先週はテレビ、新聞、そしてネット上も関西電力・高浜町・助役で一色だった。当サイトも高浜町と森山栄治の過去を中心にお伝えしてきたが、以後は「同和と企業」という大きなテーマに移行していく予定だ。これからももちろん森山に関する興味深いエピソードがあれば紹介していくが、とりあえず本稿で「高浜編」は一旦、終えたい。最終章となる本稿はSNSでも話題の『前衛』(1982年8月号)「<ルポ>原発のある風景」の“ファクトチェック ”を中心にお伝えする。
言いっぱなし有名人の根拠なきデマ認定
森山の一件で改めて「同和」が最上位のタブーであることを痛感した。菊タブー(天皇タブー)と言われるものの、愛知県内では天皇の写真を焼くという演出が「芸術」として展示されている。そしてこの作品に対して「表現の自由」を持ち出し守れという。ところが本誌及び『週刊新潮』『週刊文春』の各誌が森山と同和の関係を報じると、瞬く間に反発が起きた。報道の自由は存在しないのか。例によって本誌にも批判や中傷は寄せられたがいつものこと。むしろ報じた本人よりもそれ以外のメディア関係者へのバッシングが激しかったように見える。特にジャーナリスト・佐々木俊尚氏に対しては辛辣だった。佐々木氏は10月3日、ツイッターにこう投稿した。
これに映画評論家の町山智浩氏やコラムニストの小田嶋隆氏らツイッター有名人が食いついた。
あるいは評論家の常見陽平氏のBLOGOSのエントリーは「感想文」どころか「立ち話」程度だ。ただ罵倒しているだけとしか思えない。
森山案件が同和絡みなのは明白で、佐々木氏はその印象を述べたに過ぎないし、差別的な要素は読みとれない。また常見氏らがこの問題について取材しているわけではない。「現場に行く」ことが全てではないとしても彼らが高浜町や同和問題に関する知見があるとは思えない。にも関わらず問答無用とばかりのバッシング。これは「論評すること自体が差別」というポリティカル・コレクトネス特有の考え方だ。また過去を見ると町山氏は別件でもたびたび佐々木氏を批判してきた。要するに「気に入らない相手」というわけだ。以前も指摘した通り、対立する論敵に対し人権問題を持ち出し攻撃する手法は決して珍しくない。
彼らは十分、発信力があるのだから反論があれば、具体的な証拠を持ち出し「同和とは無関係」であることを証明すべきだ。ところが繰り返されるのは「差別」の二文字。人権派や左派の面々はもはや「差別」という言葉が最後の砦だ。理論的支柱の最大のキーワードが「差別」というならばとても軽率だし、左派好みな表現をすれば「反知性主義」的である。もし同和問題に対して「偏見」があるとすれば、物事の全てを「差別」で説明しようという態度こそが原因ではないか。
一瀬糾弾を友永氏に直撃、本人は否定
さて今回の記事のメインテーマは『前衛』(1982年8月号)「原発のある風景」のファクトチェックである。同記事は森山の過去をめぐる最大の根拠となり、SNS上でも話題になったのはご存知の通り。その名の通り『前衛』は共産党の理論誌であり『赤旗』と並ぶ党のシンボルだ。森山をめぐる言説は「デマ」と断じる一派には普段は、赤旗や共産党議員の主張を支持する人もいた。デマという投稿に対してフォロワーが『前衛』を持ち出すと特に反応することもなく「無視」という態度だ。
デマ派の主張を集約すると小田嶋氏の「 なんでもかんでも「同和」で説明してしまう」が最も平均的な意見に見えた。果たして「なんでもかんでも」だろうか。まず森山が部落解放同盟員か否かという点についてはもう結論が出ている。高浜町の郷土誌青郷編纂委員会編『郷土誌青郷』(郷土誌青郷編纂推進協議会)にこんな記述がある。
高浜支部の結成は福井の各地の被差別部落に大きな影響を与え、その後の福井における解放運動の拠点を築いた。結成当時の役員は次のとおりである。支部長 山本惣太、副支部長 田中稔、山下孝次、山本操冶、書記長 森山栄治が三役の任にあたり、この他に若干名の役員で執行部を構成した。田中稔他三役の活躍は目覚ましく、なかでも特に書記長になった森山氏は以前は、解放運動の進んでいた京都府綾部市の職員として勤務していた関係もあり、解放運動にもくわしく支部結成に積極的な役割を果たし、その後四七年まで高浜支部の解放運動の中心的な役割を担った。
少なくとも森山が同盟員であったのは疑いのない事実だ。副支部長の田中稔については後に「森山のやり方が行き過ぎていると批判するようになった」(地元議員)という証言もあったのも見逃せない。にしても支部きっての有力者であったことは確実だ。また高浜支部の詳細については解放同盟側が組坂繁之執行委員長の名で出された「福井県高浜町元助役から関西電力幹部への金品受領問題に関する部落解放同盟のコメント」が詳しい。ありがたいことに取材では得られなかった基礎データが掲載されていた。
部落解放同盟福井県連合会は、高浜支部の一支部だけで構成されており、その所帯数も80世帯ほどの被差別部落であり、同盟員数に至っても200名ほどの小さな県連の1つである。福井県に対する交渉においても中央本部役員が同行し、県との協議を進めているのが現状であり、福井県や高浜町、ましては関西電力に大きな影響を及ぼすほどの組織ではない。
同コメントでは女性教員に対する糾弾については「解放同盟福井県連・高浜支部はまったくの無関係」としている。これについては本誌も森山の個人的な活動と結論付けている。だが不思議なことに一瀬敏昭元高浜町議会議長の糾弾については触れられていない。
そこで実際に『前衛』で名前が指摘された人物に直撃することにした。10月5日、京都市内のとある会合に出席したが、その場には部落解放・人権研究所名誉理事の友永健三氏も同席。前衛の記事で友永氏は一瀬議長の糾弾会に「応援」の立場で参加していたと報じられていた。本来は氏に対してコメントを取る場所ではないが、友永氏の反論・名誉も関わっているからあえて尋ねた。こんなやり取りだった。
「今、話題になっている森山栄治氏と面識はありましたか」
「ないですよ。知りませんね」
「ところがここ(前衛)にこうやって先生のお名前が出てくるんですよ」
友永氏は驚いた様子で、記事に目を通した。
「本当だな。知らないよ。こんな話は。覚えてないのではなくて行ってませんよ」
「高浜自体に行ったことがないのですか」
「いやあるよ。高浜には行ったことがあるけどこれとは全く無関係ですよ」
「例えば支部長の山下敬太郎さんなんてご存知ですか」
「その人は分かるけど、この話とは関係なく知っていますよ」
「田中稔さんというのは?」
「知らない。本当にこんな話は知らないよ。これなんて名前の雑誌ですか?」
「前衛という雑誌ですよ。共産党の」
「一部もらえないかな? これは私の名誉にも関わるから」
「一部しかありませんのでコピーして参ります」
友永氏がとぼけているようにも見えなかった。ともかく同氏は一瀬議長の糾弾に参加したことを否定した。かといって『前衛』が誤報という確証もない。なにしろ1982年の記事で、著者などまだ小学3年生の時代の話。ここを遡ってファクトチェックというのはもはや不可能に近い。それから解放同盟がコメントの中で一瀬糾弾に言及しなかったのが不思議だ。事実として認めていないのか、あるいは言及する価値もないと判断したのか。今度は解放同盟に説明を求めてみたい。
国税の調査が入るとの情報に森山は…
今でも生存している人物で女性教員・議長糾弾を知る人はおそらく山下敬太郎支部長ぐらいだが、すでに別稿で報じた通り完全に取材拒否をされた。というより本誌ではなくても触れたくないという様子だった。では西三松で聞き込んだところで何か有力な情報が得られるという感じでもなかった。ある住民は家々を指してこう言った。
「あそこの家は解放同盟員だけど、隣の家は違うからね。みんなバラバラだよ。かといって対立しているわけでもないしね。町内会に入るような感覚じゃないかな」
また区長の自宅を教えられ行ってみると、最初は留守だったがそこに一人男性が現れた。男性は区長の身内だという。要件を聞かれたので西三松の解放同盟の加入率や過去の活動について尋ねてみたが「そういう話なら区長は応じないと思うで」と車で仕事場に向かわれた。ところがこの男性こそが区長本人ということがその後で判明した。惜しいことをした。しかしちょうど区長の母親がいたのでこの女性にも尋ねてみる。なんでもこの女性の代は解放同盟に入っていたそうだが、しかし子供たちはやめたという。「糾弾」について聞いてみたが、そんな言葉を聞いたのも初めてのことのようでかなり驚いておられた。
この話も決して矛盾はないように思う。というのも西三松に限らず町内会単位で解放同盟に加盟した地域は県外にもあるからだ。だから高浜町で解放運動が根付く過程の中で一種の地域クラブ的な意味合いで加入していったのではないか、と。そして「運動部分」を森山ら急進的な一味が担ったのだろう。
「原発労働者といっても全国から来るからね。まさか旅館の入り口に同和のポスターがあったら不安に思うでしょ。そんなみんな商売の方が大事だもん。同和だの関心すらないんじゃない。それよりも労働者の人が残業するかどうかの方が気がかりやろ。食事の準備があるからね」
これが原発のある部落、西三松のリアルな日常だろう。海水浴客相手なら繁盛期は夏だけ。しかし原発労働者相手なら年中、宿泊客が見込める。原発様様だ。だから原発誘致に関わった森山が郷土の名士であるのもまた事実だろう。
高浜原発3号機、4号機は森山と剛腕と呼ばれた浜田倫三元町長が誘致した。1978年には関電から町長の個人口座に「協力金」が振り込まれたことで住民監査請求が起きるも棄却をされてしまった。実はこの当時から国税が浜田・森山周辺を探っていたという情報が飛び交ったというが彼らが追及されることはなかった。
だが圧倒的な存在であるはずの森山にも異変が起きる。1987年5月31日、森山は助役の任期を残して退職した。しかも日付を見て分かる通り、5月とはとても中途半端な時期だ。森山の前には6人の助役がいたが森山が最も長く助役の職にあった。
「いよいよ国税が動くという話があるから森山さんの身も危ない、と周囲に諭されて助役をやめたといいます」(町関係者)
とは言え退任後も森山は高浜原発にも関電にも影響を及ぼしていく。今後は関電と森山がどういう関係にあったのかを追及していきたい。
綾部には森山栄治の痕跡は残っていませんでしたか。
綾部市はまだこれからなんです。
いつも有力なコメント頂いている方ですよね。
なにかどんな小さなことでも結構ですので何かヒントがあれば
ぜひご教示ください。[email protected]
とても興味深く読ませていただきました。以前読んだ本に似たようなことが書かれてあり引っ張り出してきました。2011年発売の別冊宝島です。原発関連では関電の話題はあまり注目されてなかった記憶があるのでこの記事は割と記憶に残ってました。
画像がさかさまになってましたすいません。訂正はできないので回転して閲覧願います。前ページです。
根拠なきデマ認定を大勢が煩くやることでかえって答え合わせになってるような気がします
関電の第三者委員会に貝阿弥元判事が任命されてますね。同和地区wikiによると、岡山の同和地区出身の方ですよね。身内にも判事が多数いらっしゃるようですね。
綾部の方はもう共産党の方が強いかもです。今年も志位委員長がわざわざ来る有り様ですから。