学術・研究:部落探訪 (132) 山口県岩国市周東町 獺越久杉儀正堂・三瀬川東日成

アバター By 鳥取ループ

岩国市の部落を研究しているという方に招かれ、筆者は岩国市を訪れた。まず、興味を持ったのは旧周東町の少数点在部落である。特定は困難と思われたが、幸いにも特定に成功した。

1935年の記録では、周東町 久坂 儀正堂に3戸の部落があるとされる。しかし、久坂は久杉くすぎの誤りと考えられる。周東町獺越おそごえの小字久杉の辺りをグーグルの航空写真で見ると、森の中のやや孤立した場所に家が見える。過去の航空写真、地図で調べるとこの家は確かに戦前からあり、しかも当時は3戸あったように見える。

この近くには、安倍総理がアメリカのオバマ前大統領に贈ったことで知られる獺祭の製造元がある。その脇を通る道から目的地に行けると思ったのだが…

土砂崩れにあったようで、封鎖されていた。

しかし、航空写真では確かに家や畑があるので、どこからか入れると思い、別の道を探した。これは丹生河内神社。この上に社殿があるのだが、参道は荒れ果てていた。

神社の近くに山の中へ入る道があったので、歩いて進んでみると、何か開けた場所が見えてきた。

実際に行ってみると、想像以上に孤立感がある。しかし、道路や畑は手入れされていて、人の気配がある。

男性と鉢合わせたので「ぎせいどう」という地名をご存じないかと聞いてみたが、知らないという。ただ、よく聞いてみるとこの辺りは「ぎしょうどう」と言うそうだ。60代の男性は漢字表記は知らなかったが、 儀正堂 は確かに「ぎしょうどう」と読める。つまり、この場所で正しかったわけだ。

ここにはもともと横田という家があり、そこから中原という家が分かれ、横田家は出ていったという経過である。確かに部落と言われていて、戦前にここに婿養子に来た人が本家から勘当されたということがあったそうだ。

主な職業は農業で、生活は豊かというわけではないが、男性は生まれてこの方部落とか差別といったことは全く知らなかったそうだ。

しかし、ちょうど同和事業が始まった時期である1960年代末頃のこと、男性が結婚しようという時に、親戚の社会党市議から「あんたんとこは部落だけえ、お祝い金が出る」という話を持ちかけられたという。そして、事情をよく理解しないまま、市議が手続きしてくれ、祝い金を受け取った。

部落ということを初めて知ったのはその頃だが、それっきりで、祝い金を受け取った以外は同和事業の恩恵を受けたことはないし、相変わらず部落とか差別ということを気にすることもなく過ごしてきたという。そして、今はここに定住しているわけではなく、別の場所から時々家や田畑の手入れに来ているという。

何とも不思議な話だが、ともかくここが 儀正堂 で間違いないということだ。

元住民によれば、なぜ部落と言われたのかは分からない。ただ、研究者によれば古文書にこの辺りに米七斗3合九勺五才の手当を受け取っていた牢屋番兼務の宮番がいたとの記録があり、それが該当するのではないかという。

次に向かったのは、三瀬川さんぜがわの小字、ひがしという地区である。手がかりは「日成」という地名で戸数は9、砥石堀りをやっていたということだ。

研究者も正確な場所は知らないというが、手がかりとしては周東町の砥石屋で「松ノ木」という姓の人物がいたということである。そこで、過去の電話帳を調査して 「松ノ木」 という姓がある場所に来てみた。

この家は人はおらず、どうも倉庫として使われているようだ。

あの墓はもしや…

茂みの奥にも墓があり、確かに「松ノ木」という墓石が見られる。

これ以上手がかりはないと思い、車で戻っている途中に、農作業をしている男性とすれ違った。「にっせい」という地名を知らないか聞いてみたが、知らないという。ただ、この辺りの地名を聞くと「ひなる」と呼ぶということだった。

この男性も漢字表記は知らなかったが、確かに日成は「ひなる」とも読める。

向こうに見える家の辺りから、さきほどの墓の辺りまでが東の日成なのだという。

ちなみに、ここに砥石を扱っている家があったが、もうなくなったという。

部落ということについては、確かにそのようなことが言われていたが、戦前までのことで、今となっては全く言われていないそうだ。ここも昔から主な職業は農業で、現在は10戸程度の東の中でも日成だけが何か違うということもなかったという。

学術・研究:部落探訪 (132) 山口県岩国市周東町 獺越久杉儀正堂・三瀬川東日成」への7件のフィードバック

  1. アバターA

    推理小説みたいで非常に面白いですね。ぞくぞくします。

    島根県あたりにも一戸だけの小数点在部落があちこちにありますが、人の動きが少ない過疎地域では、特定は案外容易なのかもしれません。

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  2. アバター中世史愛好家

    >>研究者によれば古文書にこの辺りに米七斗3合九勺五才の手当を
    受け取っていた牢屋番兼務の宮番がいたとの記録があり・・・

     『熊毛宰判本控』 「一、同七斗三合九勺五才 牢番茶筅の者弐人・・・」
    正確には「宮番」ではなく、「茶筅」ですね。尤もその役目には大差は
    なく呼称の違いぐらいの様ですが。

    返信
    1. アバター中世史愛好家

       上記の文は「三瀬川村」に関する記述ですが、もう一度読み直して
      みると鳥取ループ氏のレポートでは「獺越村」の儀正堂に対しての記述
      となっていました。
       儀正堂の方は、その名称からある様に宮番でよいのかと思いますが、
      「七斗三合・・・」のくだりは三瀬川村の方を指していると思います。

      返信
      1. アバター鳥取ループ 投稿作成者

        原典に当たって頂きありがとうございます。地元研究者の方は獺越と三瀬川を混同していたのかも知れないですね。

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