新聞」だ。官房長官会見で執拗に質問を繰り返す同社社会部・望月衣塑子記者、安全保障問題で反戦集会講師の常連になった半田滋論説兼編集委員、北朝鮮に詳しい五味洋治編集委員など個性派が揃う。編集方針も反体制、反アベ、脱原発、親中・親韓を鮮明に打ち出し朝日・毎日を超え左派市民のバイブル紙と化した。その特徴は「市民(左の)に寄り添う」といったところだろうか。しかしそれは新聞社・新聞記者の格式と質の向上を意味しない。むしろ同紙を待つのは反体制の旗手どころか「蹉跌」かもしれない。

3・11で信者を増やした東京新聞

著者は2001年頃から市民運動ウォッチを始めた。当時と比べメディアや左派を取り巻く状況は明らかに変貌したが、しかし今も昔も全く共通する特性がある。それは活動好きな市民たちは異常なほど「影響されやすい」ことだ。東京新聞に心酔するのはまさにこの層である。

考えてみると新聞社として面白い存在だ。論調はリベラル、ネットでは「トンキン新聞」(中国語読み)と揶揄されることも。他に目ぼしい特徴を探すと、例年、エープリルフール記事を掲載していたことだろうか。かつては面白かったが最近は真に受ける人が増えたのか控えているようだ。あるいは定期的にオカルト・心霊記事をやるのも同紙らしい。イデオロギーを除外してみれば実に味わいがある新聞なのだ。

本質的にはローカル紙に過ぎないがなにしろ「東京」の名を冠しているから同時に中央メディアの顔もできる。例えば都道府県知事選といっても地元の「都知事選」の場合、それ自体が全国ニュース扱いだ。つまり「体」は地方紙であっても「顔」は中央というメディア業界の“ 鵺 ”のといったところ。望月記者の活動も東京新聞が置かれた特殊な位置が作用しているかもしれない。もし彼女が熊本日日新聞や秋田魁新報あたりの記者ならば同じような行動ができただろうか。

原発報道、望月記者の活動で発信力を高めた東京新聞だがリベラル・左派層からの人気は長らく朝日新聞の独壇場であった。これは説明不要だろう。従来、東京新聞のリベラルな論調にも定評はあったがブランド力では到底朝日に及ばない。むしろ現場の記者が痛感しているはずだ。またある意味、朝日新聞を支持しているのは「保守層」でもある。いわゆる保守派の識者が朝日新聞に掲載され小躍りしているのを目撃したことがある。朝日に対する一部保守派の敵意とは実は「思慕」の裏返しだ。保守派にとって毎日はもちろんいわんや東京新聞に好意的に掲載されても何の勲章にもならない。「朝日だから名誉」なのだ。

ところが“ 天下の朝日ブランド”を東京新聞が少なくとも左派界隈のステータスで追い抜いたことがあった。それは福島原発事故である。ご存じの通り、東日本大地震による福島原発事故で脱原発を求める声が強まった。この影響は大きい。なにしろあれほど忌み嫌われた小泉元首相が脱原発を打ち出したところ瞬く間に左翼市民らに再評価された。米追従、イラク戦争の責任、郵政民営化の失敗と言っていたのがウソのような変節だ。そして脱原発運動は山本太郎、おしどりマコ、上杉隆、白石草というスターを生み出していった。結果、福島は「フクシマ」にさせられた。

「奇形児が生まれた!」「甲状腺がんが見つかった」普通の神経をしていれば悲しむべき話だが、脱原発主義者たちは主張が奇異で悲惨であればあるほど熱狂した。そして個人でガイガーカウンターを購入した。「線量が」「シーベルトが」アマチュア放射能研究家が増殖した。今思えばとても滑稽なことだが、あの頃は“自覚的 ”を自負する市民たちは一種の高揚感に包まれていた。この時、東京新聞も市民たちの高揚を嗅ぎ取り、原発スターや市民団体の主張、またはデモや集会をありのまま報じた。

この際、興味深い現象が起きる。平時において「一般市民」と報じたところ実は「活動家」だったとネットで指摘を受ける結末はありがちな話。しかし東京新聞の場合、堂々と活動家を紙面に出してきた。

「フクシマは汚染されている」

どんな事実よりも、脱原発スターや活動家のこの一言で満たされる。悲惨な話ほど活動家や市民は「活力」を得るのはなぜだろうか。こうした活動家や団体に準拠して報じる東京新聞は他紙よりも「真実を報じている」という扱いを受けた。

だから東京新聞信者たちは脱原発集会、シンポジウムの意見交換、質問時間でこう訴えた。

「長年、朝日新聞を取ってきたが原発報道が素晴らしいので東京新聞に変えた」
「東京新聞に変えてから朝食が美味しくなった」

こうした声は一つや二つではなかった。当時、「東京新聞は脱原発で部数を伸ばした」という話が業界内で広まったものだ。実際は2011年から2013年は53~54万部(同社広告局メディアガイドやABC協会データを参考に作成)だったが、現在は42万部(朝刊)という状況。実は商業的に脱原発路線が成功したわけではない。しかし実売部数より重要なのは左派市民の間で「朝日よりも東京新聞」と印象付けられたことだ。絶大な効果である。記者たちのモチベーションの向上、そしてローカル紙のコンプレックスを払拭させた。

「投書を採用」支持の本音は?

この風潮はまだ継続している。昨年10月、神奈川県大磯町議会は内閣総理大臣 安倍晋三衆議院議員に猛省を求める決議を採択した。この一件は東京新聞と神奈川新聞が報じたが、朝日新聞は記事にしていない(*確認ミスならご指摘ください)。同紙ファンの間では「朝日は報じず、東京だけが報じた」という話が広まっていた。「朝日は安倍寄り、東京新聞だけが真実を報じる」と信者たちを狂喜させた。記事にしないことを安倍寄りとするのも短絡的だが、信者はこうしたものである。新聞社側にすれば面倒な取材も不要でただ議決をそのまま報じればいい。これほど楽な記事もない。

あるいは同紙の特報面も特徴的だ。本来は分野の垣根を超えた遊軍的な記事が掲載されるが実際のところ「ネトウヨ・ネット批判・原発・人権問題(Metoo、LGBTなど)」が大半。「ポリティカル・コレクトネス」という用語の縮図のような構成だ。内容は「地を這う取材の成果」というよりも当事者の意見をそのまま掲載するもの。ネット上のまとめ記事とよく似ている。あえて差異を挙げれば木村草太、香山リカといった左筋の御用学者、専門家のコメントを掲載していることだろうか。右が「保守速報」「アノニマスポスト」ならば左は東京新聞特報面か「リテラ」。ま、こんなところである。

左派の記者やジャーナリストは「弱者に寄り添う」という言葉が好きだ。こうした特報記事も「寄り添う」ことの一つの表現手段なのだろう。

ところがイデオロギー的な評価とは別に紙面の「内容」が評価されているのか疑問だ。あるエピソードを紹介しよう。3・11以前のことだが、「マスメディアを考える」という趣旨の市民集会があった。一通り専門家の講演後に「どの新聞が優れているか」という討議が行われた。良い新聞として参加者たちから「東京新聞」の名が続々と挙がった。が、その理由は

「投書を採用してくれるから」

というものだ。これにはひどく違和感を覚えた。この投書話、デジャブではないが同様の場所で同じような話を聞いていたから予想通りでもあったが…。ご贔屓のメディアの評価が「調査能力」「事実究明」「スクープ」ではなくて自分たちの「投書の採用」という。記事に対する賛意ではないのはむしろ悲しい。自己本位な考えに呆れたものだ。

先に述べたような「東京新聞に変えてから朝食が――」云々の話も果たして記事内容に対する評価なのか実に怪しい。週刊金曜日、 ビッグイシュー、あるいは世界(岩波書店)のように「購入すること自体が協力でありステータス」という現象に近いかもしれない。もっともこうした評価は広告・販売部門に貢献するのかは別問題。広告収入を前提とする新聞社にとって左派内ステータスの上昇は果たして恩恵をもたらしたのだろうか

市民化した記者たちの日常

酔った市民と戯れる望月記者。

もっとも現場の記者、特に運動家肌の記者にとってみればこうした評価は紛れもなく名誉だ。その寄り添いを最も体現しているのが例の望月記者である。この方、ご存じの通り、森友・加計学園問題の追及に熱心だ。しかし彼女からモリカケ問題で新事実が報じられたことがあっただろうか。

「週刊文春や週刊新潮や他紙のコピーを台車に乗せて会見場に行くのが望月さん(笑)」(政治記者)という同業者の揶揄もどこ吹く風だろう。もちろん信者たちも「何を報じたか」よりも「どう振舞ったのか」を重視する。

そんな望月記者がもう一つご執心だったのが「Metoo運動」である。この問題のシンボル的存在は 「性暴力被害」を訴えるフリージャーナリスト・伊藤詩織さんだ。損害賠償を求めた伊藤さんの民事裁判の様子を全国紙記者はこう耳打ちしてくれた。

「望月さんは記者席があるのに、傍聴券を求める列に支援者たちと一緒に並んだのです」

だいたい記者席の方が取材活動向きだし、何よりも並ぶ労力を省ける。それに伊藤さんの裁判は関心が高く支援者たちが多数、集結したから傍聴券が確実に入手できるとは限らない。なぜ記者席を利用しなかったのだろう。つまり彼女にとって「弱者に寄り添う」ことの“証 ”がともに傍聴席を求めることなのだ。これぞ「市民化した記者」らしい行動様式である。この行為が弱者に対する「寄り添い」ならば浅はかとしか思えないし、記者の本分を忘れてはいないか。

望月記者とMetooと言えば次の一件も印象的だ。一昨年、 聖路加国際病院に勤務するチャプレン(牧師)が強制わいせつの疑いで書類送検された。当時、この記事を執筆したのが望月記者だ。大病院のわいせつ事件からMetoo運動につなげたいという目論見があったという。

やがて牧師は不起訴処分になり、運動の波は起きなかった。と言ってもそもそも条件がまるで異なる。伊藤さんの性被害の加害者とされたのは安倍首相と近いTBS・山口敬之元ワシントン支局長だ。つまり伊藤さん支援の裏には反安倍、打倒安倍政権の狙いがあり、首相と無関係の牧師のトラブルなどMetoo運動家や左翼活動家にとって何ら“うま味 ”がない。

「最近まで週刊朝日の記者2名が牧師を追跡取材していたが、不起訴だし記事化は難しいのではないか」(他誌記者)

何より火付け役の望月記者が“ イチ抜けたー”という状況だ。もうお分かりだろう。この方にとってのジャーナリズム活動とは「反自民であるか否か」「トピックスになるか、ならないか」「目立つか、目立たないか」に尽きる。「言葉が過ぎる」という指摘もあるかもしれないが、望月記者の行動パターンを整理すれば決して間違いでもない。それに新しい政治トピックスに無節操に食いつく姿勢は市民活動家の行動パターンそのものである。

立憲民主党から政治家に転身の噂もチラホラ。

もう一人興味深い記者を紹介してこう。あるいはSNSの発言でしばし物議を醸しだすのは同社水戸支局の佐藤圭記者。彼もまた市民化したように思える。

先日、以下の投稿で佐藤記者に対して批判が相次いだ。

https://twitter.com/tokyo_satokei/status/1218171967154475014?s=20
https://twitter.com/tokyo_satokei/status/1218173829026988037?s=20

福島の現状については単純に「安全です」という政府発表を信じるわけにもいかない。もちろん十分な調査と裏付けが必要だろう。しかしかといって東京新聞、あるいは佐藤記者から「政府発表」を覆すだけの調査報道、取材記事は見たことがない。要するに「危険」「汚染」の連呼であり、かつての脱原発スターや活動家たちの言説と大差がない。もし佐藤記者が反論したいならばそれはツイッター上の罵倒合戦ではなくて取材活動で一つでも多くのファクトやデータを提示すべきだ。ただ一度、「市民化した記者」にその作業は荷が重すぎる。

それに悲しいかな同紙の支持層はそのような綿密かつ客観データに基づいた記事など求めていない。ヒステリックに、言うならば「福島県民全員が被ばくして甲状腺がん」これぐらいのセンセーショナルな内容でなければ満足しない。佐藤記者が過激な投稿を続けるのも市民―東京新聞の“ 距離感 ”が影響しているのではないか。

さらに痛々しいことにもはや信者たちにとって「福島原発事故」「放射能汚染」は優先的な関心事ではない。彼らの特性として「影響されやすいこと」を挙げたが、こういう性質上、社会問題・政策課題に対して実に“ 移り気”で浮気性なのだ。今頃は「桜を見る会」かイラン問題か。先の佐藤記者の投稿のコメント欄を見ても明らかにアンチの意見が圧倒的で、賛同・激励のコメントは乏しい。ある意味、市民たちの一端を物語ってはいないか。

しかしどういう形で「市民に寄り添う」ことをしても、また市民の代弁者を演じたとしても部数が劇的に増えるわけではない。記者としてのスキルは向上しないし、意欲ある若手記者の手本にすらならない。効率化が求められる今、腰を据えた取材よりもSNSの騒動、まとめ記事作成、からの木村草太や香山リカのコメント取りの方が作業としては楽だ。かと言って記者職のスキルアップ、蓄積、経験にならない。

妙なものでこの種の記事はなまじ弱者に「寄り添った感」だけは漂うから相応に“ ジャーナリズム精神 ”めいたものは満たされる。ただ繰り返すがそのことは新聞社としての業績好転にはつながらない。もちろんこのような「市民目線」という姿勢を「熱意」と好意的に評価することも可能だ。しかしそれは危険性を孕む。

なにしろ自覚的で進歩的な市民とは例えば、れいわ新選組の山本太郎代表が「池田大作先生(創価学会名誉会長)は世界平和の実現者」とアジればあくる日から「池田大作先生万歳」と熱狂してしまう人々なのだ。そしてこの層と東京新聞の支持層は見事に一致する。この目線に合わせていて確固たる編集方針が構築できるわけがない。

しかし一度、市民化し市民目先に囚われた記者たちが軌道修正するのは困難だ。原発報道、あるいは反差別で受けた市民からの喝采は一種の中毒性すらある。別の言い方をすれば“ 市民化記者”たちはまだ3・11の混沌に留まっているかもしれない。市民から称賛されればされるほど実は彼ら東京新聞記者を待つのは「蹉跌」…しがないフリーランスの老婆心だがこの言葉を贈ろう。

Jun mishina について

フリーライター。法政大学法学部法律学科卒。 月刊誌、週刊誌などで外国人参政権、人権擁護法案、公務員問題などをテーマに執筆。「平和・人権・環境」に潜む利権構造、暴力性、偽善性を取材する。

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「市民化」する東京新聞記者の果ては蹉跌」への4件のフィードバック

  1. 遠州屋

    東京新聞の本体である中日新聞(名古屋市)は愛知県を含む地元で少なくとも40年ほど前から左派色の強い紙面作りだと認識されていました。わたくしが知る範囲なので地元の統一的見解というものではありませんが。左派色といっても中日新聞を読むと、「中国・愛」、「北朝鮮・愛」といった感触が得られるといった程度のものです。しかし、経済面においてはトヨタ自動車の本拠地は紛れもなく愛知県豊田市なのですが紙面には堂々とトヨタ自動車は名古屋の企業だと臆面もなく報じる「名古屋・愛」も持ち合わせる節操のない新聞社です。

    返信
    1. 三品純 投稿作成者

      中日の志望者って確か名古屋市役所、トヨタ、名鉄といった
      とりあえず愛知県内の有力企業を
      受ける人が多いという話を聞いたことありますよ。
      いわゆるノンポリって分かりやすい左になびきますから
      朝日や毎日あたりとちょっとまた違う毛並みを感じます。

      余談ですが滋賀県東近江市(正確には旧八日市市)の助役さんが同和絡みで自殺する
      事件がありましたが、この一件は中日のK記者がコラムで問題視していました。
      自分たちも取材して記事にしたんですが、報告がてらK記者にも記事を送りました。
      「すごく取材していますね」と褒めてくれました。
      当時そのうつ食事でもしようなんて話していたんですが、数年前亡くなられたそうです。

      気骨のある人はちゃんといるけど案外そういう人は浮かばれないものです。

      返信
      1. 遠州屋

        目立たなくとも気骨のある記者さんもいらっしゃるのですね。
        中日新聞の記者ではなかったと思いますが、愛知県豊橋市で昭和45年に起こった「豊橋事件(強姦放火殺人」では冤罪と信じ事件担当でない記者と同じく事件担当でない刑事が協力して被告人の冤罪を晴らすという出来事を思いだしました。
        組織内部には人の数だけ考えがあり誰も予期しない方向へと進むのかもしれないのですね。望月記者を待つ蹉跌とはどんなものになるのでしょうか。

        返信
        1. 三品純 投稿作成者

          望月さん自体は蹉跌どころか後はどのタイミングで
          政界に転身するのかだけでしょうね。ダメなら
          どこか大学が拾ってくれるでしょうし。

          とはいえ若手記者が大変と思いますよ。腰を据えたルポとか
          できないし市民団体や活動家の言いなりの取材しかできないでしょう。

          返信