曲輪クエスト(19) 大阪府大阪市北区長柄

カテゴリー: 曲輪クエスト | タグ: , | 投稿日: | 投稿者:
By 宮部 龍彦

読者の方から、「人間みな兄弟 部落差別の記録」(後編)に出てきた場所の1つが特定できたとのメールを頂いた。そこで、今回の曲輪クエストは読者投稿編である。

vlcsnap-2016-09-29-11h46m30s603

この、市営住宅が写っているシーンだが、映画ではどの場所か触れられていなかった。

そこで、読者の方が場所の特定を試みたところ、意外な場所であることが分かったという。それが天神橋筋てんじんばしすじ六丁目駅(天六てんろく)の東側にある長柄ながらである。

1_1

映画に出てきた場所の現在の写真とされるのがここだ。この場所は住所で言えば国分寺になるのだが、奥にある公営住宅は長柄中1丁目にある。

この場所である根拠は、大阪府内で1960年以前に、公営の4~5階層の鉄筋コンクリート住宅が建てられていた場所を過去の資料や地図で探し、1つ1つ検証したところ、映画と同じ構図の写真が撮影できる場所はここしかないという結論に至ったという。現在の建物の形は違うが、過去の航空写真から建て替えられたことが確認できるという。

他の読者の方々におかれても、ぜひ検証いただきたい。

vlcsnap-2016-09-29-11h45m35s884

映画にはもう1つ場所が未確定な、上記のシーンがあるが、残念ながらこちらは分からなかった。

長柄は部落というより、スラムとして知られていた土地である。1969年に始まった同和対策事業の対象地区とはされず、1963年の「大阪市同和事業促進協議会10年の歩み」にも掲載されていない。ただ、1935年の全國部落調査には掲載がある。

市営住宅が建てられたことを除いては、同和事業や大規模な開発が行われた形跡はなく、大阪の昔ながらの住宅地の町並みである。ところどころに細い路地があることから、スラムであった頃の面影を見ることができる。

1_2

1_3

1_4

1_5

1_6

1_7

1_8

1_9

2_1

2_2

2_3

2_4

2_5

2_6

2_7

2_8

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

じゅり へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

曲輪クエスト(19) 大阪府大阪市北区長柄」への33件のフィードバック

  1. そういえば、長柄は大阪三大細民街の一つで大阪最大の不良住宅街でしたね。
    スラムで思い出しました。
    ひょっとして、長柄は「全國部落調査」に乗ってるものだから
    この監督は不良住宅街を見て「これが同和地区だ!」と勘違いした?

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      全國部落調査の20戸というのも少なすぎますよね。おそらく、スラムの中の20戸がいわゆる「新平民」の家だったという意味かと思いますが、あの資料は謎が多いです。

      返信
  2. 部落マニア

    全国部落調査では20戸だそうですが、現在の住所の範囲だとかなり広い感じです。
    スラムが形成されたのがいつ頃なのかわかりませんが、明治期の字限図を見れば、はっきりしそうですね。

    返信
  3. 通りすがり

    探訪時にお気づきになったかどうか分かりませんが、長柄(住所は国分寺だったかな)には大きな市営墓地と火葬場もおあります。火葬場の隣は関西大学の校舎でしたが、今は大手デベロッパーが巨大マンションを建設中です。デベロッパーは、今の若い人は隣が火葬場と墓地でも気にしないから売れると判断したんでしょう。実際、大阪中心部で駅近ですから非常に便利です。また20分ほど梅田方面に歩いた中崎には、日本で初めて火葬場が誕生した場所と韓国民団もあります。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      グーグルマップで見ると、確かに広大な墓地がありますね。しかし、天六の商店街まで歩いていけるし、住むにはよい場所であると思います。

      返信
  4. 音野

    元々穢多や非人が住んでいたわけでもなく、移転して被差別部落に認定されたわけでもないのに
    なぜ長柄が所謂部落なのでしょうか。
    日本橋の広田町は東から来た人が多いみたいですけど

    返信
  5. なぜなんでしょうね。
    それを究明しようとすると、「差別だ!詮索するな」と喚いたり、究明のための資料を提供しようとしてくれてる人に対して「公開するな!27280万円よこせ」とか吹っ掛けてくる人がいるようなのですよ。
    そのため、私たちは正確な情報すらつかむことが出来ないのですよ。
    正確な情報が公開されない限り「なぜ」という言葉は消えることが無いでしょう。

    返信
  6. ニコイチ

    いつも興味深く拝見しております。解らない事が多いので、質問させて下さい。4枚目の写真、白黒のヤツです。映画の一コマだと思いますが。写真の右手にスローガンが書かれていますね?「○良住宅を一帰し、市営住宅を建てよ!」とありますが。これは部落=同和の方々が訴えているのですよね?冷静に考えて、自分で稼ぎ、自分で建てるのが普通かと思いますが。こういった度を超えた訴えは当時は当たり前だったのでしょうか?確かに働けない、稼げない=差別、同和の苦しみなのでしょうが、まるで過剰要求に見えて、同和=やくざ=怖い人=関わりたくない人 とのイメージそのままです。私の感覚からすると不思議なんですがね。「人類みな兄弟」でしたっけ?誰か是非you tubeにあげて頂けないでしょうか?真剣です。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      真面目に答えますと、人間みな兄弟が発表された頃は、全国各地に今よりも多く不良住宅地があったのですよ。長柄もそのような場所でした。
      住宅地区改良法という法律も当時出来たので、「不良住宅を一帰し、市営住宅を建てよ!」という要求自体は非常識なものではありません。
      もちろん、後で住宅を払い下げて持ち家化するプランがなかったのは問題だと思いますが。
      「人間みな兄弟」は http://www.geocities.jp/japandocumentfilm/ に問い合わせたら買えます。
      ちょっと高いですが真剣なら相応の費用は負担しましょう。

      返信
  7. ねこ

    10年ほど前まで、長柄東に住んでいました。
    カネボウの工場のあった跡地にできたマンション群のひとつに住んでいました。
    部落地域、という意識は全くありませんでした。
    長柄中、長柄西のあたりには、路地の細い古びた家がありましたが、バブル期にかなりなくなってしまいました。またおっしゃるように墓地、火葬場があり、私が中学生だった30年前には、焼き場の臭いが授業中漂ってきたりもしましたが、今は近代的な斎場です。
    そういう場所があるので、すごい昔は「穢れを扱う人」として差別されていた人が集まって住んでいたのかもしれませんが、少なくとも私が住み始めた30年前には感じられず、そのあとのバブルや再開発でその痕跡を探すのは難しいと思います。
    天六駅に近く、梅田にも近いので、むしろ非常に良い立地条件です。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      私も大阪に住んでいた頃、あの界隈が部落とは思いませんでした。
      実際、部落というよりスラムなのだと思います。もうちょっと研究しないとわかりませんが。
      確かに便利な場所です。ちょっと頑張れば歩いて梅田に通えますね。
      私は一時期運動のために天六で降りて梅田まで通っていました。

      返信
      1. ねこ

        返信ありがとうございます。
        そういえば、住み始めたころ(1985年ごろ)には、1軒だけ、映画の中のスラムみたいな家がありました。
        誰も住んでなくて、フェンスで囲われた空き地のなかにぽつんと不気味に立っていました。
        そのころちょうどキョンシーの映画があったので、「キョンシーハウス」と呼んでました。
        そのうち取り壊されて、長柄インターから出てくる道路につながるように細い道が拡張されたとき、そこの空き地も道路になりました。

        返信
        1. 鳥取ループ 投稿作成者

          国土地理院地図・空中写真閲覧サービスで1985年の航空写真を見ると、
          どれがキョンシーハウスか分かりませんが、確かに長柄インターの前に古い家が密集している場所があります。

          返信
          1. ねこ

            キョンシーハウスは、正徳寺の西側にぽつんと立っていました。
            フェンスの囲みは、正徳寺と国分寺の間ぐらいでした。
            おそらくそこに古い家の密集地があって、私がみたときは最後の1軒だったのでしょう。

          2. 鳥取ループ 投稿作成者

            ありがとうございます、1992年の航空写真だと、確かに正徳寺の近くに大きな空き地があって、真ん中に解体前の古民家らしきものがいくつかあります。
            たぶん、1990年前後の一時期だけあったのでしょう。

  8. じゅり

    昭和39年から昭和60年まで長柄で育ち
    実家は平成になってもありました。
    今は両親とも亡くなり 始末して豊中に住んでいます。

    映画に出てきた市営住宅・・・
    これは長柄では無いですよ。
    私は市営住宅の隣の鶴満寺 幼稚園に昭和40年前後
    通っていました。 ゼンゼン違います。
    北から見た 間に細長い公園があるハズだし
    住宅の外観がまったく違う

    地名「長柄」には部落は無かったですよ。
    ただ 斎場があったので 棺桶や花屋などそんな商売を営む家が
    数軒近くにありました。
    もちろん一部道路などを不法占拠したような住宅や
    古い不法建築の住宅はありました。
    今でも記憶にある一区画は豊仁小学校の東隣の一区画が
    少しそんなバラックの集落があったくらいです。

    古い町並みが長柄に残るのは 空襲で被害を受けなかったのが
    一番だと思います。
    確かに 長柄中通り3丁目付近(旧吉山町)は 昔は青線地帯であり
    その近くは 労務者相手のドヤ街だったそうです。
    天六に近い 長柄西通りと中通の間には「44軒長屋」と呼ばれる長い長い長屋があり
    東通りには「看守長屋」と呼ばれる少し洋風の外観の長屋があり
    明治期 扇町大阪プールが刑務所だったそうで
    そこの職員の住居だったそうです。

    また 中通2丁目付近(斎場や墓場の近く)には
    住友家一族のお屋敷もありましたよ《当時も当主は博物館だか裁判所の所長だったと記憶)

    長柄は江戸時代 広大なごぼう畑が多くあり
    人が住んでいたのは お寺や神社の周辺だけでしょう。
    小学校の頃 授業で地図をみた覚えがあります。
    明治期以降川に近い条件から紡績・製紙の工場が
    集まりゴボウ畑の地主が明治期以降 人口の増加に住宅(長屋)を立てて
    街作りを行い また そのための住宅が社宅なり長屋なり多くあり
    商店や下請けの零細工場などが密集していました。
    江戸時代はナニワの外れの農村であり
    明治期畑のあぜ道をベースに町を作ったので
     ゴチャゴチャしていたのは否めません。

    余談ですが明治の初め 長柄橋の袂に巡査が立ち
    東淀川から来る 馬車を止め 市内を通行できるか
    大きさ 幅の計っていたそうです。
    大阪市内全域 そんなゴチャゴチャした町だったのでしょう。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      1961年
      1964年
      ながらの市営住宅の1961年と1964年の航空写真ですが、映画は南から北に向かって撮影していると見ると、よく一致しているように思われます。
      映画では手前の洗濯物の後ろに影があり、太陽を背にしているため、北側に細長い公園があったとしても見えないはずです。
      航空写真では市営住宅の屋根の上に3つの構造物がありますが、映画でも屋根に3つの凸部があります。
      記憶では、市営住宅はどのような形状でしょうか?

      返信
  9. じゅり

    お返事ありがとう御座います。

    画像の市営住宅と 色や形がぜんぜん違います。
    当然同級生がたくさん住んでいましたし
    その市営住宅は「鶴満寺」のスジ向えで
    南側に「鶴満寺保育所」 その保育所に通い
    23歳までで近所に住んでいました。
    私は昭和36年(1961年)生まれですね。

    また その市営住宅の手前の古い住宅
    (これは北側だと思います。南側は保育所がある)
    市営住宅の北側は ワリと大きな家がありました。
    私が記憶する時期は保育園に通いだした 1965年以降です。
    それ以前は知りませんが 市営住宅が無いでしょう。

    また 住宅密集地の写真がありますが
    あの辺りは 部落とは程遠く ただ戦前の長屋が残っていただけの風景
    その南側の吉山町一部(50m四方)が 私の幼い頃 
    まだドヤ街スラムの雰囲気を残していましたが
    ほんの一筋南に下ると 戦前からの普通の街並に変わります。

    旧大淀区で お探しの地域は 豊崎(小学校付近)とか 
    中津の新淀川に近い地域とかです。
    長柄は 天六周辺には大阪市街拡張工事 河川工事 
    大規模工場(紡績工場)建設工事のため人夫が集まり
    ドヤやスラムが大昔あったとは聞いていますから生活貧困者のための
    大正時代?からの古い会館があったりしましたが
    同和地区に必ずある 人権センターや料金の安い公衆浴場など無かったですね。

    返信
  10. じゅり

    読み飛ばしていました。

    その航空写真が まったくデタラメです。
    長柄中通・東通では無いです。

    返信
  11. じゅり

    現在の地図を貼り付けます

    周囲の道スジから この航空写真が間違えています。
    航空写真の赤い矢印付近は 私の同級生が2名いまして
    ありえません。
    また表通りに近く あんなにノンビリしていません。
    そして 当時は車が入れないくらい細い道でした。

    現在の地図の 国分寺西側 喫茶ベル やクリーニング店の辺りですね。

    http://map.goo.ne.jp/s_goomap/staticmap.php?MAP=E135.31.07.514N34.42.25.952&ZM=11&SZ=1002,600&P=1006E135.31.07.514N34.42.25.952

    返信
  12. ジョージ

    この近辺に3年ほど住んでいます。
    周辺の歴史に興味があり、色々調べていました。
    江戸時代、この近辺は天満垣外(非人村)になると思われますので、戦前の調査では、その名残で部落とされていたのではないでしょうか。大阪の4つある垣外は、すべて同和指定されてませんので。
    また、長柄東市営住宅は、8割方、改良住宅なので、スラム街の対策はされているようです。
    記事の写真の団地は、長柄中住宅なので、改良住宅ではありません。

    住んでみると、いいところです。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      非人村だったのですね。
      Wikipediaでは垣外は天王寺、鳶田、道頓堀、天満にあったとあります。
      同和地区指定されなかったのは、関西では非人というのは世襲されるものではないという考えがあったのかな、という気がします。

      返信
  13. 天満垣外は現在、環状線天満駅の場所なので、長柄とはかなり離れていますね。
    たしか、10年の歩みだったかに、中津で裕福になった人たちは、舟場や長柄に転居したと言うような
    ことが書かれていたと思うのですが、淀川河川改修で、光立寺村皮田の人たちは中津と舟場だけでなく
    長柄へも移転したのではないでしょうか。

    返信
  14. ≪江戸時代、この近辺は天満垣外(非人村)になると思われますので → 全然違うだろうが
    ≪非人村だったのですね。(wiki参照) → 航空写真が違うって知った後でどうして断言できるの?

    適当すぎないか?みんな迷惑してるからやめなよ。

    返信
  15. たけみまり

    長柄辺りは墓に従事する非人村で、そこはよそから貧民が集まり、大きなスラム化したのでしょう。

    返信
  16. とことこ

    長柄中通りは、中2階建ての旅館も、(当時にすれば、素敵な旅館、)や美容院等もありました。斎場とも少し離れていました。中2階建ての木造住宅(瓦屋根)が、並んでいました。
    梅田のデパートのバルーンも見える距離。
    何筋も斎場方向へ向かうと韓国の方々の平屋や市営住宅?ぽいのがあったと思います。又、お話の市営住宅周辺は、鶴満寺保育園や国分寺までの道のりでしょうか?

    昭和40年当初には、道路も舗装され現在風の大きな壁の家があったと思います。自宅駐車場もありました。風景が異なります。市営近くの八幡宮さんの夜店も毎年行きました。その市営に住んでいた同級生の自宅まで一度行きました。屋上に竿があり、たくさん洗濯物が干してありました。
    筋違いに地域の大きめの銭湯がありました。普通に料金が必要です。シャンプーするなら、追加されます。昭和40年頃の記憶です。その斜め前は牛乳屋さん。

    自宅の長柄中通りから、天満へ向かう商店街に黄色と白のデザイン街灯も等間隔に並び、商店や中華・日本料理店や仕出し屋さん、うどん屋さんがありました。自家製パン屋、神戸屋パン屋、アイスクリーム屋さん、豆腐屋、おかし屋、やおや、化粧品店、本屋.、お好み焼きや、クジラ肉の専門店、理容店・・・自宅から子供の足で1分程度で、アニメちびまる子ちゃんの街の商店街より広い道路に両サイド、長い商店街にでられます。酔っ払いも、いない。柄は全く悪くない街です。立ち飲みは、反対の斎場方向に一軒ありましたが、あとは、米屋、本屋、氷屋さん。淀川(毛馬)方向は、古い住宅長屋もありましたが、大人になるにつれ、少しずつ消えていきました。

    友達の親は、昔ながらのお店や、旅館、料理屋等経営者も多いです。
    幼馴染みの旅館の御嬢さんは、かなりお金持ちです。おもちゃもたくさん持っていました。
    数件先の並びのお家。
    私は長柄中通り1丁目で生まれ小学校2年(昭和46年)まで暮らしました。祖父母がその家に住むこととなり、転居。
    親戚や祖父母は、バブル時代、ビル街に変わるまで生活され、毎年、足を運びました。少し離れた淀川堤防あたりも整地され今はURマンション街です。

    幼い頃、在日の方は、生計を営む昔からの大阪人と少し離れた筋に住まれていたようです。近所に怖い人は、いません。

    昭和初期、豊崎小学校周辺に地方から、仕事を求めて移住された若者や家族が上京し、たくさん住んでいました。その方々は、大阪出身では、ありません。その上京者の子供達が、私の親の世代なので親から、近所話として聞いています。大阪大空襲で阪急.デパートを残し梅田周囲は焼け野原。長柄は、防空壕がたくさんあり、長柄中通りの旅館や家は燃えていません。祖母は両親から受け継いだ長柄の旅館の跡継ぎ女将さんでした。祖父は入り婿です。戦争で、旅館は閉めて、息子夫婦や親戚それぞれの住まいに分配したそうです。小さな防空壕はあちこちにあり、低空飛行機から狙撃され亡くなった方はいるそうです。両親も昭和19年の終戦前は疎開していたそうです。

    昭和40年頃~淀川周辺、国分寺、天満、天神橋商店街、長柄、梅田、難波とよく知っています。父の仕事の関係で、梅田、難波、宝塚界隈に買い物や遊びに連れて行ってもらえました。
    遊園地の乗り物、阪神、阪急デパートの屋上の遊具等の設計、企画、製作者でした。

    阪急三番街へは、徒歩で小学校1年生時代、近所の従姉妹と姉と行きました。親や親戚の話を入れ、環境の良い地域とお伝え致します。近くのカワイオルガン教室に通っていました。ヤマハエレクトーン教室に通う子もいました。公設市場のあるJR天満駅あたりは、飲み屋も多く汚れた感じの道路と環境でしたが、天六商店街は、地下鉄が開通し、吹田万博前に、きれいに改装されています。

    あのモノクロ写真、あんな感じ、あのような恰好のご夫人も見たことないです。家事中、母や近所の夫人は着物に白い割烹エプロンをつけていました。街に買い物は、買い物かごとワンピース姿。

    あちらこちら、広範囲で鬼ごっこで遊んだり、離れた地域にも友達のお家はありました。小学校時代に地道は、自宅前を含み舗装され、ほとんどありません。私が三輪車を乗っていた頃、自宅前は、時々、車やバイク、自転車の通行もありました。向かいのお宅は自家用車を玄関前に路駐していました。洗濯物を通行人に見せないように、裏の縁側に干していました。

    転居前、日曜日は、車は通行禁止デーの大阪市の住宅街規制があり、子供心に珍しい道路のペイントを見ていました。(昭和45年頃)
    大阪万博も6回以上行きました。
    でも、写真の感じ・・・どこでしょう?私が生まれる前にたぶん市営住宅はまだないように思いますし・・・?

    大きな地域ひとくくりの想像のみで話さないほうがいいと思います。当時は、開発ラッシュで一筋違いで、地域や街並みは異なります。どこでしょうね・・・?

    今の阪急梅田駅あたり(御堂筋線、梅田駅あたり)は、古いたくさんの墓地を移動し整備後、今があるらしい。難波の千日前(○○○店)、ある場所は明治まで、首切り場(死刑場)だった、と生まれも育ちも大阪の親戚や、父から子供時代に聞いています。

    天六や天満は、万博(1970年)当時からあまり変化ないですが、JR大阪や京橋、天王寺、大阪環状線界隈は、国鉄当時からは、ずいぶん新しく変わりましたね。阪急沿線はあまり変わらない。数年前より外国人が多く来ています。大阪吹田万博を思い出します。各国の方が自宅前をよく歩いていました。自宅前で毎年、正月、獅子舞が来て厄払いがありました。綺麗なちんどん屋さんも、時々、通りました。表通り(天六)には市電も馬車も通り、一度だけ母と馬車に乗って近所の和菓子屋さんに行った記憶が幼少時にあります。昔が懐かしいです。

    返信
  17. 吉本順史

    国分寺から北に行った、路地の多い場所ですが、二十年以上前、奥まった長屋の入り口に様々な葬儀用写真を挙げて、葬儀業を宣伝している家が数件ありました。
    幼稚園の西側だったと記憶しております。
    大手冠婚葬祭チェーンの勃興の時期から見なく成った様な印象が有ります。
    穢多村で無い側の生江や、赤川町四丁目、毛馬町四丁目で、よく見かけた長屋でした。
    当時、葬儀を生業としている人達がいたのに気付き、大きな墓地の近くとしての地域の事実を妙に納得した事を覚えています。

    返信
  18. Nobuhiro

    このページのトップの写真は池田町の団地ですね。天満市場の東側で長柄ではありません。
    長柄はもっと北の大川が新淀川と分岐するあたりです。
    私は昭和32年天六の川島産婦人科で生まれました。現在関東で開業医をしております。大阪に別宅ありたまに帰ってきますが天六付近を散策するとやっぱり落ち着きますね。
    子供時代は父(滋賀県出身)が当時の地名で長柄中通り四丁目に建てた一軒家で育ちました。小学校は豊仁小学校でした。当時は風向きによって長柄斎場の煙の独特の臭いが漂ってきていました。淀川の洗堰(写真)周辺や河川敷でよく遊びました。逆に天六に出れば素晴らしい商店街があり本当に住みよい場所でした。周囲は貧乏人ばっかりかというとそうでもなくて結構な地主さんがうちのすぐ近所に住んでいました。
    被差別の人たちは毛馬橋から都島橋の川べりに結構住んでいたかもしれません。当時はあまり意識しませんでした。そのあたり出身の同級生の一人は勉強が良くできて東大に進みました。

    返信
    1. 匿名

      >長柄には滋賀県虎姫地方からの移住者がホンの少し居るだけで大した事はない。
      >之れが為めに種々な点に於いて差異を生ずるが分けても一、下駄直し、靴直し、其他皮革職の前者に甚だ多くして後者に殆ど絶無なる事二、前者には眼病、トラホームの疾患あるもの多きも後者には之が患者の比較的少き事等は表面に現われた主なる差異と言って善かろう

      滋賀で木津方面のスラムと長柄のスラムの比較資料があったのを思い出したので貼っておきます。
      虎姫の部落の人達が一部来たみたいですが、長柄自体はスラム街でエタ部落ではなかったことがわかります

      返信
  19. 社会運動等標ぼうゴロ

     改良住宅=同和地区、という式は大阪の場合当てはまらない様な気がします。
     大阪市営住宅条例で確認します。

    返信
  20. ゾルば

    <この、市営住宅が写っているシーンだが、映画ではどの場所か触れられていなかった。

    そこで、読者の方が場所の特定を試みたところ、意外な場所であることが分かったという。それが天神橋筋六丁目駅(天六)の東側にある長柄である。>

    航空写真から見て
    昔の長柄市営住宅(鶴満保育所となり)と断定してますが
    違います。
    その位置から市営住宅を撮影すると
    そんな雰囲気の場所ではありません。
    先に長柄出身の諸氏が書かれていますが
    違います。

    私は昭和35年生まれ 長柄東2丁目で育ちました。
    市営住宅の南側(バス通り側)の何人も同級生が居ますし
    市営住宅内にも当然同級生がいます。
    ちなみに市営住宅の傍にあった菊水湯(銭湯)は普通の価格でした。
    その北へ5分歩いた都湯も同じくです。
    長柄には部落と呼ばれる場所はありません。
    一部毛馬橋付近にバラック地帯がありましたが
    砂利採取業を営む人たちが戦後立てたバラックが残ってましたが
    所謂、被差別部落とは違います。

    他の写真は天六駅と斎場の間の密集地あたりを撮影していますが
    あの辺りが入り組んでいるのは空襲で焼けなかったからです。
    他の地域でもそんな入り組んだ場所は見れますよ。

    返信
    1. ss

      昭和32年から約30年間長柄東に住んでいました。ゾルばさんのお話が一番あっているように感じました。貧民街と言われれば、そうかも知れませんが、それ以下でもそれ以上でもありません。豊仁小学校の東側には、広大な東洋紡の社宅があり、生徒の3分の1はそこから通学していました。東洋紡の社宅の南がわには、道路を隔てて三共製薬の大きな工場がありました。その脇にはESSOのガス給油所がありました。ちょうど毛馬橋のたもとあたりです。毛馬橋と三共製薬の間に、砂利積載船の人夫の方々のバラックがあり、結構ガラが悪かったですが、四国や九州からの出稼ぎの方々の居住地でした。その後、昭和45年ごろ都市計画の道路舗装のために三共製薬やESSOが立退になり、そこに道路と市営住宅が建てられ、周辺住民を優先的に他地域から転入者が市営住宅に入居しました。冒頭の市営住宅の写真は、建て方から見て、その市営住宅だと思います。
      #384e2ceea94cff75b1edca946a9cec01

      返信