富士市伝法には、薬の行商人の部落があったという。しかし、既に融和・解放されており、おそらくここだろうということは聞いていた。
伝法の南の、弥生通り沿いの一角である。
そして、後になって手に入れた、三島市の本行寺の寄進者の名簿。
稲木、池田、押見、下山、木間、高橋という名字が確認できる。
名字の分布を確認してみて、驚いた。最多の名字である稲木が全く確認できない。しかし、他の名字が有意に分布している。本当にここなのだろうかと思ったが、菊池山哉は次の通り記している。
○東海道を吉原の町で分岐して、富士大宮町へ向ふ街道中にある。然し現在は路線筋ではない。
○鎮守は三十番神。区長の談に、三十年前までは、八幡春日天照大神の三体であった。 三十番神は共後祀ったもので、一日から晦日まで、神々三十番を祭ったものである。祭日は十月十七日、日待ちをする。
○同氏の談に、この曲輪は,昔から伝法村の唐澤と称えた。それを何時とはなく坂本坂本と人が呼ぶ様になった。地勢が 坂だからでしょうと。
○社殿も立派だが、民家が実に綺麗である。焼けたとかで、何れも文化住宅の新築で、屋敷を広くとって居る。行商人が 多いと云ふが全四十戸ばかり、凡て裕福らしい。
富士郡には、この曲輪の外大宮町に二十戸ばかりあるが、踏査し洩らした。原田村に五戸ばかり、山の裾に位置して居 るが、番太との事であった。生活は貧しい方である。
地勢が坂ということだが、色別標高図で見ると、緩やかであるが坂になっている。
そして、菊池山哉が訪れた三十番神がある。
堂々たる社殿。40戸程度で、裕福な部落だったとすれば、納得できる規模だ。
境内が広く、祭りが行われた形跡がある。
菊池山哉は村の名前を坂本と記し、戦前の他の記録でも坂本だが、現在では「千代田町」という名称のようだ。
三十番神の南の一角が部落と考えられるが、今でも裕福そうに感じられる。特に土地が広い訳では無いが、新しく、中流の上といった感じの立派な家が多い。
川を隔てたところに、日蓮宗・妙覚寺がある。おそらくここが、部落の寺ではないかと思った。
相変わらず、稲木という名字は見えないが…
地域の名字はここから推定できる。住宅地図と照合していみると、新しい家が多いが、集合住宅を除けばあまり人は入れ替わっていないように見える。
もう多くの読者は察していると思うが。改姓がなされた可能性が非常に高い。どこかにその証拠が見つからないか、さらに現地を探索した。
再び、三十番神に戻る。手がかりはこの立派な鳥居付近にあった。
「在郷軍人青年団 坂本支部」とある。鳥居は大正10年5月に作られたもの。
ということは、菊池山哉によれば本来の部落の名称は唐澤で、坂本は俗称のような書かれ方をしているが、当時は坂本が公式な呼ばれ方だったのだろう。
鳥居の横には、鳥居の新築記念の石碑がある。
その石碑の背面に求めたものを見つけた。風化と汚れにより読みづらいが、在郷軍人の名字として、多数の稲木姓が確認できる。その中に池田や押見が混じっている。それだけではない、本行寺の寄進者名と同姓同名の人物もいくつか確認できる。
おそらく昭和初期に、稲木に限って、思い思いの名字に変えた。そして、坂本という名称も使われなくなった。それがファイナルアンサーであろう。
宮部氏に確認したいのだが、
上に掲げた本行寺の2枚目の写真は、
傳法村ではなく沼津町のものではなかろうか?
以前に掲載されたものでは、
稲木・押見・下山・池田・秋山・桑野
のはずだ。高橋はここでは関係ないと思う。
特に最後の二姓がポイントとなる。
以前に掲載されてないだろ。紛れもなく伝法村坂本だよ。
#e7208553c740ef0257ab698eb7212511
宮橋がXに掲載した本行寺の別の写真の方でしたな。
ちなみに上掲の鳥居の新築記念の石碑の写真の中央に桑野姓が読み取れる。
やっぱり沼津町の続きの写真ですな。
高橋も本間もここでは関係ない。
宮橋って誰やねん
よくあんな不鮮明な画像で桑野を読み取れたな超能力者か
#e7208553c740ef0257ab698eb7212511
最下段だ。
貴殿や宮部氏のジグザグに折り返す様な読み取り方だと、写真中段の左寄り
長岡村
(前略)
金 五拾銭 稲毛岩𠮷
(下段に折り返し)
金 貮(二)円 池田清太郎
奉納額が50銭から2円に増え、多額を寄付した者が序列で後ろとなることになる。通常この様な書き方はしない。
従って板の分け目は無視して、右から左にそのまま読んでいけば良い。
そもそも姓の内訳を見れば明らかだろう。
稲木義光と寄進者にあるね
https://twitter.com/Sq11vkjjGSgYDU2/status/1763265962160394658?t=SQjOMMIqgDahjI2XukyrmA&s=19
#bcf09e5dff84051abf7c2f5ea477e35b
森町天ノ宮と森町森が気になるが、
字 忠衛門新田(別名下川原新田)は、南町公園の周辺、太田川の堤防上の道(大堤道)に面した一画だろう事までは判明した。付近にはI貝姓がいるが、土着かどうか分からん。
天ノ宮の姓は今でも在住。毛皮は儲かるのか豪邸。
森の姓の方は掛川からの入植と出店か。今は居ない。
要は板の分かれ目は無視して、
左から右にそのまま読んでいけば良いはずだ。
右から左の間違いでしたな
長谷姓は浜松市や袋井市岡崎だろ。
森町は同和姓の西堀は玉澤は北の山際に多い。
南町だと加藤姓が多い。
#e7208553c740ef0257ab698eb7212511
太田忠右衛門
https://dl.ndl.go.jp/pid/1024472/1/513
この人は何でしょう?
あ、忠右エ門新田の部落ですか
当の新田開拓に携わった太田忠右衛門の末裔かと。現在も在住。
曲輪自体は南町公園付近であったかと推定。散在して現存しているかは微妙。
毛皮屋や米屋(前掲のリンク参照)の北川姓の可能性はゼロではないと思う…。
忠右衛門新田(別名 下河原新田 byコトバンク)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1718954/1/362
「大堤道(大堤通り)」は太田川堤防上の道。
「作場道」は田畑に行くために利用する農道の一般名称。当地では、森町下宿(旧下川原町)~新田間の「新田下宿線」に相当か。
”森町 新田下宿線”で検索。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905149/1/88
「町から少し離れた忠右衛門新田という所に(中略)色々な骨を拾い集めて…」
焼場を田畑の真中には置かないであろうから、河原か。
鈴木姓は確認、火事で移住したか
磐井市国府台の玉澤姓が山の方に移住は中泉代官の影響かも知れない
南町公園より北の屋台倉庫じゃないのか
太田さんは苗字帯刀御免の頭かな
子孫が次郎柿を売っているから買ったついでに聞けばよい
https://twitter.com/Sq11vkjjGSgYDU2/status/1767139026472206337?t=KhJSzQ-1FFH1tmGsB_hnRQ&s=19
https://i.imgur.com/aO3s7q5.png
https://i.imgur.com/mCnuODM.jpeg
#bcf09e5dff84051abf7c2f5ea477e35b
忠右衛門新田(別名下河原新田)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1718954/1/362
「大堤道(大堤通り)」は太田川堤防上の道。
「作場道」は田畑に行くために利用する農道。一般名称。
当地では、森町下宿(旧下川原町)~新田間の新田下宿線に相当か。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905149/1/88
「町から少し離れた忠右衛門新田という所に(中略)そこへ行って色々な骨を拾い集め」
田畑の真中には置かないであろうから、焼場は河原か。
以下は全てネット上の情報だけの私見。
・曲輪は袋井警察署森分庁舎の隣、
南町公園を含む一角、
太田忠右衛門の敷地の南側ではないかと推定。
・但し既に散在後の可能性もある。
・毛皮屋や米屋(前掲リンク:「紳士録」内参照)のK姓の可能性もゼロではないとは思う。
・加藤姓は下宿から開発に従事した一般農民ではないか。
森町史資料集等がネットで閲覧可能になるには、当面時間が掛かりそうなので、後は宮部氏の現地レポートに期待したい。
『図説森町史』は10年くらい前から、森町HPにて閲覧できます。当町は民間陰陽師で有名なところですね。
#d838f5830e177d0606c03864d094eb75
読みたいのは町史より、それを作る際に使った資料集なんですよ。特に『森町史資料第二集』とかですね。
https://www.town.morimachi.shizuoka.jp/gyosei/machinososhiki/shakaikyoikuka/bunkashinkogakari/2/1089.html
鈴木姓は確認、火事で移住したか
磐井市国府台の玉澤姓が山の方に移住は中泉代官の影響かも知れない
南町公園より北の屋台倉庫じゃないのか
太田さんは苗字帯刀御免の頭かな
子孫が次郎柿を売っているから買ったついでに聞けばよい
https://twitter.com/Sq11vkjjGSgYDU2/status/1767139026472206337?t=KhJSzQ-1FFH1tmGsB_hnRQ&s=19
https://i.imgur.com/aO3s7q5.png
https://i.imgur.com/mCnuODM.jpeg
#1416f54d259e82f6a205859e6b2479b6
鈴木姓が居たが火事で移住かな
https://twitter.com/Sq11vkjjGSgYDU2/status/1767139026472206337?t=KhJSzQ-1FFH1tmGsB_hnRQ&s=19
https://i.imgur.com/aO3s7q5.png
https://i.imgur.com/mCnuODM.jpeg
#1416f54d259e82f6a205859e6b2479b6
鈴木姓が居たようだ。
南町公園よりは南町屋台倉庫辺りだろ。
忠右衛門の子孫が次郎柿を売っているから買ったついでに聞けばよい。
https://twitter.com/Sq11vkjjGSgYDU2/status/1767139026472206337?t=DlrfAHkW1ZMfb1qpDsVCeg&s=19
#b2109520b70b17a772b691cba6d53d7c
これ読むと、廃案になった新田下宿線が元々の太田川の左岸に相当したんではないかなと。堤を作って川の流れを東に寄せて、河原だった所を新田にしたとかね。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1718954/1/362
鈴木姓は、曲輪に骨拾いに行ったのが鈴木藤三郎氏だから、何とも言えない。
日本製糖業の父、鈴木藤三郎も本姓は太田姓で、5歳で菓子商の鈴木家に養子にいって鈴木姓になっている(解放令より10年位前)。
この実家は旧下河原町(下宿)の西光寺(森473)の辺りにあって近年は食料品店だった模様。もう無いけど。
なので、一般の鈴木姓と被って「鈴木」を名乗られたら、多数姓だけに自分はお手上げです。
警察署の川向いに住んでるI貝さんか、太田忠右衛門の子孫さんに宮部氏が聞きに行ってくれればいいかなとw
昭和十年(1935年)時点で、11 戸 73 人 農業 中程度。
比較的近い、1938年の地図だとこんな感じ。
下河原新田
しもがわらしんでん
静岡県:周智郡森町下河原新田
[現在地名]森町森
太田おおた川の右岸沿い、森町村の南にある。周知すち郡に属し、別名忠右衛門ちゆうえもん新田ともいわれる。宝暦六年(一七五六)森町村忠右衛門と粟倉あわくら村久兵衛が太田川の川成地四町歩余の開墾計画を立てた(「済口証文」山中家文書)。開発にあたり借金が増えたので、明和三年(一七六六)久兵衛は「忠右衛門新田」内の持高二分五厘の半分、一分二厘五毛を三〇両で森町村勘左衛門に譲り渡した(「新田譲渡証文並に新田沙汰書」太田家文書)。
ローソンの東だろう。
#b6a147ee45987d957fd66a2258b6dce4
投稿を急に承認制にしたから内容が被る
同じ内容の投稿は削除しろよ
#b6a147ee45987d957fd66a2258b6dce4
玉澤姓というと、三ヶ日釣・日比沢もそうですかねぇ。
日比沢城の跡地に2000年までは伊藤姓がいたことは電話帳で確認出来てるけど。
5頁目下2行目
https://aue.repo.nii.ac.jp/record/7261/files/kaihatsu71930.pdf
日比沢城の跡地よりは、本坂通り(姫街道)と旧姫街道が分岐する玉澤姓の住んでいる辺りの方がそれらしく思える。
三ヶ日町は全国部落調査では釣日比沢だが戦前に融和事業をしたのは釣。
釣に井口姓が多いが山論で越訴して処刑された日比沢村の庄屋筋らしい。
玉澤姓もあの辺りは中泉代官の管轄だからか。
#bcf09e5dff84051abf7c2f5ea477e35b