曲輪クエスト(344) 沼津市 中沢田 “下村”

カテゴリー: 曲輪クエスト | タグ: , | 投稿日: | 投稿者:
By 宮部 龍彦

NewsChallengerより

ここについては、旧金岡村、現在の沼津市という程度のことしか分からず、特定が困難であった。

戦前の記録にあるのは、金岡村に下村という11戸の部落があったということだけである。職業は農業と草履作り。

菊池山哉は『長吏と特殊部落』に次のとおり記している。

○岡宮村と澤田村に属して、中間に位し、村の中央最高所に居住して居る。そして同じく下村と呼ぶ、から下村の名義が地勢的でなく、地理的でない事が、明瞭りして居る。

沼津の平野から新東海道を、一望の下に集めて、風光晴やかである。

○鎭守は三十番神、番神様と呼ぶ。末社に八幡神と山神が祀られて居る。

○大屋の墓から出たとて、室町頃の宝筐印塔がある。から曲輪は江戸のものではない。最も新東海道は慶長頃のものであらうから、以上の三曲輪が、旧道に座する限り、戦国時代からの繋がりであらう事は推定し得る。十二戸ばかり。岡宮村とは熊野神社が岡にあるから出たものらしく、同社には六百年近い楠の大木がある。古村には違ひない。

しかし、これを見たところで、やはり旧金岡村のどこかという程度のことしか分からない。

旧金岡村の範囲は歴史的行政区域データセットで分かる。

それをもとに、同じ名字が集まっているところ、あるいは改姓の可能性も考えて不自然に平凡な名字が多い場所を探し、いくつか候補を見つけたが、いずれも決定的な決め手にかける。

調査は行き詰まりかけたが、思わぬところから決定的な手がかりが出てきた。三島市日の出町の本行寺の寄進者名簿である。これは貴重なものだと聞いていたが、実際にそうだった。

澤田村は「角田」という名字ばかりである。

そして、現在の中沢田と西沢田の境界辺りに、角田が集まっている場所がある。この場所で間違いないだろうと確信した。

現地を訪れて、駐車場はないか付近の住民に聞いて、ついでに『長吏と特殊部落』の記述と本行寺の寄進者名を見せると、「角田さんはそうだったと親から聞いたことがある」という証言が得られた。読み方は「カクダ」だ。

とりあえず子ノ神古墳に行ってみると、確かにここは高台で「風光晴やか」である。ただ、角田が集まっているのはここから少し下りたところである。

角田の家はどれも大きいが、際立って大きな、まさに豪邸がある。そして気になるのは庭にある小さな建物だ。これは菊池山哉が記した番神様ではないか?

確かにこれは三十番神である。ただし、御神体を寺に返したので、中はからっぽになっている。そして、あの豪邸こそが「大屋」だ。

本行寺の寄進者名簿には見覚えのある名前があるとの証言も得た。ただし4代も前で明治の頃の人だという。

本行寺は半ば廃寺になっているので、現在は三島市の円明寺が菩提寺であるという。

これはただの屋敷神の稲荷神社で…

この石碑と祠も部落とは関係ないようだが、これは古墳ではないかという。

目立った川はないが、水が湧いている。

昔ここに神社があったということだが、それが菊池山哉が記した八幡神社であるという確証はない。

現在は5戸程度。どのような役割があったのかは分からない。下村という名称も忘れ去られているか、あるいは意図的に伝承されていない様子であった。

山神について尋ねていると、ここに案内された。ただ、ここはさきほどの場所からはかなり離れており、付近の個人が管理しているものだという。これについても、菊池山哉が記したものかどうかは分からない。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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曲輪クエスト(344) 沼津市 中沢田 “下村”」への38件のフィードバック

  1. 匿名

    人権探訪と言えども。直接部落の人や近隣の人と人権について話せてないのが残念ですね。
    いつものことですが、、、いつになるやら、、、、
    取材力無しなんでしょうかね、、、、、、
    下味野の訪問は春先だとユーチューブで語ってましたね。数多くの親族、知友人などな人権取材してきてください。期待してます。
    宮部氏は解同などとは部落の歴史で主に争ってるわけでは無く、今ある差別の実態などを元に争ってんだろうから。部落の人との会話も必要だし、その近辺に住んでる方はどのように部落を見てるかなどの取材が必要ですよね。ユーチューブで実査の大切さを述べてますが、残念ながら現在の差別実態の取材等できてないですね。

    #d4bc88d3d01c668cb39bd6147a0c5327

    返信
  2. 匿名

    少し今回の記事について
    宮部さん「沢田部落の強制移転」について全然触れてませんね。なにしに行ったのでしょうね???
    次から次への行き当たりばったりの訪問は止めたら、いかがか?
    人権問題はセンシティブな問題です。あなたのような浅学では?????
    #d4bc88d3d01c668cb39bd6147a0c5327

    返信
    1. 匿名

      どうでもいいよそんなの。
      文句ばかり言ってないで、必要なら自分たちでやればいいのでは?
      #45d5c0c8eb50d736815eff629c37a749

      返信
      1. 匿名

        #45d5c0c8eb50d736815eff629c37a749へ

        この探訪で何を君は期待してるの???

        #d4bc88d3d01c668cb39bd6147a0c5327

        返信
        1. 匿名

          あるある詐欺の実態を少しでもわかればと思ってますが。
          あとはもう昔のような差別なんてほぼないということを実感できる楽しみもあるかな。
          こんなもんでいいですか?

          #45d5c0c8eb50d736815eff629c37a749

          返信
          1. 匿名

            #45d5c0c8eb50d736815eff629c37a749
            それの証拠と根拠づけのためにも、
            部落民、近隣の住民、差別実態調査などの取材は欠かせませんね。何故、宮部氏はしないんだろうね???
            #033414d7da83c9679cfe6a89ba718da6

    2. 酒匂太郎右衛門

      この地区は、旧東京人絹沼津工場(現フジクラ沼津事務所)に関わる移転対象エリアではない。
      路地の曲がり具合や古地図を見れば、旧来からの居住地と見てよいと思う。

      返信
  3. kohlinpencil

     菊池山哉さんの研究は、こと沼津に関しては、ピリッとしない部分がありますね。おそらく、現地の案内人に恵まれなかったのではないでしょうか。

     というのも、誤りではないかと思われる箇所があるからです。

     以下、菊池山哉『長吏と特殊部落』上巻からの引用です(137ページ)
    「十九、駿東郡、沼津市、本町

    ○本町というから、沼津としていちばん古い町である。今は街の真ん中で、細工屋、靴屋、太鼓や、肉屋等雑業が多い。特異な曲輪の一つである。三十六戸ばかり。

    ○鎮守は八幡神、境内安産守護子持石なる大石がある」

     引用ここまで。

     これは菊池山哉の調べ間違いではないかと思われます。文化3年の東海道分間延絵図に載っているのは、位置的に明らかに末広町であり、付近に八幡神社もあります。本町には八幡神社はありません。また、昭和10年『全国部落調査』には、本町の記述は全くありません。

     子持石は、現在は末広神社の中にあります。もともと子持川畔にあったから子持石なのであって、八幡神社にあったというのは誤りではないかと考えます。

    #72af063342c721c2de6b88da5a921966

    返信
  4. kohlinpencil

     この地図は、文化3年の東海道分間延絵図からトリミングしたものです。

     地図の左側の川沿いに「穢多村」と明記されております。ここが現在の、沼津市末広町であると比定しております。

     今とは道の付き方が違っております。いまでは「穢多村」と書かれたあたりと、右下の永明寺、大聖寺との間は、東西を走る道(御成橋につながる)で分断されております。

     位置関係からすると、「本町」は、永明寺・大聖寺の真東であって、「穢多村」の位置とはまったく異なります。

     菊池山哉の著書には、現地写真もありません。ひょっとしたら自分では現地に赴かず、土地の人から受け取ったレポートを元に、記事を執筆したのではないでしょうか。
    #72af063342c721c2de6b88da5a921966

    返信
  5. 酒匂太郎右衛門

    宮部殿も、どうやら小土肥に辿り着いたようですね。
    日鹿稲荷神社や例の宿へは尋ねられましたでしょうか?
    ちなみに村はずれ(字:出口)の方の一軒は、屋号を「下駄屋」と言って、三島で修業を積んできたのだそうです。

    返信
      1. 匿名

        当姓は、三島では下男下女を抱えた「大屋(頭目)」だ。この件は三島の墓地を丹念に確認していけば判る。
        個人的には「三郎右衛門」の家系ではないかと推察している(とすれば駿州の最重要姓だ)。
        近年とは言え、浜松の名残町との婚姻関係もあった様だ。

        返信
    1. 宮部 龍彦 投稿作成者

      日鹿稲荷神社は行きました。
      例の宿と「下駄屋」は知りませんでした。
      どこのことでしょう?
      #2dda0b8a6aea5bf26e051983ef20a161

      返信
      1. 酒匂太郎右衛門

        日鹿稲荷神社を小土肥の方に下った所に、墓地を背後にした旅館がありますね。
        頭目自体は東京に行かれたようですが、一族ですな。

        返信
      2. 酒匂太郎右衛門

        済みません。
        今資料を確認したら「三島で修業」じゃなくて、「沼津で修業」の間違いでした。

        返信
      1. 匿名

        エビデンスは無いが、阿原田ではないかと考えている。
        特に八幡神社の周辺だ(何やらそれらしき姓も…)。

        古い地図を見ると、
        亀石峠を越えて天城街道(下田街道の一部)に至る道は、
        本来はこの八幡神社の前を通り道だった様だ。

        『北条家革作役朱印状』に記載の革作居住の地を見ていくと、
        伊豆半島を南北に縦断する下田街道を芯として、
        古村に向けて葉脈の様に延びる支道に沿った形で配されてる様に見える
        (その根元が三島)

        伊豆の交通網は、天候不順で当てにならない海沿いの道より、
        この下田街道を中心としていたと聞く。

        ただ、宇佐美は白山堂もそうだが、
        早い段階で足洗い・農化してるのではないだろうか。

        返信
  6. 酒匂太郎右衛門

    『安永六年(1777)八月 岡宮村明細帳』に記載のある四軒(と番太壱人)は、花園町で八幡神社を抱えた家のある所だと考えてます。当地にはここで紹介した姓も住まわれている様です。

    次は椎(地)路村 東久保のレポを期待してます。
    以前ここを尋ねた時には、当地の墓地に一つだけ古い該当姓の墓を見つけました。

    返信
    1. 匿名

      ここでも、先祖を江戸期まで遡ろうと思えばできるにですね。
      #d4bc88d3d01c668cb39bd6147a0c5327

      返信
    2. 宮部のサイトで勿体ぶって書くなボケ
      初めから実名書けないヘタレなら書くなボケ
      #08981a494b4001c35fed3e82c8cb77c0

      返信
      1. 復活したQeQだって実名で書いてるからなw
        実名で書けないなら初めから書くなよカス
        #1797eb22792a4707fc3057f2b9266e88

        返信
        1. 匿名

          >実名で書けないなら初めから書くなよカス

          あなた誰?
          しょうがないでしょ、宮部氏が雑だから肉付けやコメントしてるのでしょ。感謝しないといけないと思うよ。
          ちょっとかじっただけで、その部落を語ろうなんて無理だし、住人に失礼だし間違った情報を流布しかねないよ。
          行き当たりばったりじゃだめです。
          宮部氏にかけてる物
          1.周到な事前準備
          2.現地調査
             ・数多くの人に取材
             ・役所の人権部署・教委などの訪問
             ・郷土史 図書館 人権センター?
             ・部落民の記事への反応(全国公表することへの意見なども)
             ・他 
          3、記事を立ち上げる前の崇高、裏どりの確認

          勝手に訪問して、勝手に記事書いて、勝手に勝利したと喜んでる場合でしょうかね???

          笑われてますよ宮部さん

             

          #d4bc88d3d01c668cb39bd6147a0c5327

          返信
        2. 匿名

          あれはフォロワーであってQ氏じゃないでしょ。
          (十日市場については同様の誤認ををしてる様だけど)
          Q氏だったら池辺の場所を最初から間違えてないし、新編風土記にも記載のある佐野姓まで認定しないでしょ。

          返信
    3. 宮部 龍彦 投稿作成者

      天爵飯成護法神社の付近でしょうか?

      #2dda0b8a6aea5bf26e051983ef20a161

      返信
      1. 酒匂太郎右衛門

        そういう事でしょうね。
        三島と入江南町からも入植してますね。

        返信
  7. kohlinpencil

     「沢田部落の強制移転」との関連を指摘しておられた方がいましたが、片倉要一『沼津史談39号』「沢田部落強制移転の顛末 下」(昭和63年)によりますと、昭和17年に強制移転された沢田部落は、現在の沼津市沼北町一帯であるそうです。

     宮部様の取材エリアは、静岡県沼津市西沢田673の子ノ子神社周辺ですから、地域的に結びつきがありません。

     菊池山哉のいう「沼津の平野から新東海道を、一望の下に集め」る、「村の中央最高所」という条件には、まったく当てはまりません。

     また、強制移転させられた沢田村の住戸名も、『沼津史談』には公開されていますが、(沢田部落移転記念碑)そこには、「角田」姓はひとつも見当たりません。

     さらに、菊池山哉が記述する「履物屋」も、その住戸の職業の中にはありませんでした。

     したがって、「強制移転」の一件は、ここで扱う特殊部落とは無関係とみるべきではないかと思います。

     子ノ子神社は古墳跡なので、古くは墓守が賤民とみなされていたことを考えると、宮部氏のセンスは正しいのではないかと感じます。

     子ノ子神社には、石棺が出土したという説明板もあるそうですが(発掘調査等では発見されたという記録がない)、かりに石棺が事実だとしたら、伊豆長岡の車坂の例と共通するものがあります。
    #72af063342c721c2de6b88da5a921966

    返信
    1. 匿名

      地元で取材、調査しないからこうなる。
      人おとりの耳学問では??
      やり直し!
      #d4bc88d3d01c668cb39bd6147a0c5327

      返信
  8. 酒匂太郎右衛門

    沼津の当該地については、末広町南側の永明寺付近で確定済み。
    本稿とは別に公開された「本行寺 本堂改築喜捨芳名の写真で、
    ・稲文商店(履物卸問屋・現副島姓)→稲木文太郎
    ・中井太鼓店(旧稲由太鼓店)→稲木由蔵
    まで判明している。
    山哉もそうだが、日本全国調査などと風呂敷を広げると、どうしても大雑把になるのは仕方が無いだろう。
    まして、情報・交通共に現在ほどインフラが整ってたわけでもない。

    返信
  9. 酒匂太郎右衛門

    そう言えば「西伊豆を制覇」と仰ってましたが、
    松崎町宮内は取材済みなんででしょうかね?
    鎮守の八幡神社は近年無くなってしまった様ですけど…。

    返信
  10. 匿名

    愛知県半田市成岩地区の部落を調査して欲しいです。
    #d0fe0451c4b4b465da3821565e68f5e8

    返信
    1. そんなもん人権連の丹波さんが書いている
      お前が無能で見つけられないだけ
      リクエストするな
      この部落の情報だけ書け
      #1797eb22792a4707fc3057f2b9266e88

      返信
  11. 部落タマリ

    沢田部落の「部落」は被差別部落をさすものではないと私も認識しています。
    それと宮部さんは、ちゃんと近隣住民に聞き込みをおこなっております。
    私はご一緒させていただいたので。
    この区域については、最初にお会いした方に全部お教えいただきました。
    その後、区域内でも幾人かにお話を伺っています。

    何故書かないかは、おそらくは配慮でしょう。
    マスメディアが情報提供者を守るのは、正しい方向性ではないかと。

    それはそれとして、静岡に関しては菊池山裁があてにならない、
    という意見には私も同意します。おそらく宮部さんも同意するでしょう。
    そういう意味でも、探訪は必要なのではないかな、と思います。

    返信