学術・研究:部落探訪(161) 三重県桑名市下深谷部“第四区”

アバター By 鳥取ループ

桑名市下深谷部は三重県の代表的な部落の1つである。1934年の記録では「第四区」という地区名で268戸。

また1923年の「大谷派地方関係寺院及檀徒に関する調査」によれば、300戸で、寺は南楽寺とある。

現地を訪れて目についたのは、太鼓屋がいくつかあることだ。

「下深谷部」という行政区画には多数の家があり、過去の航空写真を見ても昭和初期には確実に300世帯をはるかに超える規模の集落だった。「第四区」とあるのは、その中でも一部が部落であるという意味と考えられる。

集落の中心方向に向かうと、脅し文句のような人権標語が掲げられた建物が。遠くからでも同和施設と分かる。

率直なところ、かつての下深谷部は評判がよくなく、数十年前は地区内で事故を起こすと面倒なことになるので、通勤等では避けるように周囲の企業では注意されることがあったという。

これも昔のことであるが、近くのガソリンスタンドで1人アルバイトを募集して、下深谷部から2人応募があったので1人を採用しなかったら、後で差別だと言いがかりを付けられたという。

建物の周囲は区画整理された住宅地だが、見た目ではここが同和地区なのかどうかは分からない。

寺に向かって歩くが、ごく普通の住宅地である。

これが部落の寺として大谷派のリストに掲載されている南楽寺。確かに東本願寺の寺である。

寺の周囲は細い道が入り組んでいる。しかし、ここは部落ではないように見える。道が細いことは部落である証拠のように思われるかも知れないが、一方で同和事業の対象となっていない証拠でもある。

デジカメの設定を間違えてブレてしまったが、ここが墓地。「西塚」という名字が見られる。この名字は集落の西側、下深谷駅付近に分布しており、そこは明らかに部落ではない。

ここで考えられるのは、 1つは大谷派のリストは間違っているのではないかということ。もう1つは南楽寺はいわゆる「穢寺」ではなく、単に賤民を分け隔てなく受け入れていたのではないかということだ。

とすると、寺の周囲はやはり部落でない可能性が高いのではと思っていると、「クロンボ理容室」という床屋を見つけた。これは由来を聞かないわけにはいかないだろう。

店主によれば、今は二代目で店は戦前からあるという。そして、「クロンボ」の由来はまさに黒人の意味であり、床屋は髪がないと成り立たない商売だから、薄毛が少ない黒人にあやかったということなのである。

他のクロンボは「ダッコちゃん」が流行った時期の創業が多かったが、ここはそれよりもはるかに歴史が長く、文字通り黒人を意味するという点で、珍しいクロンボである。

集落の東の方に歩くと、ニコイチ群が現れた。どうやら、下深谷部でも南東の辺りの一角が本来の部落の場所だったようである。小字で言えば「南高砂町」である。

また写真がブレているが、ここも太鼓店である。

さらに国道258号線を渡って歩いてみた。地元では国道の東側が同和地区であると言われているそうだ。しかし、過去の地図では戦後間もない頃まではこの辺りは田畑が広がっていた。同和対策のために、ここに用地を確保したと考えられる。

ここは秋葉神社。境内には多数の祠があり、おそらく開発のために、周囲にあった神社をここにまとめて合祀したといった感じがする。

ここは児童館かつ教育集会所。これで、ここも同和地区であることが分かる。

一方、こちらは自治会館のようなもので、同和施設ではない。

さらに東へと進むと、揖斐川の堤防に達する。

そこに「誓元寺」があるが、この寺は戦前の地図には載っていない。今でも「深谷道場」と看板が掲げられている通り、寺ではなく道場であったためと考えられる。浄土真宗の寺ではよくあることである。

宗派は真宗高田派。甚目寺の部落でも見られた宗派だ。南楽寺よりも、むしろこちらの方が部落の寺ではないのだろうか。

ゴープロとデジカメで撮影しながら周囲をうろうろしたが、特に通報されることもなく、言いがかりを付けられることもなかった。かつての悪い評判は、少なくとも今では当てはまらないだろう。

周辺は平屋根の改良住宅、屋根付きの改良住宅、持ち家が入り混じっている。

これは水道施設。

そして、ここにも教育集会所がある。この部落には教育集会所が2つあるのだ。

児童館があれば、老人福祉センターもある。

さらに歩くと、前述の人権標語が掲げられていたのとは別の市民館が。

ここも同和施設である。つまり、隣保館が2つあるということだ。このことからも、この部落の規模の大きさが分かる。

さきほどの市民館の近くには墓地があり、周囲には散歩道が整備されていて、イヌを散歩させている人の姿が見られた。

やはり浄土真宗が多く、名字は様々である。多くの人が集まってきた地方都市労働型部落と考えられるが、甚目寺の部落でも見られた「加藤」「堀田」という名字がいくつか見られることから、東海地方の部落は互いに繋がりがあったことが分かる。

学術・研究:部落探訪(161) 三重県桑名市下深谷部“第四区”」への8件のフィードバック

  1. アバター山野

    よく「過去の地図を見てみると」とおっしゃられてますがどのような地図を見ているんですか?

    オックスフォード大の地図ですか?

    返信
  2. アバター放浪ら 流民

    「今昔マップ on the web」で検索してみて。
    昔の部落の地名知ってたらすごく便利やし。

    返信
  3. アバター小牧市民

    おはようございます、次回は是非とも、桑名市のそちらの地区から移住された方が多いという愛知県小牧市元町の部落探訪を宜しくお願い致します、結構規模も大きく、水平社も組織されていたのに未指定地区のままだったのかも謎です、地元民でそこが部落であると言う事を知ってる人は誰もいません、また彦根からの移住者も多く、「井伊」姓が多いのも特徴的です、是非とも宜しくお願いいたします!

    返信
  4. アバター通りすがり

    小牧市民様

    井伊の人名力見てみると彦根から愛知県小牧市へ移り住んでる記述があって驚きました。
    ただ、一つ変なのが人名力には1573年から1592年の間に移り住んだというのが書いていましたが、彦根に井伊家が来たのは1600年関が原の戦いの後で、書いてある時代はまだ石田家が治めていました。

    確かに調べてみると面白いかもしれません。

    返信
  5. アバターレレレ

    人名力には明治新姓と書いてあるから関係ない、
    桑名市から来たのは藤堂姓だが今は一軒も存在しないのではないかな。
    そして下深谷部から来たとは限らない。
    元町の神社に衆議院議員の早稲田柳右衛門の名前が刻まれた石碑があるが宮本さんに早稲田姓が善隣である根拠出典を聞いてくれないかな鳥取ループ。

    返信
  6. アバター水谷

    私の記憶ではたしか下深谷部村は一村まるごと穢多村だったはず。
    穢多部落の人口爆発も認められないくらいに心が狭いか鳥取ループ。

    返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo